アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
いかがお過ごしでしょうか? ご質問を受けましたのでご紹介します。
【質問】
所属教区の今年の待降節,降誕祭のテーマが決まりました。
「この世の愛のため...」とあり
第一主日..この世の愛のため...目をさまそう
第二主日..この世の愛のため...正義と平和の日を
第三主日..この世の愛のため...喜ぶ
第四主日..この世の愛のため...今、幸いな時
ご降誕.....この世の愛のため..救い主がおうまれになった!
共同回心式 テーマ この世の愛のため...ゆるし合う心を!
と言うことですが、言葉尻を捉えていうのも変なのかもしれませんが主はこの世の愛のためには来なかった。私たちの永遠の命のためではないでしょうか?
【答え】
原罪をもって生まれてきた私たちにとって、「この世の愛のため」というのは極めて曖昧で、誤解を招かせる、おかしい表現だと思います。何故なら、目に見えるこの世は、天主を愛する手段として大変良いものとして作られましたが、原罪を犯した後、私たちにとって非常にしばしば、この世を愛することが目的となり、天主よりもこの世を愛して罪を犯してしまうからです。そしてこの世とそこにあるものは、通常、罪の機会となってしまっているからです。
私たちの主イエズス・キリストがお生まれになったのは、そのような「この世の愛のため」ではありませんでした。私たちのため、私たちの霊魂の永遠の救いのためでした。
使徒信経では正確にこう言います。
Propter nos et propter nostram salutem descendit de caelis
我らのために、我らの救いのために、天から下り給うた(私たちの主イエズス・キリストを信じ奉る)と。
確かに聖ヨハネは、聖福音の中でこう表現します。「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された」と、しかし天主が御子をお与えになるほど愛された「この世」とは、「この世にいる私たち」だからです。
何故なら、同じ使徒ヨハネは書簡の中で次のように書いているからです。「天主が先に私たちを愛し、み子を私たちの罪のあがないのためにつかわされたこと、ここに愛がある。」
愛の使徒である聖ヨハネは「この世」について、全く別のことを証言していいます。この世は、私たちの主イエズス・キリストを知らず、受け入れず、信じようとせず、憎み、イエズス・キリストを信じる弟子達をも憎む、と。だから、イエズス・キリストはこの世のためには祈ろうとさえもしませんでした。
「すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。」
「モイゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければならない。それは、信じるすべての人が、かれによって永遠の命をえるためである。天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。天主がみ子を世におくられたのは、世をさばくためではなくて、それによって世を救うためである。み子を信じる人は裁かれないが、信じない人は、天主のおん独り子の名を信じなかったがために、すでに裁かれている。その審判というのは、次のようなことである。光は世に来たが、人々は、その悪いおこないのために、光よりも闇を好んだ。悪をおこなう人は、光を憎み、そのおこないがあらわれることをおそれて光の方に来ないが、真理をおこなう人は、天主によってそのことがおこなわれていることをあらわすために、光のほうに来る」。
「そして私は父に願おう。そうすれば、父は、ほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にいっしょにいさせてくださる。それが真理の霊である。世は彼を見もせず、知りもしないので、彼をうけられない。しかしあなたたちは彼を知っている。なぜなら、彼はあなたたちとともに住んで、あなたたちの中においでになるからである。」
「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだのだということを忘れてはならない。あなたたちがこの世のものなら、この世は自分のものを愛するだろう。しかしあなたたちはこの世のものではない。私があなたたちをえらんで、この世から取り去ったのである。だからこの世はあなたたちを憎んでいる。」
「私は、あなたがこの世からとり去って私にくださった人々に、み名をあらわしました。その人たちは、あなたのものであったのに、あなたは私にくださり、そして彼らは、あなたのみことばを守りました。いまやかれらは、あなたが私にくださったものが、みなあなたから出ていることを知っています。なぜなら、私があなたのくださったみことばを、彼らに与えたからです。彼らはそれをうけいれ、私があなたから出たものであることをほんとうに認め、あなたが私をおつかわしになったことも信じました。その彼らのために、私は祈ります。この祈りは、この世のためではなくて、あなたがくださった人々のためであります。」
愛の使徒である聖ヨハネは、私たちが何を愛すべきかを教えています。
「愛する者よ、たがいに愛せよ。愛は天主よりのものである。愛する者は天主から生まれ、天主を知るが、愛しない者は天主を知らない。天主は愛だからである。私たちに対する天主の愛はここにあらわれた。すなわち、天主はそのおんひとり子を世につかわされた。それは私たちをかれによって生かすためである。そして、私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、み子を私たちの罪のあがないのためにつかわされたこと、ここに愛がある。愛する者よ、天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまたたがいに愛さなければならない。だれも天主をみたものはないが、私たちがたがいに愛するなら、天主は私たちの中に住まわれ、その愛も私たちの中に完成される。私たちが天主にとどまり、天主が私たちにとどまられることは、天主がご自分の霊に私たちをあずからせられたことによってわかる。私たちは、おん父がみ子を世の救い主としておくられたことを見て、これを証明する。」
ただし、
「世と、世にあるものを愛するな。世を愛するなら、おん父の愛はその人のうちにはない。世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて、おん父から出るのではなく、世から出る。世と世の欲とはすぎ去るが、しかし、天主のみ旨をおこなう者は永遠にとどまる。」
だから、使徒信経では正確にこう言うのです。
Propter nos et propter nostram salutem descendit de caelis
我らのために、我らの救いのために、天から下り給うた、(私たちの主イエズス・キリストを信じ奉る)と。
私たちの主イエズス・キリストがお生まれになったのは「この世の愛のため」ではありませんでした。私たちのため、私たちの救いのためでした。「世と、世にあるものを愛するな。世を愛するなら、おん父の愛はその人のうちにはない。」
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
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いかがお過ごしでしょうか? ご質問を受けましたのでご紹介します。
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所属教区の今年の待降節,降誕祭のテーマが決まりました。
「この世の愛のため...」とあり
第一主日..この世の愛のため...目をさまそう
第二主日..この世の愛のため...正義と平和の日を
第三主日..この世の愛のため...喜ぶ
第四主日..この世の愛のため...今、幸いな時
ご降誕.....この世の愛のため..救い主がおうまれになった!
共同回心式 テーマ この世の愛のため...ゆるし合う心を!
と言うことですが、言葉尻を捉えていうのも変なのかもしれませんが主はこの世の愛のためには来なかった。私たちの永遠の命のためではないでしょうか?
【答え】
原罪をもって生まれてきた私たちにとって、「この世の愛のため」というのは極めて曖昧で、誤解を招かせる、おかしい表現だと思います。何故なら、目に見えるこの世は、天主を愛する手段として大変良いものとして作られましたが、原罪を犯した後、私たちにとって非常にしばしば、この世を愛することが目的となり、天主よりもこの世を愛して罪を犯してしまうからです。そしてこの世とそこにあるものは、通常、罪の機会となってしまっているからです。
私たちの主イエズス・キリストがお生まれになったのは、そのような「この世の愛のため」ではありませんでした。私たちのため、私たちの霊魂の永遠の救いのためでした。
使徒信経では正確にこう言います。
Propter nos et propter nostram salutem descendit de caelis
我らのために、我らの救いのために、天から下り給うた(私たちの主イエズス・キリストを信じ奉る)と。
確かに聖ヨハネは、聖福音の中でこう表現します。「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された」と、しかし天主が御子をお与えになるほど愛された「この世」とは、「この世にいる私たち」だからです。
何故なら、同じ使徒ヨハネは書簡の中で次のように書いているからです。「天主が先に私たちを愛し、み子を私たちの罪のあがないのためにつかわされたこと、ここに愛がある。」
愛の使徒である聖ヨハネは「この世」について、全く別のことを証言していいます。この世は、私たちの主イエズス・キリストを知らず、受け入れず、信じようとせず、憎み、イエズス・キリストを信じる弟子達をも憎む、と。だから、イエズス・キリストはこの世のためには祈ろうとさえもしませんでした。
「すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。」
「モイゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければならない。それは、信じるすべての人が、かれによって永遠の命をえるためである。天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。天主がみ子を世におくられたのは、世をさばくためではなくて、それによって世を救うためである。み子を信じる人は裁かれないが、信じない人は、天主のおん独り子の名を信じなかったがために、すでに裁かれている。その審判というのは、次のようなことである。光は世に来たが、人々は、その悪いおこないのために、光よりも闇を好んだ。悪をおこなう人は、光を憎み、そのおこないがあらわれることをおそれて光の方に来ないが、真理をおこなう人は、天主によってそのことがおこなわれていることをあらわすために、光のほうに来る」。
「そして私は父に願おう。そうすれば、父は、ほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にいっしょにいさせてくださる。それが真理の霊である。世は彼を見もせず、知りもしないので、彼をうけられない。しかしあなたたちは彼を知っている。なぜなら、彼はあなたたちとともに住んで、あなたたちの中においでになるからである。」
「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだのだということを忘れてはならない。あなたたちがこの世のものなら、この世は自分のものを愛するだろう。しかしあなたたちはこの世のものではない。私があなたたちをえらんで、この世から取り去ったのである。だからこの世はあなたたちを憎んでいる。」
「私は、あなたがこの世からとり去って私にくださった人々に、み名をあらわしました。その人たちは、あなたのものであったのに、あなたは私にくださり、そして彼らは、あなたのみことばを守りました。いまやかれらは、あなたが私にくださったものが、みなあなたから出ていることを知っています。なぜなら、私があなたのくださったみことばを、彼らに与えたからです。彼らはそれをうけいれ、私があなたから出たものであることをほんとうに認め、あなたが私をおつかわしになったことも信じました。その彼らのために、私は祈ります。この祈りは、この世のためではなくて、あなたがくださった人々のためであります。」
愛の使徒である聖ヨハネは、私たちが何を愛すべきかを教えています。
「愛する者よ、たがいに愛せよ。愛は天主よりのものである。愛する者は天主から生まれ、天主を知るが、愛しない者は天主を知らない。天主は愛だからである。私たちに対する天主の愛はここにあらわれた。すなわち、天主はそのおんひとり子を世につかわされた。それは私たちをかれによって生かすためである。そして、私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、み子を私たちの罪のあがないのためにつかわされたこと、ここに愛がある。愛する者よ、天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまたたがいに愛さなければならない。だれも天主をみたものはないが、私たちがたがいに愛するなら、天主は私たちの中に住まわれ、その愛も私たちの中に完成される。私たちが天主にとどまり、天主が私たちにとどまられることは、天主がご自分の霊に私たちをあずからせられたことによってわかる。私たちは、おん父がみ子を世の救い主としておくられたことを見て、これを証明する。」
ただし、
「世と、世にあるものを愛するな。世を愛するなら、おん父の愛はその人のうちにはない。世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて、おん父から出るのではなく、世から出る。世と世の欲とはすぎ去るが、しかし、天主のみ旨をおこなう者は永遠にとどまる。」
だから、使徒信経では正確にこう言うのです。
Propter nos et propter nostram salutem descendit de caelis
我らのために、我らの救いのために、天から下り給うた、(私たちの主イエズス・キリストを信じ奉る)と。
私たちの主イエズス・キリストがお生まれになったのは「この世の愛のため」ではありませんでした。私たちのため、私たちの救いのためでした。「世と、世にあるものを愛するな。世を愛するなら、おん父の愛はその人のうちにはない。」
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
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