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清澄庭園

2014-03-20 09:52:47 | 東京散策
この敷地の一部は江戸時代、豪商・紀伊國屋文左衛門(1669~1734)の屋敷跡といい伝えられている。そして享保年間(1716~1736)には、下総国関宿(しもうさのくにせきやど)城主・久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷となった。
しかしながら、紀伊國屋文左衛門(1669~1734)の屋敷跡であったという話は、文左衛門を好きな深川っ子がつくった昭和の伝説ではなかろうかという御仁もいる。この土地を所有する時代がラップするといいたいようだ。
それはともかく、江戸の古地図には、久世家の下屋敷が描かれていて、屋敷内に、庭園があったようである。
そこを1878(明治11)年三菱財閥創業者の岩崎彌太郎が買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、1880(明治13)年に「深川親睦園」として竣工した。鹿鳴館が落成する3年前のことである。
当時、三菱財閥は1874(明治7)年東京に本社を移し、台湾出兵や西南戦争を経て、一大産業資本に成長しつつあった頃である。
そして開園のパーティが開かれた。社員は圧倒的に土佐の人間が多く、桁はずれな酒飲み集団であるため、彌太郎は「公会式目」という、パーティーの心得を社員に配った。
パーティーは予想通り、土佐の飲ん兵衛たちは尋常ではおさまらなかった。翌日、公会式目違反で4人が馘首(かくしゅ)されたというからハメはずしもかなりのようだったと思われ、彼らは彌太郎のいう「酒は大いに飲むべし。酔うべからず。酒に酔い乱に及ぶ弱卒は用いるに足らず。」から大きく外れたのであろう。
庭園は彌太郎亡きあとも工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配している。
しかし、関東大震災では大きな被害を受けた。その後岩崎家では、破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を東京市に寄付し、市ではこれを整備して1932(昭和7)年に公開した。また、1977(昭和52)年には庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園した。
        当時の深川親睦園

涼亭
1909(明治42)年、英国の国賓を歓迎するために建てられた数寄屋風の建物である。現在の建物は、1985(昭和60)年の全面改修した。構造外見は往時の姿をとどめている。
 

「古池の句」碑
この句は1685(貞享3)年の春、芭蕉庵で詠まれた。芭蕉庵は、ここから北北西に400m行ったところ(常盤1-3)にある。
         

庭園
「清澄庭園」は、江戸時代の大名庭園に用いられた、池の周囲に築山や名石を配置した「回遊式林泉(りんせん)庭園」である。
庭園の主な植物はクロマツ・サクラ(カンヒザクラ)・アジサイ・ツツジ類・ハナショウブ である。
         

 

 
磯わたり

         

         

         
              石仏群 庚申塔2基 法印慶光供養塔[阿弥陀佛] 馬頭観音供養塔
         

ところで、「清澄公園」の「清澄」とはどこから来たのか調べてみた。
新編武蔵風土記稿によると、深川の開発は1596(慶長元)年に摂津出身の深川八郎右衛門に始まるといわれる。
1629(寛永6)年には同じく摂津の8人衆により、現在の清洲橋から門前仲町付近が埋め立てられて深川猟師町八町ができる。彼らは江戸前の魚を幕府に献上したり、舟に関する役務を負担する代わりに、年貢免除の特権を得た。そしてその8人衆の名前をとった町が生まれた。
そのひとりに清澄弥兵衛さんが居りこの辺一帯を開拓した。はじめは弥兵衛町といったが、1695(元禄8)年の検地で清住町となる。また昭和にはいって数町が合併し深川清澄町となった。
そこで、摂津出身の8人衆はどんな姓名の人がいたのだろうかと調べたが、全ては判明しなかった。他には熊井理左衛門、○○藤左衛門、○○次兵衛、相川○○○という人物のようで、それぞれがその町名の名主を務めた。
また、旧猟師町として、熊井、佐賀、相川、清住、諸(もろ)、大島、冨吉、黒江の町名が当時あったようなので、この中には開拓者の名がきっと含まれていると思う。


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