Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

人間の尊厳の理由は?:聖寵によって天主の本性に参与するまで高められたこと vs 人間の自由と自律

2019年11月30日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

では、第二バチカン公会議は、どのようにして、自由が人間の尊厳の中で一番大切だと説いているのでしょうか?

カトリック教義の枠組みにおいて、教会の組織において、人間の自由を最高の価値であると、どのように説明を試みているのでしょうか。

聖伝によって伝えられるカトリックの信仰は、一人一人の人間は、聖寵によって天主の本性に参与するまで高められてたが故に、全ての被造物に勝る尊厳を持っていると教えています。

大聖レオ教皇の有名な御降誕祭の説教がそれを雄弁に語っています。
「キリスト者よ、あなたの尊厳を認識せよ、何故ならあなたは天主の本性に与るものとされたからだ。」
Agnosce, o christiane, dignitatem tuam, et divinae consors factus naturae, noli in veterem vilitatem degeneri conversatione redire!

「キリストの天主としての力は、ご自分の光栄と勢力とをもって召されたお方を私たちに知らせることによって、命と敬虔とをたすけるすべてのものをくださり、また、それによって、私たちに尊い偉大な約束をお与えになった。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗から、あなたたちを救いあげ、天主の本性にあずからせるためであった。」(ペトロの後の手紙1章4)

天主の本性に与らせていただき、天主の養子となるという恵みこそ、人間の尊厳の基礎です。天主は、人間が天主の本性に与ることが出来るように人間にその可能性を与えて創造しました。創世記によれば、天主は人間を御自分の似姿と類似に創造された、とあります。

"Faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostram, et praesit piscibus maris, et volatilibus caeli, et bestiis universaeque terrae, omnique reptili, quod movetur in terra. Et creavit Deus hominem ad imaginem suam: ad imaginem Dei creavit illum, masculum et feminam creavit eos." (Gen 1:26)

聖トマス・アクィナスは、自然の秩序において、人間が霊的である点で、天主の似姿ということが人間に与えられたと指摘します。つまり、他の動物たちと異なり、知性と自由意志を持つが故に、その点で天主の似姿が認められる、と。そしてこの自然の秩序において天主の似姿により創られたので、原初の義の状態(原罪の前の状態)では超自然の秩序にまで引き上げられて完成させられた、と。

聖トマス・アクィナスは、自然の秩序と超自然の秩序を区別しつつも、結合させています。人間の尊厳は、自然の秩序において天主の似姿(知性と自由意志)によって創られた人間が、さらに天主の本性に参与することによって超自然の秩序まで高められていることにあるのです。

ところが、第二バチカン公会議は、自然と超自然を混同して区別せずに、人間が天主の似姿として持つ尊厳は、自由にある、と主張します。何故なら、天主の本性の特徴は、自由で自律独立していることだから、天主の本性に参与するということは、自由であることだ、と。

第二バチカン公会議は、「現代世界憲章」の第一章で「人格の尊厳」を取り扱ってこう言います。

「聖書は、人間が「神の像」としてつくられ、創造主を知り愛することができるものであって、地上の全被造物を支配し利用して神に栄光を帰するよう、神によってそれらの上に主人として立てられたものであることを教えている。」(12)

「人間は天主によって[原初の]義の中におかれたが、悪霊に誘われて、歴史の初めから、自由を乱用し[libertate sua abusus est]、神に対立し、自分の完成を天主のほかに求めた。(…)しかし、人間を解放し[ut hominem liberaret]力づけるために、主自身が来て人間を内部から再生し、人間を罪の奴隷として捕らえていた「この世のかしら」(ヨハネ 12:31)を外に追い出した。実に罪は人間そのものを弱くし、人間をその完成から遠ざける。」(13)

「肉体と霊魂から成り立っているが、一つのものである人間は、肉体的なものとして物質界の諸要素を自分の中に集約している。その結果、物質界は人間を通してその頂点に達し、人間を通して創造主の[自由な]賛美の歌を歌う[ad liberam Creatoris laudem vocem attollant ]のである。(…)しかし、人間は自分が肉体的な物よりすぐれており、自然の一部または人間社会の無名の一要素でないと考えるとき、まちがってはいない。人間はその内面性によって全物質界を超越している。人間が内心をふり返るとき、この深遠に帰るのである。人間の心の中には、人々の心を見通す神が待っており、人間は心の中で、神の目のもとで自分の将来を決定する[de propria sorte decernit]。」(14)
第15番では、さらりと知性の尊厳について触れ、「聖霊のたまものによって、人間は信仰のうちに神の計画の秘義を観想し、味わうようになる。」(15)観想という人間の最高の行為について言及します。

第16番は、もっと良心の尊厳について語ります。「人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる。」(16)

しかし、最も強調されているのは「自由の尊さ」(17)です。
「しかし、人間は自由でなければ善を指向することはできない。現代人はこの自由を大きく表かし、熱烈に求めている。確かにそれは正しいことである。ところが、かれらはしばしば自由を放縦とはきちがえて、楽しければ何をしてもよいし、悪でさえもかまわないとする。しかし、真の自由は人間の中にある神の像のすぐれたしるしである。神は、人間がすすんで創造主を求め、神に従って自由に完全で幸福な完成に到達するよう、人間を「その分別に任せること」を望んだ。したがって人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動することを要求する。このような選択は人格としての内面的な動機に基づくものであって、内部からの盲目的本能や外部からの強制によるものであってはならない。」(17)

カトリック教義は、人間の創造主の似姿としての完成が、真理の観想にあるとしてきました。これは、プラトンやアリストテレスの思索と哲学を完成させるものでした。人間のもっとも崇高で高貴で天主的な活動とは、真理を見つめ、究極の真理である天主を愛する知です。

「人間における天主の似姿は、天主の知に関して形成された御言葉と、それから発出した愛とに従って考察される」(Attenditur igitur divina imago in homine secundum verbum conceptum de Dei notitia, et amorem exinde derivatum.)[1a q.93. a.8]

三位一体の天主は、永遠に至福を享受しています。天主は、被造物を創造しようがしまいが、至福の天主です。無限の可能性の中から、全く自由に、創造することを選択しましたが、自由に創造したから幸せになったのではありません。創造するということは、天主の"定義"の中にはありません。天主が永遠に至福なのは、永遠に無限の善を所有し直観し享受しているからです。

ヨハネの福音には私たちの主イエズス・キリストの言葉がこう記されています。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります。」(17:3)

つまり、天主が至福であるのは、観想のためであり、自由だからではありません。

人間中心主義は、人間を創造主なる天主の目的であり栄光と主張します。第二バチカン公会議は、そうだとはっきり断言はしませんが、暗に自由な創造を行ったことによって、天主は至福に到達したと前提しているようです。ちょうど、芸術家が、傑作を生み出したときに喜ぶように。

天主は、人間を御自分の似姿として創造し、この人間がその他のものを作り支配するのを見ると、天主は満足されたことになっているからです。

「事実、神の像として作られた人間は、大地とそこに含まれる万物を支配し、世界を正義と聖性のうちに統治し、また万物の創造主である神を認めて、人間自身とあらゆる物を神に関連させるようにとの命令を受けた。こうして万物が人間に服従すれば、全世界において神の名が賛美されるであろう。」(現代世界憲章 34)


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