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松平定信の墓所 霊願寺

2014-03-20 11:12:51 | 東京散策
霊願寺に15歳で徳川十一代将軍・家斉(いえなり)の下で老中首座を務めた松平定信の墓がある。何故に領地の白川ではなく、この寺名のか東京都教育委員会や江東区の解説にも書かれていない。この付近に藩の屋敷があったのかとも思ったが、松平家の上屋敷は八丁堀、中・下屋敷は築地である。しかも、亡くなる前に大火があって、その大火は日本橋から芝まで広がり、松平家全ての屋敷も類焼した。当時定信は風邪で病床に着いており、松山藩三田の中屋敷に駕籠で避難し、そこで数日後に亡くなっている。享年72歳。墓は、東京都の史跡となっている。
領地の白川には定信が造った、日本初の公園といわれる南湖公園の一角に、祭神として大正期に創設された南湖神社がある。
定信は、徳川三卿のひとつ、田安家から白川松平家に養子にはいった人物である。次期将軍候補にもなっていたが、田沼意次の策略によって白川松平家に養子となったようである。
松平を名乗ってはいるが、家康の母の離婚後の嫁ぎ先で、後になって松平姓を許された外様であり、定信にとっては、格下げの気持ちであろう。
定信といえば、三大改革のひとつ、寛政の改革を実行した老中として知られている。祖父・八代将軍吉宗の享保の改革を手本に改革(1787~93)を行った。
その背景に、天明の飢饉(1782~88)、浅間山の噴火(1783)、江戸の大火などの社会環境の変化がある。
改革は、武士を頂点とした支配体制を立て直すため、商人、町人層に影響がある内容であった。このため、民衆や幕臣・大奥に不評で、6年で改革は失敗に終わっている。

その時代に、後世に名が残った人物が活躍している。また、影響をも受けている。
政策の中に、火付盗賊改方の長・長谷川平蔵(1745~95)が発案した石川島人足寄場(浮浪者の収容施設)の新設がある。
また、贅沢(奢侈)を禁止して倹約を推奨・強制するための奢侈(しゃし)禁止令よって、多才な摺版画、美人大首絵、花魁画などの華美な錦絵が禁止(1790)されたり、実在の女性の名前を表示することが禁止(1792)される。さらには、過度の重ね刷りや赤色の使用禁止が発令された(1792)。
このことによって、多くの浮世絵師、戯作家、狂歌師、出版元が影響を被った。名をあげると、喜多川歌麿(1753?~1806)、山東京伝(1761~1816・木場の質屋の子)、大田南畝(なんぽ・1749~1823)、出版元の蔦谷(つたや)重三郎(1750~1797)などがいる。
なお、歌麿と山東京伝は50日の手鎖の刑を蔦谷重三郎は財遺産半分没収の刑を受けている。因みにレンタルCD・DVDの大手であるTSUTAYA(蔦谷)は重三郎にあこがれて店名としているそうだ。
                  
たまたま、深川を歩いている時に歌麿の肉筆画「深川の雪」が発見された報道があり、直後にNHK歴史秘話ヒストリアで番組が組まれていたので、深川に墓がある寛政の改革の主導者・松平定信について調べてみた。
霊願寺のとなりにある深川資料館では「江戸の三大改革と松平定信」の企画展が10月まで開かれている。

霊願寺に訪れた際、入口門柱に被葬者の名前が大きく掲げられていた。葬儀があるのなら失礼しようと、隣の深川資料館に向かった。
しかし、史跡・松平定信の墓は見たいと、参道から葬儀のテントの裏を通って墓所に向かう。三脚を据えた大きなカメラが本堂入口中央にあるのが見えた。かなり大きな葬儀なのかなと思いながら、墓所までいった。
本堂の脇にもテントが張ってTV画面を見つめている複数の人物がいた。その後ろにもテントが張ってあった。
なにかおかしいな。と思いながら参道に戻ってきて、本堂前のこの風景を今一度見渡した。
故人への花輪の代わりのこの供物、名前を調べたのだが分らなかった。TVドラマの「赤い霊急車」ではよく見るものなのだが、関東では花輪のはずだがと思い、贈り主を見ると、祇園○○、四条○○、東山○○なんて京都関係の名ばかりが連なっていた。
どうもドラマの撮影現場に来てしまったようだ。京都の舞台を東京で撮影しているようだ。
そういえば、大きなカメラを中央に据えて葬儀をするのも可笑しなものだった。それに「カット!」って聞いたような気もするね。
         
前回の佃散策でも隅田川の橋下で撮影をしていたり、この辺りはよく使われているのだろう。
念のため、供物の贈り主名が実在する確認はした。ただ、供物の名が京都の葬儀社でも載っていないのは何故だろう。

追記
この撮影ドラマが分った。驚くなかれ、フジTVの赤い霊柩車「卒都婆小町が死んだ」であった。
この寺院に参って1ヶ月余後、フジTVの赤い霊柩車の放送で、葬儀のシーンが出てきた。撮影現場がもしやと思って確認したら、やはりここであった。
被葬者・島村かすみは料亭の若女将、能楽師・鷺村菊三郎、その恋人・藤川小蝶、被葬者の友人で元女優の美容室社長・梅溪美鈴などが登場する。
今回、第33作で、最近は年一の放送だとか。このあと名の知れた俳優が来たのかな、何せこの寺の三門の脇に幼稚園があって参った時は賑やかだったから。
 

清澄庭園

2014-03-20 09:52:47 | 東京散策
この敷地の一部は江戸時代、豪商・紀伊國屋文左衛門(1669~1734)の屋敷跡といい伝えられている。そして享保年間(1716~1736)には、下総国関宿(しもうさのくにせきやど)城主・久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷となった。
しかしながら、紀伊國屋文左衛門(1669~1734)の屋敷跡であったという話は、文左衛門を好きな深川っ子がつくった昭和の伝説ではなかろうかという御仁もいる。この土地を所有する時代がラップするといいたいようだ。
それはともかく、江戸の古地図には、久世家の下屋敷が描かれていて、屋敷内に、庭園があったようである。
そこを1878(明治11)年三菱財閥創業者の岩崎彌太郎が買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、1880(明治13)年に「深川親睦園」として竣工した。鹿鳴館が落成する3年前のことである。
当時、三菱財閥は1874(明治7)年東京に本社を移し、台湾出兵や西南戦争を経て、一大産業資本に成長しつつあった頃である。
そして開園のパーティが開かれた。社員は圧倒的に土佐の人間が多く、桁はずれな酒飲み集団であるため、彌太郎は「公会式目」という、パーティーの心得を社員に配った。
パーティーは予想通り、土佐の飲ん兵衛たちは尋常ではおさまらなかった。翌日、公会式目違反で4人が馘首(かくしゅ)されたというからハメはずしもかなりのようだったと思われ、彼らは彌太郎のいう「酒は大いに飲むべし。酔うべからず。酒に酔い乱に及ぶ弱卒は用いるに足らず。」から大きく外れたのであろう。
庭園は彌太郎亡きあとも工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配している。
しかし、関東大震災では大きな被害を受けた。その後岩崎家では、破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を東京市に寄付し、市ではこれを整備して1932(昭和7)年に公開した。また、1977(昭和52)年には庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園した。
        当時の深川親睦園

涼亭
1909(明治42)年、英国の国賓を歓迎するために建てられた数寄屋風の建物である。現在の建物は、1985(昭和60)年の全面改修した。構造外見は往時の姿をとどめている。
 

「古池の句」碑
この句は1685(貞享3)年の春、芭蕉庵で詠まれた。芭蕉庵は、ここから北北西に400m行ったところ(常盤1-3)にある。
         

庭園
「清澄庭園」は、江戸時代の大名庭園に用いられた、池の周囲に築山や名石を配置した「回遊式林泉(りんせん)庭園」である。
庭園の主な植物はクロマツ・サクラ(カンヒザクラ)・アジサイ・ツツジ類・ハナショウブ である。
         

 

 
磯わたり

         

         

         
              石仏群 庚申塔2基 法印慶光供養塔[阿弥陀佛] 馬頭観音供養塔
         

ところで、「清澄公園」の「清澄」とはどこから来たのか調べてみた。
新編武蔵風土記稿によると、深川の開発は1596(慶長元)年に摂津出身の深川八郎右衛門に始まるといわれる。
1629(寛永6)年には同じく摂津の8人衆により、現在の清洲橋から門前仲町付近が埋め立てられて深川猟師町八町ができる。彼らは江戸前の魚を幕府に献上したり、舟に関する役務を負担する代わりに、年貢免除の特権を得た。そしてその8人衆の名前をとった町が生まれた。
そのひとりに清澄弥兵衛さんが居りこの辺一帯を開拓した。はじめは弥兵衛町といったが、1695(元禄8)年の検地で清住町となる。また昭和にはいって数町が合併し深川清澄町となった。
そこで、摂津出身の8人衆はどんな姓名の人がいたのだろうかと調べたが、全ては判明しなかった。他には熊井理左衛門、○○藤左衛門、○○次兵衛、相川○○○という人物のようで、それぞれがその町名の名主を務めた。
また、旧猟師町として、熊井、佐賀、相川、清住、諸(もろ)、大島、冨吉、黒江の町名が当時あったようなので、この中には開拓者の名がきっと含まれていると思う。