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エキュメニズムへのドアが開く:第二バチカン公会議の『教会憲章』、『エキュメニズムに関する教令』

2009年04月28日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察しています。

 そこで、今回も、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのか、エキュメニズムのドアがどのように開かれたのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。

(つづき)
【エキュメニズムへのドアが開く:『教会憲章』】

『教会憲章』第1章 教会の秘義について

 導入部:『教会憲章』の1から7までは、『教会憲章』8の第二バチカン公会議の新しい教えを準備する導入部である。
 導入部の伝えるメッセージの核心はこれである。教会は、天主との交わりと全人類一致との効果的なしるし(秘跡)である。
 全ての人間は天主によって天の国に属するように選ばれているが、そのうち一部は、イエズス・キリストを信じて教会に属するように選ばれている。世の終わりに、遂に天の国と教会とは同じものとなる。何故なら目に見えるが制限のある教会が無制限になり、無制限であるが目に見えない天の国が目に見えるようになるからだ。
 イエズス・キリストは天の国を全ての人間の心に目に見えない仕方で打ち立て、また同時に、目に見える教会を少数の人間において打ち立て彼らが天の国を建設する目に見える仕事を続けるように命じた。

 『教会憲章』8では次のことを教える。
 キリストは、目に見える組織(聖職位階制度によって組織された社会)としてこの地上に教会を設立し、聖寵を全ての人間に与える。すなわち、教会は救いの成果を人々に伝え、すべての人のうちにキリストに仕えようと心がける。では、どうやって全ての人間に聖寵を与えるのか?
 天主のみことばは、御托身(=受肉)で人間本性を摂取したことによって、天主のみことばが天主の本性と人間の本性とを持つ。それと同じように、キリストの霊は、目に見える人間の教会の社会的機構(=カトリック教会)を摂取し、カトリック教会のうちに存在し(subsistit in)、キリストの神秘体を成長させる。
 従って、みことばとイエズス・キリストの人間性とが一つであるように、キリストの霊とカトリック教会とは一つとなる。
 従って、みことばがイエズス・キリストの人間性の限界を遙かに超えているように、キリストの霊の教会は、カトリック教会の限界の外にも見出される。
 従って、カトリック教会という「組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされる」。この要素の程度がどれだけかは、教会にどれ程属しているかによる。

 結論:
 天主に結合している全人類の一致の秘跡である教会とは、キリストの教会である。このキリストの教会にはカトリック教会と全ての宗教団体が含まれている。

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『教会憲章』 1(序文) 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

『教会憲章』 2(父なる神の救いの計画) すべての選ばれた者を世々の前から「あらかじめ知っていた」父は、「かれらを自分の子の姿に似た者としようと予定した。それは子を多くの兄弟の長子とするためである」(ロマ 8·29)。
 父はキリストを信ずる人々を聖なる教会として呼び集めることを決定した。
 それはさらに、世の終わりに栄光のうちに完成されるであろう。そのときには、聖なる諸教父も述べているとおり、アダム以来のすべての義人は、「義人アベルより、最後の選ばれた人に至るまで」普遍的教会として父のもとに集められるであろう。

『教会憲章』 3(子の派遣) キリストは父の望みを果たすために、地上に天の国を開始し、父の秘義をわれわれに啓示し、自分の従順によってあがないを成就した。・・・
 教会、すなわち秘義としてすでに現存するキリストの国は、神の力によって、世界において可見的に成長する。

『教会憲章』 5(神の国) 聖なる教会の秘義は、その設立において示されている。主イエズスは「時は満ちた、神の国は近づいた」(マルコ 1·15、マタイ 4·17参照)とのことばをもって、・・・神の国の到来を述べ伝えることによって、自分の教会を始めた。この国は、キリストのことばと行ないと現存によって人々の前に現われる。
 教会は、その創立者から受けたたまものに恵まれ、愛と謙虚と自己放棄のおきてを忠実に守るとともに、キリストと神との国を告げ、諸国民のうちに刷新する使命を受け、この国の地上における芽ばえと開始となっている。教会は徐々に発展するが、その間にも神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めている。

『教会憲章』 8(教会の神的、人的要素) 唯一の仲介者キリストは、自分の聖なる教会、信仰、希望、愛の共同体を目に見える組織としてこの地上に設立し、これを絶え間なくささえ、この教会によって、すべての人に真理と恩恵を分け与える。聖職位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人的要素と神的要素によって形成される複雑な一つの実在である。したがって、教会は平凡ではない類比によって、受肉したことばの秘義に比較される。神のことばに摂取された人間性が、ことばに不解消のものとして、結合し、救いの生きた機関として、ことばに仕えるものと同時に、教会の社会的機構は、からだの成長のため、教会を生かすキリストの霊に仕えるのである(エフェソ 4·16参照)。
 これがキリストの唯一の教会である。われわれは信経の中で、この教会を唯一、聖、カトリック、使徒的と宣言する。われわれの救い主は復活の後、この教会を牧するようペトロに渡し(ヨハネ 21·17)、それを広め治めるようペトロと他の使徒たちにゆだね(マタイ 28·18以下参照)、それを「真理の柱と基礎」として永久に立てた(1テモテ 3·15)。この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。
 キリストが貧困と迫害のうちにあがないのわざを完成したように、教会も救いの成果を人々に伝えるために同じ道を歩くよう招かれている。キリスト・イエズスは「神のすがたでありながら……しもべのすがたをとりおのれを無とし」(フィリッピ 2·6)、われわれのために「富める者が貧しい者となった」(2コリ 8·9)。教会は自己の使命を果たすために人間的手段を必要とするが、地上の教会が設立されたのは、光を求めるためではなく、謙虚と自己放棄をみずからの模範によって広めるためである。キリストが父から派遣されたのは「貧しい人々に福音を伝え、傷ついた心の人々をいやし」(ルカ 4·18)、「失われたものを捜して救う」(ルカ 19·10)ためである。これと同じように、教会も、人間的弱さに苦しむすべての人を愛をもって包み、さらに貧しい人や苦しむ人のうちに、貧しく苦しんだその創立者の姿を認め、かれらの欠乏を和らげるよう努め、かれらのうちにキリストに仕えようと心がける。キリストは、「聖にして、罪も汚れもなく」(ヘブ 7·26)、罪を知らず、(2コリ 5·21)、ただ人々の罪を償うためにのみ来たのであるが(ヘブ 2·17参照)、自分のふところに罪人を抱いている教会は、聖であると同時に常に清められるべきであり、悔い改めと刷新との努力を絶えず続けるのである。
 教会は、「世の迫害と神の慰めとを通って旅を続け」主が来るまで、主の十字架と死を告げながら、進む(1コリ 11·25参照)。教会は、復活した主の力によって強められ、内外からの自己の苦悩と困難に打ち勝つ、終わりの日に完全な光の中に現われるまで、影につつまれた主の秘義を、忍耐と愛をもって忠実に世に現わすのである。

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【「エキュメニズムに関する教令」による狭義のエキュメニズム】

 主キリストによって設立された教会は単一・唯一であるように、キリストを信じる全てのキリスト教団が一つになるべきである(1)。後代になって、重大な不一致が起こり、かなり大きな諸集団がカトリック教会の完全な交わりから分かれたが、ときには、カトリック側に過失がなかったわけではない(3)。教会を建て、これに生命を与える諸要素が、カトリック教会の見える境界の外に存在できる(3)。
 キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められる(3)。
 それぞれの教会や教団でこれらの「要素」は、恩恵の生命を実際に生み出し、救いの交わりへの戸を開いている(3)。従って、これらの非カトリックの教壇も、秘跡としての教会の一部である。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからである(3)。

【『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』による広義のエキュメニズム】

 全ての人間は、天主によってその他全ての被造物のなかから天主を賛美するように選ばれている。選ばれたと言うことはすなわち救われていると言うことである。従って、全ての人間は救われている。
 従って、キリスト教共同体の外であっても、たとえ「聖化と真理との要素」ではなかったとしても、「みことばの種子」が見いだされる。この世に生まれる全ての人間を照らすみことばの火花としての何らかの真理と良さが見いだされる。
 全ては文化である。カトリック教会だけでは人間の神秘を全て汲み尽くすことは出来ない。

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主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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