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幕末の深川を再現・深川資料館

2014-03-21 15:11:58 | 東京散策
常設展示室には、深川の江戸が再現されている。
街並みは、江戸・深川佐賀町下之橋の橋際一帯を、当時の沽券図(こけんず=土地家屋の間口・奥行に価格・地主名・家主名等を記入したもので、売買時の参考価格となった)を参考に、実物大のスケールで再構成した。
建物は商店(米屋、八百屋、船宿、油屋)、二棟九尺二間(土間と四畳半)と九尺二間半(土間と六畳)の長屋。
他に船宿、火の見櫓、水茶屋と屋台が置かれている。
時代は明治維新のわずか20数年前、天保も終わりを迎えた頃(1842年)の江戸の深川へタイムスリップ。
               

商店
大店(おおだな)・油問屋
               
舂米屋(つきまいや)・上総屋
舂米屋は長屋の大家でもある。家族は女房とふたりで子供はいない。通いの使用人ふたりと遠縁から預かっている小僧がいるという設定。米俵の入った蔵もある。
 
八百屋・八尾新
10年前から貸店舗で商いを始めた、地元、砂村新田の農家出身者。
砂村の野菜類は、当時江戸の生活には欠かせない物のひとつである。この時代に店売りが定着し始めたといわれる。家族は主人・才蔵と女房・うめと10歳の男児の設定。
 
船宿
船宿が2軒連なっている。
奥側は相模屋といい、主人と女房、16歳の女中と船頭3人を使用している。船宿といっても待合的な雰囲気があり、多様な客層が利用している店という設定。
手前の升田屋は、それに引き換え堅実な商いをしており、得意先も職人衆が集会などに利用する。信心深い亭主と律儀な女将、12歳の女中と船頭ふたりの使用人がいる。そのうちひとりの船頭はこの裏長屋に住んでいる設定。
         

長屋
棒手振職人の独身者の住い
天秤棒で荷を担いで行商する棒手振(ぼてふり=棒手売)職人・政助、木更津生まれで独身。この職人は河岸でアサリ、シジミを買いムキミにして朝晩行商する設定としており、当時の天涯孤独な地方出身者が江戸で始める商売のスタンダードだという。
棒手振は、このほか魚売り、花売り、火おこしに使う付木売り、虫売り、冷水(ひやみず)売りなどあらゆる生活用品を担いで売りに来ていた。
棒手振の職業は、雨が降れば商いはできず、また毎日同じような売上げがあるとは限らない。結局その日暮らしの生活となり、商店もその生活ぶりを知っていて、掛売りはしてくれなかった。一種の親心ということからか、そのため長屋の住人は借金がなく、収入に見合った健全な生活をしていたという。逆に当時の庶民のエリートは腕に技術を持つ大工だったという。四畳半二間の長屋に住むことが出来る収入があった。
         
独身の船頭の住い
升田屋のひとり住いの船頭・松次郎。投網や手網などの修理も自宅で行っている設定。
         
師匠の住い
住人は没落した町人の妻女か武家出身の於し津である。主人は死亡し、読み書き、裁縫、三味線などを教えて生計をたてている。娘は武家へ女中奉公に上がり不在。きちんとした生活ぶりの中に女所帯らしい空気がかもし出る設定。
ここの家には天窓があるが、明かり取るというより、煙を出す役目のようだ。
 
井戸
江戸市中の大半は、埋立て地であったので、掘っても塩辛い水であった。そこで当時の生活水は、井の頭池を水源とする神田上水や多摩川を水源とする玉川上水を利用していた。この水を石樋、木樋で長屋の井戸に送水される。
井戸は、竹のたがをはめた大きな桶を地中に埋め込み、木桶から呼樋と称する竹筒でつなげる。このため多量に水を使うと空となるため、そこで水がたまる間の待ち時間に、かみさん連がおしゃべりすることが井戸端会議の語源となった。
ただ、深川は幕府の鑑札を受けた水舟業者が現、中央区の呉服橋門内銭瓶(ぜにがめ)橋や一石橋の左右・竜閑(りゅうかん)橋下で濠に落ちる神田・玉川上水の水を舟に積み運び、水売りが天秤棒で売り歩いたようだ。
                   
雪隠(せっちん=トイレ)
長屋には、住民の数に応じて相当数の共同トイレがあった。扉は下半分きりない。
排泄する糞尿は畑の肥料となり、大家の臨時収入となった。その値段は食事の内容によって差があって、大名、武家、町屋の順位であった。江戸時代はリサイクルの社会であったが、糞尿までがリサイクルされことは世界でも珍しい。
    
長屋には、他に米屋の職人・秀次一家(女房・お久、長男・和)、木場の職人大吉・お高夫婦などが住んでいる。

屋台
7割が男の江戸社会にとって屋台に人気が集まり、外食産業が発達した。
二八そばの屋台
そばの値段は基本的には16文。追加料金を払えば油揚げなどをトッピングしてもらえる。屋号の「二八」とはうどん粉とそば粉の割合から来た説と、2×8=16(文)とそばの値段から来た説がある。
庶民が使用する銭貨の最低が1文で、その後4文銭できると数える手間が省けると重宝がられ、広く流通した。そばの値段が16文も、このためとも思える。
江戸ッ子に一番人気があったのがそばで、1町に1店舗ほどあって、それ以外に二八そばや夜鷹そばなどの屋台があった。
         
天ぷらの屋台
天ぷらも江戸の人気メニューであった。油を使っているのでカロリーが高く、腹もちがよいと大工など身体を使う職人に人気があった。天ぷらは串が刺してあり、大根おろしなどの天つゆにつけて食べた。
人気の屋台は他に寿司があった。
         

茶屋
江戸は、当時まれにみる観光都市であった。
江戸には寺社が多く、毎日のように、どこかで縁日や祭、市などが開かれていた。人が多く集まるところには休憩するための茶屋(水茶屋・掛茶屋)が多くあった。
茶屋の多くは現代でいう不法占拠のため、いつでも撤去できる葦簾(よしず)張りの簡単な造りであった。
         

猪牙(ちょき)
猪牙船は、猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟。九州から江戸湾まで広い地域で使われたが、浅草山谷の吉原遊郭に通う遊客がよく使ったため山谷舟とも呼ばれた。船体が細長く、また船底をしぼってあるため左右に揺れやすい。そのため櫓でこぐ際の推進力が十分に発揮されて速度が速く、狭い河川でも動きやすかった。
語源は、明暦年間(1655~57)に押送船の船頭・長吉が考案した「長吉船」という名前に、形が猪の牙に似ていることとをかけて猪牙と書くようになったという説と、小早いことをチョロ・チョキということからつけられたとする説の2つがある。
         

火の見櫓
1657年の明暦の大火後、火事を見張るために火の見櫓が設けられた。火の見櫓には2名が常駐し、火事を発見すると太鼓を打ち鳴らして周囲に知らせた。
火の見櫓は木造黒塗りで、最も格が高い定火消の火の見櫓で高さがおよそ五丈(約15m)、町火消の火の見櫓で三丈(約9m)以下とされていた。
また、櫓のない町には、自身番(自警団の屯所)の屋根上に梯子を立てて半鐘を吊るすだけの「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設けられた。
                

長屋には、長火鉢や七輪、鏡台、火縄箱のような生活道具類が全て揃っている。そして深川の一日の暮らしを音響と照明効果で演出されており、夜明けの照明に始まり、鶏の鳴き声、あさり売りや金魚売りの声、雨の音、虹や夕焼け等を表現し、下町情緒を盛り上げ、170年前の深川の世界へと誘ってくれる。
         

                                  参考資料 : 深川資料館
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