明治25年、修善寺を訪れた正岡子規は、「此の里に悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と」と詠んだ。
異母兄弟の弟 義経を死に追いやった冷酷な頼朝のイメージ。源頼朝が世間に嫌われているのは、彼のこのイメージからくるものだろう。
頼朝には2人の兄、義平と朝長がいて、そして、範頼、義門、希義、義経の4人の兄弟そして異母兄弟がいる。
だが、頼朝は生まれた時から嫡子として育てられた。兄弟は、生まれた所に一緒に居た訳でもなければ一緒に育てられた訳でもなかった。
頼朝も兄達も其々の母から生まれ、其々の環境で育ったのだった。
彼らが兄弟として出会った時には、頼朝は既に嫡子としてのプライドを持ち、お互いがライバル同士の関係だったのだろうか。
頼朝は兄たちのプライドを傷付け無い様に気を遣いながら、常に武家の嫡子としていなければならない。
頼朝の性格はこうして形成されて行ったのだろう。
そして、母の違う弟の範頼、義経達を、頼朝はどう思っていたのだろう。
平治の乱で、父や兄達と共に戦いたいと思い初陣を決めた、たった12歳の頼朝の心の中には、幼い弟たちを守りたいという思いがあったのではないだろうか?
だから頼朝は少しも恐れる事なく戦えたのだと思う。
だが、その愛情が義経や範頼への冷たさへと変った気がしてならない。義門は幼くして死亡。そして、希義は流刑人として20年を過ごし、土佐国で平重盛の家来によって殺害。範頼、義経は残された異母兄弟だった。
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