tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

修善寺 モノトーンの似合う土地

2010-02-26 23:45:14 | プチ放浪 山道編

 
 
 
 

頼朝の立場からすれば、武門の総帥たる自分の許しをなしに任官され、自分の対抗者として後白河院に利用されようとしている義経を許すわけにはいかなかった。
まして、義経は自分の弟であるだけに、より厳しく対処しなければやっと築き上げた幕府の統制が崩れ去ってしまう恐れがあったのだ。
頼朝はもう一人の弟の範頼に義経を殺すよう命じる。だが、範頼が弟を殺すのは嫌だと断わると、今度は範頼も義経のように叛くようになると疑うようになる。
建久4(1193)年の曾我兄弟仇討ちの時、頼朝も巻き込まれ殺されたと誤って伝えられ嘆き悲しむ政子を範頼が慰めると、頼朝亡き後幕府横領の下心があると思い込む。

範頼は陳弁につとめるのだが、同年、ここ修禅寺に幽閉され、梶原景時に攻められて、日枝神社下にあった信功院で自刃。
源範頼の墓は修禅寺左手の丘にあり、桂川を挟んだ反対側に、父頼朝の死により家督を継いで鎌倉二代将軍となった頼家の墓がある。
正治元(1199)年に18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、みにくい駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年で、この修善寺に流され、元久元(1204)年、北条時政の手で入浴中に暗殺された。(享年23歳)
源氏の悲劇とこの修善寺の地とのかかわりは深い。

明治25年、修善寺を訪れた正岡子規は、「此の里に悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と」と詠んだ。
また、明治43年に滞在した夏目漱石も、範頼・頼家をしのぶ句を病床で詠んでいる。
「範頼の 墓濡るるらん 秋の雨」


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