tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

阿波踊りで人生を棒に振った御老中

2011-09-09 22:43:52 | プチ放浪 都会編

 
 

「新町橋まで行かんかこいこい」
城山から眉山に通ずる橋だ。江戸時代には、両岸にならぶ白壁の土蔵から阿波藍が積み出され、川筋には出船入船で賑わっていた。
・・・新町橋まで行かんか?こいこい!
盆踊りに沸く踊り子たちは、声を揃えて橋をめざす。

先に書いたが、天保期には天災や飢饉に見舞れ、徳島藩の財政は危機的な状況にあった。これを立て直すため、財政方に登用されたのが藍商の志摩利右衛門。利右衛門は領内の藍商をはじめとする富裕層に国恩の冥加として献金をせしめることによって、やっと藩の負債を解消した。
これにより、商人たちが藩政に大きな影響を及ぼすようになり、商人が幅を利かす分、人々の風俗や治安は乱れていった。盆踊りとしての阿波踊りもますます遊芸化した。

治安の低下を藩は黙認しておくわけにはいかない。藩は阿波踊りの町切り規制を行う。踊りを町内に閉じ込めて人を分散し、大きな騒ぎにならないようにしたのだ。町人に対しては、アドリブで踊る「にわか踊り」を違法なものとしてきびしく取締しまった。加えて、家臣に対して阿波踊りの参加を禁止。
「新町橋まで行かんか?こいこい!」の囃子は、この町切りに対しての町民たちの抗議行動の表れだ。

さて、阿波踊りで人生を棒に振った御老中、10代藩主重喜の子の蜂須賀直孝は、士組頭蜂須賀一学直芳の養子で家督相続した超エリート武士だ。
この蜂須賀直孝は、士組頭という御老中千石の要職にありながら藩の命令にそむいて群衆に混じり、阿波踊りに興じているのがばれて、乱心ということで座敷牢へ。
翌年、阿波踊りをして何が悪いと、牢を抜け出し讃州白鳥辺りまで出向いたところをまた見つけられ、またまた内牢に入れ置き。

実は当時、藩命に背いて、変装などをして踊りの群衆の中に合流し、ぞめき踊り(阿波踊り)を楽しむ藩内の武士、武家奉公人が大勢いたようだ。
藩命に背く藩士たちを片っ端から逮捕し処分するとすれば、家臣は誰もいなくなってしまうかもしれない。そこで藩は、見せしめのため直孝を改易させることにした。
こうして直孝は、藩命に背いて阿波踊りに参加したがために身分を剥奪され、所領と城・屋敷を没収されるというきびしい処分を受ける。だがやはり、それは藩の見せしめのためにしかすぎない。その後、藩は一学家に養子を入れて、一学家の御家再興をとり計らっている。


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