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tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ベニスの中心でまた迷子

2012-02-28 21:54:26 | プチ放浪 都会編

 
 

三島由紀夫が最初の海外旅行に出かけたのは1952年のクリスマス。朝日新聞特別通信員として世界一周旅行へ、旅客船で横浜港から出航した時だ。文壇の寵児として名声を確立してゆく過程にあって、「仮面の告白」がベストセラーになっていた。
この時の紀行文を「外遊日記(ちくま文庫)に書いている。ベニスについては「冬のヴェニス(昭和36(1961)年7月・婦人公論)」にある。

 ”それまですでに二度もイタリーへ行きながら、一度もヴェニスへ行かなかったのは、いつも私のつむじ曲がりのためであった。「名物に旨いものなし」と信じていたのである。
 ところが今度、冬のヴェニスを訪れて、自分の先入主のあやまりに気がついた。どんなことをしても訪れるべき土地である。こんな奇怪な町、独創的な町が、地上にまたあろうとは思われない。
 第一にそれは退廃している。救いようがないほど退廃している。”

三島由紀夫がどんなことをしてでも訪れるべき土地と評したベニスは、その一方で、生活臭にあふれる街でもあったのだ。

 ”水は汚く小運河にはいつも芥が漂い、引き潮には去っても、上げ潮にはまた帰ってくる。街のどこにいても、酸っぱい、病的な汚水の匂いが鼻をつく。”

・・・1987年に世界遺産となったベニスは、この景観を損ねるゴミの存在が、今は改善されている。ただ、三島由紀夫がベニスで滞在中は、アックア・アルタ(acqua alta)と呼ばれる高潮により、サン・マルコ広場は水没していたようだ。広場や道路には臨時の高床が組まれ、通路が確保されていた。当時、北の対岸のマルゲーラ地区で、工業用の地下水のくみ上げが行われたことにより地盤沈下が起こり、アックア・アルタによる洪水の被害が多発していた。

 ”朝露をついて陸路を美術館へ行った時も忘れられない。地図を綿密にしらべていくのだが、あんまり路がくねくねと折り曲がり、大した距離でもないのに七つや八つの橋は渡らざるを得ないので、結局カンで歩くほかなかった。そして一足毎に、街の角度は変り、小さな複雑な、燻んだ万華鏡のような展望がひらけた。最後の大運河の大橋も、段階のついた橋だったので、この町に自転車一台見当たらない理由がわかった。車のついたものではどこへもいけないのだった。”
(三島由紀夫 冬のヴェニス 昭和36年7月・婦人公論)

三島由紀夫が結局カンで歩くほかなかったと結ぶベニス。確かにそうだった。ホテルで詳細な地図をもらったのだが、くねくねと角を曲がっているうちに方向感覚を失ってしまう。
RIALTO(リアルト橋)から、運河を渡る潮風に吹かれながら、カナル・グランデ(大運河)沿いをぶらぶら歩いていて、何軒かのカフェに立ち寄っているうちに、完全に迷子。
それでも、人通りの多い道を選んで、現地の人の流れに乗って歩いていると、見覚えのある景色に遭遇。。なんと、そこは朝のスタート地点、ローマ広場だった。
・・・歩けるじゃん。ローマ広場からサンマルコ広場 まで直線距離にして約2km。だが、ネットでいくら調べても、その区間を歩いたという日本語、あるいは英語の記事が見つからない。いくら、道がくねくね曲がっていたとしても、最短距離は3kmに満たないから、簡単に歩ける距離のはずだ。事実、朝夕は地元の通勤の人たちが出勤のため、列をなして歩いている。また、両側に店が並ぶメインストリートには多くの観光客がぶらついている。

この日の朝、ローマ広場からサンマルコ広場 までヴァポレット(船)で渡り、昼から午後にかけて、サンマルコ広場 からローマ広場までの一往復半(9km?)を、写真を撮りながら一日中かけてぶらぶらと歩いた。足が棒のようになったが、ベニスの町を歩く自信がついた。迷っても、人通りを頼りにその流れに乗れば、どうにかなる。


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