tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

鎌高前

2010-01-26 23:51:57 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

この日、1日中北西の強風が吹きまくった。鎌倉高前から江ノ島方面は強風で目もあけられない。
かじかむ手でカメラを構えた。

鎌倉高校前のサイズはアタマくらい。
西ベースのうねりは少し弱まってきていそうなのだが、さすがにプロ並みのサーファーしか海には入っていないようだ。

そんなこんなで強風の中、七里ガ浜は鎌倉高校前から江ノ島へ。30年前、こここにどれ程通い、どれ程の波に乗ったことだろか。
七里ガ浜の住宅地も大きく様変わり、人もクルマも増えた。

江ノ島のライトアップ。先日、新宿で飲んだ時、プロのカメラマンが、「江ノ島のライトアップは最高」と言っていた。
ちゃちなイルミネーションを想像していたのだが、予想以上のスケールだったとのこと。
今年は、地球温暖化を考えて、イルミネーションの写真は撮らないつもりでいた。
そうすることで、バカの一つ覚えのような過剰な照明に対する抗議のつもりだったのだが、輝くイルミネーションの誘惑にはあっさりと負けてしまう。
素直に言おう。・・・きれいなものはきれいだと。。


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港町のあばずれ

2010-01-21 23:29:47 | bad news

 

「おいらが恋した女は 港町のあばずれ いつも ドアを開けたままで着替えして 男達の気を引く浮気女」

1月17日名古屋での公演中に浅川マキさんが亡くなった。
彼女を知ったのは、数年前に見た寺山修司の 「書を捨てよ町へ出よう」だった。階段の娼婦役で出演していた。
黒い服装に身を包んだ女性が、1970年代に一斉を風靡したアンダーグラウンドと言う文化の中で、学生たちの支持を集めた歌手であることを知って興味を覚えた。
この時代は、ベトナム戦争や学園紛争で熱を帯びた時代だった。
アンダーグラウンドと言えば、当時、小学生だったぼくは、彼女よりも、むしろ、カルメンマキの「時には母のない子のように」の印象が強かった。

「かもめ かもめ 笑っておくれ」

・・・彼女の歌う「かもめ」。横浜か神戸あたりの港町のイメージがある。
寺山修司の作詞による歌詞は、ぼくらの世代が知らないあの淫靡で寓話的な世界へ誘う。

「おいらは文無しマドロス バラ買うゼニも無い だから ドアの前を行ったり来たりしても 恋した女じゃ手も出ない」

彼女は2000年以降は、ジャズ・クラブ「新宿 PIT INN」を本拠地として定期公演を行っていたらしい。
いまでもPIT INNでは、行き場の無い若者達の微かな希望や夢を載せて、始発電車が動くまでライブが続くのだろうか。

「夜が明けたら一番早い汽車に乗るのよ 夜が明けたら 夜が明けたら 」
『夜が明けたら』 作詩/作曲 浅川マキ

・・・そうですか。1人寂しく逝きましたか

「いつかうわさに聞いたあの街へ あの街へ行くのよ いい人ができるかもしれないし あの街へ行くのよ」

浅川マキさん。サラバ。
合掌


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眠らない街 新宿

2010-01-20 22:54:01 | プチ放浪 都会編

 
 
 
 

この街は眠ることを知らない。まるで、眠ることで今を忘れてしまうことを怖れているかのように・・・。
街は何時までも光芒を放ち、人々が群れ集う。
ネオンで明るく照らされた通りには、年齢的に、ファッション的にアンバランスな二人連れや、着飾った女性、ナルシストっぽいスーツ姿の男性などで溢れている。
この街の片隅で、束の間の安らぎを求めるため・・・今夜もこれからいろんなドラマが繰り広げられるんだろう。

傷つけられる度に流される涙。過ちを繰り返す度に増えていく罪。何かを失う毎に欠けていく心。
 
眠らない街、いや、深夜をまわってなお、目覚めたばかりの街・歌舞伎町。


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イージー・ゴーイング(2)

2010-01-19 23:26:43 | old good things

  ケネディ大統領の大統領としての在職期間は、1961年1月20日から、テキサス州ダラスで暗殺された1963年7月20日までわずか2年足らず。
それでも、アポロ計画以外に、ヴェトナム戦争(1960年~1975年)、キューバ危機(1962年)で重要な決断をしている。
特にキューバ危機においては、ソ連とのあわや「核戦争」という超瀬戸際の中で、「核戦争」のボタンに手をかけながら終始強気を貫き通し、国家の威信と人類の滅亡を救ったのだった。
このように、1960年代はアメリカとソ連の2大超大国が対立して、お互いに相手国をねじふせようとしのぎを削っていた時代だった。
一方、アメリカ国民は未曽有うの繁栄を楽しんでいた時期で、これにあやかって日本も高度経済成長の波に乗っていた。
地上の楽園を呈していたアメリカを守るため、アメリカの指導者たちは「自由主義」を守ることに使命を燃やしていた。
1960年代のアメ車といえば、とにかく大きかった。水より安いと言われた、ただ同然の石油を浪費するでかい車に乗り、物質文明のもたらす豊かな消費生活を楽しんでいた。
日本のモータリゼーションの始まりは1965年。ホンダの狭山製作所でN-360の生産が本格的にスタートする。
強大さ、豊かさがアメリカと同義語であることを信じて疑わなかった時代。

これが、1973年秋に始まったアラブ諸国の「対米石油禁輸」によって、様相が一変する。第一次石油ショックである。
アメリカ的生活様式が、便利さ、快適さ、大量生産による品物の安さとするのなら、石油危機はアメリカ的生活様式の象徴であるクルマさえも変えずにはおかなかった。
音楽すらそうであった。イージー・リスニングを演奏するポピュラー・オーケストラは、次第に衰退していかざるを得なかった。

アラブが石油の禁輸を始める前年の1972年。イーストウッド監督が描いた「グラン・トリノ」で出てくるフォード マスタング。
強きアメリカを象徴し、歴代トリノの中でベストであるとの評価も高い一台だった。

(写真と本文は関係ありません。というか、かの自動車王ヘンリー・フォードはこの車を見るたびに脱帽したとか・・・)




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イージー・ゴーイング(1)

2010-01-18 22:52:25 | old good things

  ここ数日、このブログでは1960年代に流行し始めたイージー・リスニング・ミュージックについてあれこれ書いた。
きっかけは、先の3連休中、冬枯れの本土寺を目指して走らせていた車のラジオから流れてきた曲だった。
思えば、エフエム東京(TOKYO FM)で深夜に流れるジェット・ストリームという番組で、こうした曲を聴いていた。
あの頃聴いた甘く流麗な旋律の数々の曲。今聴くと、たちまち真っ青に抜けるイタリアン・ブルーの空が浮かんでくる。

パーシー・フェイス楽団やポールモーリア楽団、レーモン・ルフェーヴェル楽団、カラベリ・グランド・オーケストラなどポピュラー・オーケストラが流行していたのは、1960年の初めから1970年の終わりにかけてである。
さて、1960年代というと、1961年4月12日、ソ連のガガーリン宇宙飛行士が人類史上初めて宇宙を飛行し、「地球は青かった」と言葉を残したのがトピックス。
この快挙を東側諸国は、「資本主義」に対する「共産主義」の勝利ともてはやした。時はソ連とアメリカの冷戦真っただ中での出来事だったのだ。
この年の11月8日に、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は人間を月に送り込む「アポロ計画」を立ち上げた。

ケネディの遺志を貫いたNASAは、1969年7月に宇宙飛行士ニール・アームストロングおよびバズ・オルドリンのアポロ11号での月面着陸に成功。




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