アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たち、第二バチカン公会議により生まれた「新しい人間」から生まれ出た教会について、つまり、新しい人間と天主との関係を取りなす第二バチカン公会議の教会について、考察を始めました。
(3)第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? 第二バチカン公会議の教会は、【1】この世に対して、【2】他の宗教に対して、【3】教会内部構造についてどのように変わったのか?という点を考察してみます。
私たちは、すでに現代人が、自分自身の知識と力とに自己陶酔しており、崇高な人間こそが全ての中心であると確信していると第二バチカン公会議が認めたこと、第二バチカン公会議は自己の使命として、人間の崇高な召命にふさわしい兄弟的一致と博愛と世界統一と、よりよい世界の建設を挙げたことを見ました。
人類統一という天主にまで届く高い塔の建設に第二バチカン公会議は積極的に協力しようとするのです。続きを見てみます。
【一致の基礎】
聖伝によれば、人類は救われるために、洗礼により教会の中に入らなければならない。人類は永遠の救霊のために、キリストにおいて、全世界的・カトリック的な(つまり普遍な)兄弟とならなければならない。
従って、カトリック教会は常にこう祈ってきた。例えば、今日つまり復活後の木曜日の集祷文はこうだ。
"Deus, qui diversitatem gentium in confessione tui nominis adunasti : da, ut renatis fonte baptismatis una sit fides mentium et pietas actionum ; per Dominus Nostrum Iesum Christum ..." 様々な民族を聖名の信仰宣言において一つに集め給うた天主よ、洗礼の泉においてもう一度生まれた者たちをして、彼らの心の信仰と彼らの行動の敬虔を一つにならしめ給え。(復活後の木曜日の集祷文)
何故なら、信仰の一致と真の天主に対する子供としての敬虔とがなければ、真の兄弟愛もありえないからである。ただ単に片思い的な一方通行の普遍的兄弟愛は、無償の福祉であり崇高な善意であるけれども、相互の兄弟愛がない限り、真の友情ではなく幻想にすぎない。
カトリックの聖伝は、永遠の命を得させるために、私たちの主イエズス・キリストの命令に従って全被造物と諸国に私たちの主イエズス・キリストの教えたことを宣教し、聖父と聖子と聖霊との聖名によって洗礼を授け、全世界を超自然の信仰と洗礼の秘跡のもとに、キリストのもとに置こうとする。
カトリック教会は、最初はからし種のような小さいものであるが、成長し、全世界に広がり、愛徳と聖徳と数において発展しなければならない。人類の真の幸福のために、全ては、王であるイエズス・キリストのもとに置かれなければならない。キリスト以外の「平和」は、幻想にすぎない。
【第二バチカン公会議による一致の基礎】
第二バチカン公会議は、カトリック信仰における一致でもなく、三位一体を真の天主を父と仰ぐ兄弟愛でもなく、人間の自然本性的な社会性だけに一致の基礎を置こうとする。
『現代世界憲章』24(人間の召命の共同体性格)
すべての人について父として配慮する神は、すべての人間が一つの家族を構成して相互に兄弟の精神をもって接することを望んだ。事実、すべての人は神の像として創造されたのであり、神は「一つの根源から出た全人類を地の全面に住むように」(使徒 17:26)させたのであって、人はすべて唯一同一の目的、すなわち神自身をめざすよう呼ばれている。
第二バチカン公会議は、人間の崇高な召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。
『現代世界憲章』3(人間に対する奉仕)
この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、人間の中に神的な種子が置かれていることを肯定し、人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。教会はけっして地上的野心によって動かされているのではない。教会の望むことはただ一つ、すなわち、真理を証明するために、裁くためではなく救うために、奉仕されるためではなく奉仕するために、この世に来たキリスト自身の仕事を、弁護者である霊の導きのもとに続けることである。
第二バチカン公会議は、こっそりとテイヤール・ド・シャルダンの考えを使う。
例えば、「キリストに結ばれずに誰一人として人類の一員とはならない。何故なら御托身の神秘は人間の存在論的基礎に至るまで人間本性に影響を与え、全ての被造物の長子であり全ての秩序の最初である方へと、聖寵により方向付けをするからである」(C. Bordet "Teilhard de Chardin, l'actualite de son message, les Editions Ouvrieres, 1964, p.80)が、テイヤール・ド・シャルダンの考えであるとすれば、第二バチカン公会議はそれにこだましてこう言う。「神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」(『現代世界憲章』22(新しい人・キリスト))
第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストの十字架による贖いもなく、この贖いを適応することもなく、イエズス・キリストの御托身(=受肉)という事実により、ipso facto 自動的に、全ての人々をキリスト化させキリストと一致させる力を持っている。「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。」(『現代世界憲章』22)
第二バチカン公会議は、「神の子が受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた」という一致の密かな効力の他に、教会の本性上、教会は一致の芽生えであると教える。「このメシア的な民は、現実にはすべての人を含まず、またしばしば小さな群のように見えるが、それは全人類に取って、一致と希望と救いの最も堅実な芽ばえである。」(『教会憲章』9)
そしてこの芽生えは、成長することなく芽生えのまま留まる。教会は、天の王国の地上の芽生えであり、教会の発展は、終末論的な期待に基づく。教会は地上における教勢を伸ばそうとするのではなく、教会の「発展」とは、神の国の完成を渇望し終末的に栄光を受けるのを望み求めることである。
『教会憲章』5
「教会は、・・・キリストと神との国を告げ、諸国民のうちに刷新する使命を受け、この国の地上における芽ばえと開始となっている。教会は徐々に発展するが、その間にも神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めている。
第二バチカン公会議によれば、教会が人類の一致のために提供することができるのは、教会の隠れた影響力、天の王国の理想、新しく訂正され清められたキリスト教世界像である。「全人類の兄弟的集まりを確立する努力は無駄なものではない」(『現代世界憲章』38(復活秘義において完成に導かれた人間活動))。「 キリストがその教会に託した固有の使命は、政治・経済・社会の分野に属するものではない。キリストが教会に指定した目的は宗教の領域に属する。ところで、実にこの宗教的使命そのものから、神定法に基づいて建設し確立すべき人間共同体のために役立つ任務、光、力が出てくる」(『現代世界憲章』42(教会が社会に提供する援助))。
【世界の統一】
第二バチカン公会議の言う世界統一は何に基づくのか? 第二バチカン公会議の求める世界統一は、単なる全人類の兄弟的集まりではない。
第二バチカン公会議が「人類家族は徐々に全世界における一つの共同体として自覚を強め、またそうなりつつある」(『現代世界憲章』33(問題提起))と認めているのなら、この「一つの共同体」とは何か? 世界統一政府? それとも世界連邦? あるいは国連なのか?
公会議閉会の直前、1965年10月4日、公会議の教父らの採決を待つまでもなく、パウロ6世はマンハッタンの国連において『人類についての専門家』として、こう演説した。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)
【グローバリゼーションの原因】
第二バチカン公会議は、相互が従属関係にあり相互依存しているという。
「世界が一つに結ばれていることと、各自が必然的連帯性に基づいて相互に従属関係にあることについては強く感じているが、他方、世界は相戦う力の対立によって引きさかれている。事実、政治、社会、経済、人種、そして主義上の激しい紛争がいまだに続いており、すべてを破壊する戦争の危険さえある。」(『現代世界憲章』4(現代世界における人間の状態--希望と不安))
「思想の交流は増しているが、主要な概念を表わすことば自体が、主義の違いによってかなり異なった意味をもたらしている。」(『現代世界憲章』4(現代世界における人間の状態--希望と不安))
『現代世界憲章』25(人間と社会の相互依存)
「現代においては種々の原因によって、相互連帯と相互依存はますます多様化し、その結果、公法なたは私法上のいろいろな会や制度がつくられている。社会化と呼ばれるこの現象は、危険がないわけではないが、人間の才能の肯定と発展のため、また人間の権利を擁護するために多くの有利な条件を提供してくる。・・・
頻繁に起こる社会秩序の乱れは、一部は経済・政治・社会形態の緊張によるが、根本的には人間の高慢と利己主義に基づくものであって、これらは社会環境をも退廃させる。」
『現代世界憲章』26(共通善の促進)
「相互依存が日増しに緊密になり、徐々に世界に広がっていくことによって、共通善---すなわち集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体---は、今日ますます世界に広がりを持つものとなる。その結果、人類全体に関する権利と義務を含む者となった。どの集団も他の集団の必要と正当な要求、さらには人類家族の共通善を考慮しなければならない。」
(この共通善についての素晴らしい定義と、ヨハネ二十三世のマーテル・エト・マジストラ(Mater et Magistra)を参照させていることはとても良い点だ。」
しかし、人類世界全体の共通善のために、それぞれの国家は自分の国家としての共通善を放棄すべきなのだろうか? カトリック国家は、自己のカトリックというアイデンティティーを放棄するべきなのだろうか? カトリック国家であるという自由を失うと同時に国家が経済的自由を失ってしまうことは、進歩なのだろうか? 政治的な真の主権を失ってしまうことは進歩なのだろうか?(例えば最近の例では、国連の家族解体システム(女子差別撤廃条約選択議定書)などを受け入れていくことが進歩なのだろうか?)
キリストのいない世界統一、カトリック的ではない世界統一、世界自由経済を追求するための世界統一、これが進歩なのだろうか?
しかし第二バチカン公会議はこれらについて答えていない。
【カトリックを越える一致】
第二バチカン公会議によれば、カトリック教会は人間のペルソナの崇高な品位、人格の尊厳のために闘う人間性のイデオロギーに変わり(『現代世界憲章』22、『信教の自由に関する宣言』1)、諸宗教との対話の使徒に変容すべきである。
『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。
しかし、第二バチカン公会議は、教会あるいは教皇の聖なる権能を政治の分野で使うことを拒絶する。教皇は平和のための仲立ち人にはなれない。第二バチカン公会議は、世俗の国際権威に平和の保証を求めなければならない。(『現代世界憲章』79,82)
第二バチカン公会議は、従って、キリストの上に成り立つのではない、人間の自由な良心と尊厳との上に成り立つ平和を求める。
1965年10月4日、パウロ6世の国連における演説。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)
しかし、このような最高国際権威は、究極のところ天主からの最高権威者たる教皇に反対する権威として、立ち上がるだろう。キリストなしに作られた世界統一最高権威は、ついにはキリストに反対するものとして、反キリストの権威としてそびえ立つことであろう。
何故なら「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。・・・全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要だ」(ボニファチオ八世)からである。
-------------
主よ、我等を憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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第二バチカン公会議後のこの世に対する愛
人間の尊厳と良心の自由
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たち、第二バチカン公会議により生まれた「新しい人間」から生まれ出た教会について、つまり、新しい人間と天主との関係を取りなす第二バチカン公会議の教会について、考察を始めました。
(3)第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? 第二バチカン公会議の教会は、【1】この世に対して、【2】他の宗教に対して、【3】教会内部構造についてどのように変わったのか?という点を考察してみます。
私たちは、すでに現代人が、自分自身の知識と力とに自己陶酔しており、崇高な人間こそが全ての中心であると確信していると第二バチカン公会議が認めたこと、第二バチカン公会議は自己の使命として、人間の崇高な召命にふさわしい兄弟的一致と博愛と世界統一と、よりよい世界の建設を挙げたことを見ました。
人類統一という天主にまで届く高い塔の建設に第二バチカン公会議は積極的に協力しようとするのです。続きを見てみます。
【一致の基礎】
聖伝によれば、人類は救われるために、洗礼により教会の中に入らなければならない。人類は永遠の救霊のために、キリストにおいて、全世界的・カトリック的な(つまり普遍な)兄弟とならなければならない。
従って、カトリック教会は常にこう祈ってきた。例えば、今日つまり復活後の木曜日の集祷文はこうだ。
"Deus, qui diversitatem gentium in confessione tui nominis adunasti : da, ut renatis fonte baptismatis una sit fides mentium et pietas actionum ; per Dominus Nostrum Iesum Christum ..." 様々な民族を聖名の信仰宣言において一つに集め給うた天主よ、洗礼の泉においてもう一度生まれた者たちをして、彼らの心の信仰と彼らの行動の敬虔を一つにならしめ給え。(復活後の木曜日の集祷文)
何故なら、信仰の一致と真の天主に対する子供としての敬虔とがなければ、真の兄弟愛もありえないからである。ただ単に片思い的な一方通行の普遍的兄弟愛は、無償の福祉であり崇高な善意であるけれども、相互の兄弟愛がない限り、真の友情ではなく幻想にすぎない。
カトリックの聖伝は、永遠の命を得させるために、私たちの主イエズス・キリストの命令に従って全被造物と諸国に私たちの主イエズス・キリストの教えたことを宣教し、聖父と聖子と聖霊との聖名によって洗礼を授け、全世界を超自然の信仰と洗礼の秘跡のもとに、キリストのもとに置こうとする。
カトリック教会は、最初はからし種のような小さいものであるが、成長し、全世界に広がり、愛徳と聖徳と数において発展しなければならない。人類の真の幸福のために、全ては、王であるイエズス・キリストのもとに置かれなければならない。キリスト以外の「平和」は、幻想にすぎない。
【第二バチカン公会議による一致の基礎】
第二バチカン公会議は、カトリック信仰における一致でもなく、三位一体を真の天主を父と仰ぐ兄弟愛でもなく、人間の自然本性的な社会性だけに一致の基礎を置こうとする。
『現代世界憲章』24(人間の召命の共同体性格)
すべての人について父として配慮する神は、すべての人間が一つの家族を構成して相互に兄弟の精神をもって接することを望んだ。事実、すべての人は神の像として創造されたのであり、神は「一つの根源から出た全人類を地の全面に住むように」(使徒 17:26)させたのであって、人はすべて唯一同一の目的、すなわち神自身をめざすよう呼ばれている。
第二バチカン公会議は、人間の崇高な召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。
『現代世界憲章』3(人間に対する奉仕)
この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、人間の中に神的な種子が置かれていることを肯定し、人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。教会はけっして地上的野心によって動かされているのではない。教会の望むことはただ一つ、すなわち、真理を証明するために、裁くためではなく救うために、奉仕されるためではなく奉仕するために、この世に来たキリスト自身の仕事を、弁護者である霊の導きのもとに続けることである。
第二バチカン公会議は、こっそりとテイヤール・ド・シャルダンの考えを使う。
例えば、「キリストに結ばれずに誰一人として人類の一員とはならない。何故なら御托身の神秘は人間の存在論的基礎に至るまで人間本性に影響を与え、全ての被造物の長子であり全ての秩序の最初である方へと、聖寵により方向付けをするからである」(C. Bordet "Teilhard de Chardin, l'actualite de son message, les Editions Ouvrieres, 1964, p.80)が、テイヤール・ド・シャルダンの考えであるとすれば、第二バチカン公会議はそれにこだましてこう言う。「神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」(『現代世界憲章』22(新しい人・キリスト))
第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストの十字架による贖いもなく、この贖いを適応することもなく、イエズス・キリストの御托身(=受肉)という事実により、ipso facto 自動的に、全ての人々をキリスト化させキリストと一致させる力を持っている。「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。」(『現代世界憲章』22)
第二バチカン公会議は、「神の子が受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた」という一致の密かな効力の他に、教会の本性上、教会は一致の芽生えであると教える。「このメシア的な民は、現実にはすべての人を含まず、またしばしば小さな群のように見えるが、それは全人類に取って、一致と希望と救いの最も堅実な芽ばえである。」(『教会憲章』9)
そしてこの芽生えは、成長することなく芽生えのまま留まる。教会は、天の王国の地上の芽生えであり、教会の発展は、終末論的な期待に基づく。教会は地上における教勢を伸ばそうとするのではなく、教会の「発展」とは、神の国の完成を渇望し終末的に栄光を受けるのを望み求めることである。
『教会憲章』5
「教会は、・・・キリストと神との国を告げ、諸国民のうちに刷新する使命を受け、この国の地上における芽ばえと開始となっている。教会は徐々に発展するが、その間にも神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めている。
第二バチカン公会議によれば、教会が人類の一致のために提供することができるのは、教会の隠れた影響力、天の王国の理想、新しく訂正され清められたキリスト教世界像である。「全人類の兄弟的集まりを確立する努力は無駄なものではない」(『現代世界憲章』38(復活秘義において完成に導かれた人間活動))。「 キリストがその教会に託した固有の使命は、政治・経済・社会の分野に属するものではない。キリストが教会に指定した目的は宗教の領域に属する。ところで、実にこの宗教的使命そのものから、神定法に基づいて建設し確立すべき人間共同体のために役立つ任務、光、力が出てくる」(『現代世界憲章』42(教会が社会に提供する援助))。
【世界の統一】
第二バチカン公会議の言う世界統一は何に基づくのか? 第二バチカン公会議の求める世界統一は、単なる全人類の兄弟的集まりではない。
第二バチカン公会議が「人類家族は徐々に全世界における一つの共同体として自覚を強め、またそうなりつつある」(『現代世界憲章』33(問題提起))と認めているのなら、この「一つの共同体」とは何か? 世界統一政府? それとも世界連邦? あるいは国連なのか?
公会議閉会の直前、1965年10月4日、公会議の教父らの採決を待つまでもなく、パウロ6世はマンハッタンの国連において『人類についての専門家』として、こう演説した。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)
【グローバリゼーションの原因】
第二バチカン公会議は、相互が従属関係にあり相互依存しているという。
「世界が一つに結ばれていることと、各自が必然的連帯性に基づいて相互に従属関係にあることについては強く感じているが、他方、世界は相戦う力の対立によって引きさかれている。事実、政治、社会、経済、人種、そして主義上の激しい紛争がいまだに続いており、すべてを破壊する戦争の危険さえある。」(『現代世界憲章』4(現代世界における人間の状態--希望と不安))
「思想の交流は増しているが、主要な概念を表わすことば自体が、主義の違いによってかなり異なった意味をもたらしている。」(『現代世界憲章』4(現代世界における人間の状態--希望と不安))
『現代世界憲章』25(人間と社会の相互依存)
「現代においては種々の原因によって、相互連帯と相互依存はますます多様化し、その結果、公法なたは私法上のいろいろな会や制度がつくられている。社会化と呼ばれるこの現象は、危険がないわけではないが、人間の才能の肯定と発展のため、また人間の権利を擁護するために多くの有利な条件を提供してくる。・・・
頻繁に起こる社会秩序の乱れは、一部は経済・政治・社会形態の緊張によるが、根本的には人間の高慢と利己主義に基づくものであって、これらは社会環境をも退廃させる。」
『現代世界憲章』26(共通善の促進)
「相互依存が日増しに緊密になり、徐々に世界に広がっていくことによって、共通善---すなわち集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体---は、今日ますます世界に広がりを持つものとなる。その結果、人類全体に関する権利と義務を含む者となった。どの集団も他の集団の必要と正当な要求、さらには人類家族の共通善を考慮しなければならない。」
(この共通善についての素晴らしい定義と、ヨハネ二十三世のマーテル・エト・マジストラ(Mater et Magistra)を参照させていることはとても良い点だ。」
しかし、人類世界全体の共通善のために、それぞれの国家は自分の国家としての共通善を放棄すべきなのだろうか? カトリック国家は、自己のカトリックというアイデンティティーを放棄するべきなのだろうか? カトリック国家であるという自由を失うと同時に国家が経済的自由を失ってしまうことは、進歩なのだろうか? 政治的な真の主権を失ってしまうことは進歩なのだろうか?(例えば最近の例では、国連の家族解体システム(女子差別撤廃条約選択議定書)などを受け入れていくことが進歩なのだろうか?)
キリストのいない世界統一、カトリック的ではない世界統一、世界自由経済を追求するための世界統一、これが進歩なのだろうか?
しかし第二バチカン公会議はこれらについて答えていない。
【カトリックを越える一致】
第二バチカン公会議によれば、カトリック教会は人間のペルソナの崇高な品位、人格の尊厳のために闘う人間性のイデオロギーに変わり(『現代世界憲章』22、『信教の自由に関する宣言』1)、諸宗教との対話の使徒に変容すべきである。
『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。
しかし、第二バチカン公会議は、教会あるいは教皇の聖なる権能を政治の分野で使うことを拒絶する。教皇は平和のための仲立ち人にはなれない。第二バチカン公会議は、世俗の国際権威に平和の保証を求めなければならない。(『現代世界憲章』79,82)
第二バチカン公会議は、従って、キリストの上に成り立つのではない、人間の自由な良心と尊厳との上に成り立つ平和を求める。
1965年10月4日、パウロ6世の国連における演説。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)
しかし、このような最高国際権威は、究極のところ天主からの最高権威者たる教皇に反対する権威として、立ち上がるだろう。キリストなしに作られた世界統一最高権威は、ついにはキリストに反対するものとして、反キリストの権威としてそびえ立つことであろう。
何故なら「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。・・・全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要だ」(ボニファチオ八世)からである。
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主よ、我等を憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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