Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を読んで:マネジメントの問題なのだろうか?

2019年11月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を頂きました。これを読んで、私は色々なことを考えました。そこで、この書が切っ掛けとして、今、カトリック教会に何が起こっているのか、ということの考察を書こうと思います。

著者の野村よし氏は、司教たちの反論を期待してこの本を書かれておられ、「信徒は、(…)教会の利害に関することがらについて自分の意見を表明する権利を有し、時にはそうする義務がある」(教会憲章)に基づいて発言されています。私の理解が正しければ、著者は教会の利益のためにこの著作をなしたので、多くの議論を期待されておられ、私にも一言、書くことが許されていると信じています。

野村氏の論点は、明確です。
●ある「目的」に向かうには、それを実現させるために最善の「手段」を選ぶべきである。
●司教団は、「福音宣教」を至上の目的としている。
●しかし、宣教は停滞している。
●しかも、司教団は、宣教のために害になるような発言を繰り返していた。
●しかも、ある目的を立てて、それが達成できなかった理由を検討した痕跡はない。
●従って、私たちは宣教沈滞の理由を分析すべきである。
●宣教という目的に役に立つことをしてこそ「誠実」である。宣教に役に立たないことをいくら立派にしても、それは「誠実」ではない。

野村氏の分析によれば、司教団は、日本人の「福音宣教」のために絶対必要条件である「信頼されること」よりも、特定の政治的主張・社会的言動(日本共産党のそれ)を繰り返している。従って「現在の、日本のカトリック教会の沈滞は、司教団の言動に第一の責任があると思う。」(52ページ)

【本当に司教様たちは、目的を追求するために必要な手段を取らなかったのか?】

私のまず思うことは、本当に司教団は誤っていたのか?です。

ピーター・ドラッカーの『マネジメント』然り、聖イグナチオ・ロヨラの『霊操』然り、グラント・ウィギンズの『理解をもたらすカリキュラム設計 UbD』然り、目的のために最善の手段を選ぶ、ということを司教団が知らないはずがない、と思うからです。

司教団は、自分の信じている「福音宣教」を目的に、それを目指して「誠実」に行動していたと、私は信じています。

司教団は何を目的として政治発言をしてきたのでしょうか?「福音宣教」です。自分たちの理解するその「福音宣教」のために、活動していたと信じます。

ところで目的となる「福音宣教」とは一体何なのでしょうか?司教団の理解しているところと、私たちの理解とは一致しているのでしょうか?

司教団が至上の目的としているところの「福音宣教」とは何でしょうか?
私たちが理解している「福音宣教」とは何でしょうか?

その二つの理解が、もしも違っているなら、議論はかみ合うことはあり得ません。

そこで「福音宣教」の意味を良く定義する必要があります。

【司教団は、別の意味の「福音宣教」を目指している】

私がこれから理由を出して提示したいことは、司教団は「福音宣教」を至上の目的としているが、「福音宣教」の内容が、私たちが想定しているようなものではなく、別のものに置き換えられている、ということです。私はこのことについて日本の司教団が全く同意してくれると信じています。

今までの福音宣教ではなく、新しい概念を持った「福音宣教」に変わった、ということです。

言い換えると、「司教団は、「福音宣教」を至上の目的としている」というこの大前提が、私たちの理解と、司教団との理解で異なっているということです。

司教団は、司教団なりに新しい「福音宣教」の目的に向かって、最も効果的な手段と思われる行動をしており、それは今までの理解による福音宣教の邪魔になっている、と思われます。

つまり、私たちにとって福音宣教とは、私たちの永遠の救霊のために、天国での永遠の生命のために、天主から罪を赦され、聖寵の状態において生活し、功徳を積み、聖徳を実行するために、イエズス・キリストの啓示された真理の光を伝えることです。水と霊によって生まれなければ天の国に入れないのですから、洗礼の秘蹟を多くの方々が受け、頻繁に告解の秘蹟を受けるように、罪を避けて十字架の生活を送るように、進めることです。ただし、信仰は超自然の恵みなので、祈りと犠牲とで始めて受けることが出来ます。

しかし、新しい「福音宣教」は、「社会と文化を変革する」ことであって、「社会の福音化」です。「影響を社会に及ぼす」ことが第一の目的です。そのために、手段として「もっと多数の仲間(ママ)が必要」(1982年3月「洗礼の恵みを一人でも多くの友に伝えよう」)とされ、永遠の救霊や天国や地獄や煉獄などということは、全く眼中に置かれなくなってしまっています。

ですから、いくら司教様が「福音宣教!福音宣教!」と叫んでも、その向かっているところが違っているのです。私たちは天を指していると思っていますが、しかし司教団はこの地上を指して叫んでいるからです。

【新しい「福音宣教」という方針の変化は何故起こったのか?】

では、一体、何故「福音宣教」は新しい方針と方向付けを持つようになったのでしょうか? これは、非常にはっきりしています。第二バチカン公会議によるものです。

個々の司祭が、あるいは司教が、今までの福音宣教を目指していようと、第二バチカン公会議によって、それをさらに上まわる権威で新しい方針が与えられたのです。

司教たちは、この新しい方針に忠実であり、それに従ったまでであり、実は「マネジメントから見た司教団の誤り」というよりは、私の意見によればマネジメントから見れば司教団は誤っていなかった、と思います。

ヨーロッパやアメリカにおけるカトリック教会に起こった、信徒の減少、教勢の衰退をみると、もしかしたら、日本ではむしろ、マネジメントだけから見たら、日本の司教団は、それでもうまくやっている方なのかもしれません。

問題は、マネジメントではなく、第二バチカン公会議の新しい教えであり、「カトリック信仰から見た第二バチカン公会議の誤り」こそが、最も深い問題の核心であると思います。

何故なら、ミサ聖祭が変わってしまったのも、司教が共産党のような政治発言をするようになったのも、日本だけのことではなく、韓国でも、フィリピンでも、南米でも同様だからです。

たとえて言えば、コカ・コーラの本社が、コカ・コーラの代わりにコケ・コーラを世界中で売り出したのだけれど、ヨーロッパやアメリカでは消費者がまずいと言って買わなくなってしまった、あまりにも失敗のために過去のコカ・コーラが復活しだしている。

しかし、日本ではコケ・コーラをコカ・コーラの名前で売り続けることにそれなりに成功している、と。日本では、人々はそれでもまずいコケ・コーラを我慢して買って飲んでいる、と。

もしもこの喩え話しをさらに使うことが許されるならば、もっと続けましょう。たとえば、コケ・コーラは見た目は真っ黒でコカ・コーラと同じに見えます。エコロジーこそがもっとも大切だと主張しだして、苔(こけ)の緑を大切にしようとするところから、コケ・コーラの味はコケのような臭いがして、しかも真っ赤な飲料である共産・コーラと同じような味がします。消費者らは、コカ・コーラの昔の味がよかったとコカ・コーラ・ボトラーズに懇願しても、インカルチュアレーションとアジョルナメントの名前でコケ・コーラを消費者に押しつけています。

コカ・コーラのファンたちに対しては、過去のコカ・コーラは飲んではいけない、「違法だ」と、禁止します。対外的には、どのコーラも皆、同じで良いものだ、コークで一つになろう(エキュメニズム)、と主張し、エコロジーを政府に押しつけることを企業のミッションと考えています。それでも、日本支社は、コケ・コーラの販売を何とか続けている。云々。

以上はあくまでもたとえで、現実のことではありません。実在と同じ名前が出てきたとしても、それとは全く関係の無いことです。

【第二バチカン公会議の新しい教え:新しい人間中心主義】

今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だと私は考えます。

(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。