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あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

和泉川は”せいしゅん”

2013-04-05 16:10:42 | 散策
 


和泉川のほとりは春真っ盛り 盛春


  
菜の花とムラサキダイコンソウ

 
ハナニラ


  
今年もあった 白いスミレと白いタンポポのシロバナタンポポ

   


つくしも残っていた


 
葉がしっかり生え揃い実(サクランボウ)までなっているサクラのある サクラ様々


 
山ザクラ



ブロッコリーの花


  
小麦の収穫はもう少し先
 


 
春の小川はサラサラいくよ

古民家 雛の飾り

2013-03-04 00:00:01 | 散策
 

 

     

 

 

          

3年ぶりに見学した。
昨年から始まった「手毬」の展示に人気があるようだ。
ひとつひとつ糸をかがった「糸かゞり手毬」と木目込み手法の「木目込み手毬」が展示されている。
「吊るし飾り」や「布絵」などが、案内の家人が住まいとされる部屋内に飾られている。
また、平安時代から伝わる「貝合わせ」の展示はめずらしい。貝に蒔絵が施されているので江戸時代の流れの「貝合わせ」なのだろうか。

 

 

 

 

茅葺を新しい屋根で覆っている築百数十年の建物、調度品や尺(30cm)太さの大黒柱も魅力だが、2階に蚕棚がある事を聞き、そちらのほうに興味をそそった。でも、上がれないようだ。
この辺りの養蚕業は、明治の中ごろで農家の20%前後で行われていたが、大正期に入ると80%以上と大幅に増加し、近隣の製糸工場が姿を消した時代になっても農家の大きな収入源として行われていた。
蚕を育成中の農家は、蚕中心の生活となり、孵化(ふか)から繭をつくるまでの1か月余は休眠期間を除いて、蚕が24時間休みなく桑の葉を食べるので、毎日3~4回補給する作業が行われ、朝早くから夜遅くまで桑の葉の刈り取りと蚕の世話に追われ、家族にとって養蚕は大変な労働であった。
1935(昭和10)~1938(昭和13)年の養蚕終末期になっても、この辺り一帯は70%強の農家が養蚕業を営んでいた。
しかしながら、太平洋戦争を前にして食糧増産を図るために国策によって殆どの桑園が畑に切り替えられ、養蚕も桑園もこの地域から姿を消してしまった。
戦後の化繊にその座を奪われる以前に戦争によって養蚕業が消えていたのである。

 



 

              


                                             味噌蔵を改造した茶室
              



この展示は今年で10回目を迎えた。
ご当主の女性は80歳ということで、今回限りで展示は終了するとのこと。残念な限りである。
しかし、 糸かゞり手毬つくりはこれからも続けていくと話される。お元気で。
 

中屋敷の古民家吊るし飾り

2013-03-03 00:00:01 | 散策
吊るし飾り雛祭り作品展


 

 

 

 

                 

 

 

 

 

吊るし飾り雛祭り作品展は今年で9回目を迎える。
会場は、瀬谷区北部の中屋敷にある築130年余の古民家である。この建物、以前は1894(明治27)年設立の石井製糸場があった。建物2階部分はリフォームされているものの、1階部分には製糸場時代の名残りがみられる。

 

 

当時の製糸場で働く女工は、村の小作人の子女や他県の山奥の僻地から募集し、寄宿生活をしていて、午前3時から夜の10~11時まで働いた。休みはというと、ひと月に1日休みが1回、半日休みが1回であったという。
製糸業は、世界的にも第一次世界大戦後の1920(大正9)年に、糸価がピークに達していて、その後はたちまち暴落に転じ、製糸工場、養蚕農家とも大打撃を受けた。つづいて1923(大正12)年の関東大震災で多くの製糸工場が倒壊し、廃業に追い込まれている。
瀬谷に7社ほどあった製糸工場が1937(昭和12)の調査で2社のみの存在にすぎないので、石井製糸場もこの時代に廃業したと思われる。
明治政府の富国強兵の国策によって外貨獲得の一翼を製糸業が担っており、現在日本の礎となったことは確かであろう。

吊るし雛 天王森泉館 2013

2013-03-02 00:00:01 | 散策
 
      
 

横浜市泉区にある天王森泉館でひな祭りに因んで、創作アート吊るし雛が飾られている。
庭の梅の木の下には早咲きの三寸アヤメが花開いている。今年は、寒い冬で咲が例年より遅いという。

 
 
 
 
                
 
現在では、吊るし雛(雛のつるし飾り)は奥方の趣味の手芸で各地に広がっているが、もともとは、江戸時代後期から伝わる伊豆稲取地方の風習である吊るし飾りのことのようだ。
長女の初節句に、無病息災、良縁を祈願して雛壇の両脇に細工を吊すものであり、古くは庶民の雛壇代りでもあった。

 
 
 
 
               

この建物、もとは清水製糸場という製糸工場の本館であった。
         
本館左側を復元し現在の建物となっている。
右側1階はまゆ選(え)り場と食堂で、2階は女工の宿舎となっていた。1916(大正5)年当時は90名の女工が寄宿していた。
ここで使用されていた道具類などが、近くの中和田南小学校の郷土資料室に展示されている。
 


天王森泉館の公園には、冬に花弁の様な形になるシモバシラがつくられる。
このシモバシラというのは、シソ科の多年草のシモバシラ(霜柱、学名:Keiskea japonica)という日本固有の植物の枯れた茎に霜柱が出来る現象である。
シモバシラの茎は冬になると枯れてしまうが、根はその後長い間活動を続けていて枯れた茎の道管によって水が吸い上げ続けられる。そして、外気温が氷点下になると、道管内の水が凍って、茎から氷柱・シモバシラが出来るようだ。
訪れた日の朝は気温が下がり、この公園近くの田んぼには氷がはり、霜柱が立っていた。この気候ならもしかしてと期待があった。
 
公園には、シモバシラのなごり程度の形が出来ていた。手前の枯葉からシモバシラの大きさが想像出来ると思う。公園の係の方に伺うと、今期は12月ごろからその現象が起こり、最盛期は1月上旬から中旬にかけてで、風がなく放射冷却でよく冷えた朝に見られるという。ほんとに花弁のような時もあるとのことだ。最盛期過ぎると吸い上げる力が弱くなって、いくら寒くても写真のようななごり程度の大きさにきりならないようだ。また、年によっては全く出来ないこともあるそうだ。 
この近くでは、高尾山のシモバシラが有名である。
ここのシモバシラ、来年に期待である。

今日は初午 2013

2013-02-09 17:48:48 | 散策
今日、2月9日は初午祭である。
たまたま藤沢宿を歩いて、白幡神社近隣の稲荷神社を写す。

森脇稲荷と領家稲荷
                   
白幡神社の境内に氏子の森脇町と領家町の稲荷神社を祀っている。

       
                   
                   
                     

福壽稲荷
       
白幡横町町内会の会館の建物を利用して祀られている。稲荷神社は古来より藤沢宿坂戸町字御殿辺に鎮座するとある。
         


笠森稲荷
                   

         
藤沢市藤沢1-6付近に祀られている。通常は社の扉は閉じられているは本日はお祝いとあって開かれている。
         

正宗稲荷
                   

         
鎌倉妙本末寺である妙善寺の境内に祀られている。
「正宗」の名のいわれは諸説あるようだが、鎌倉時代後期の刀匠新藤五国光の弟子である、五郎正宗は日蓮の信者で、法華経により魂入して刀を鍛えたといわれ、この正宗稲荷堂にお参りをしてご利益を得ていたという一説がある。
鎌倉の正宗の屋敷跡にも「刃(やいば)稲荷」が祀られている。
          正宗殿

         
初午祭は今では二月最初の午の日とされるが、古来は、立春以降の最初の午の日に行われていた。
その年の豊作を祈った農村のお祭が原型であって、それに、稲荷信仰が結びついたものといわれている。
初午詣でをすると農家は五穀豊穣、商家は商売繁盛のご利益があるとされている。その後、子孫繁栄、商売繁盛、長寿、無病息災などあらゆる祈願の対象となった。

初午を取り上げたのは、家の近くの稲荷社の幟が一昨年まで上がっていたのが、昨年は上がらなかったので気になり、今年はと、2月に入って初午の日が気になっていた。
カレンダーを見れば初午の日は分るのだが、たまたま今日藤沢を歩いていて今日が初午の日であることを知った。
家の近くの稲荷社の幟は今年も上がらなかった。歴史ある稲荷社なのだが。

近くの町の節分祭

2013-02-03 21:37:12 | 散策
2月4日は節分。各地で豆まきが行われた。
成田山新勝寺や総持寺などの有名な寺社だけが豆まきじゃない、近くで豆まきの行事が行われないだろうか。
それで探してみた。
         
裃、袴こそつけてはいないが、町に根付いた神社の氏子たちが行う豆まきである。
         
        
節分とは、「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節日(せちにち・季節の変わり目にあたって祝事をする日)を指し、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日にあたる。そこで年に4回あったものだが、日本では立春は1年のはじまりとして、特に尊ばれるため、節分といえば春季の節分のみを指すようになっていったようだ。
                            
節分には豆をまくが、これは中国の習俗が伝わったものとされている。豆は魔を滅する(退治する)「魔滅(まめ)」に通じ、無病息災を祈る意味があるといわれる。
自分の数え年の数だけ豆を食べると病気にならず健康でいられると言われている。
              
              
また、最近では恵方巻を家庭で食べる風習がある。
これは、諸説あるが、江戸時代の終わり頃、大阪の商人たちの商売繁盛と厄払いの意味合いで、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」の習慣が始まったとされた説がある。
戦後廃れていたが、大阪の大阪鮓商組合や大阪海苔問屋協同組合が販売促進の為に大々的に宣伝をし、これにスーパーやコンビニが便乗して広がったようだ。
恵方巻というから方角も関係していて、今年は南南東に向かって願い事を浮かべながらかぶりつくと叶うとされる。
                           

この神社、瀬谷区二ツ橋にある天照大神と素戔鳴命(すさのおのみこと)を祭神とする二ツ橋神明社である。
         
         

創建は、この辺りの瀬谷野新田が検地された年である1725(享保10)年といわれる。
明確ではないがと注釈が入る慶安から元禄の頃(1648~1703)という説もある。
1873(明治6)年に二ツ橋字広町にあった津島牛頭天王社を合祀した。理由はお祭り費用の関係というが。

豆まきで福を呼ぶと共に春を呼び込みたい。久々の寒い冬となったので特にそう願いたい。
さっ、ご一緒に「福は内、福は内!春もうち」。

白いイワシャジン

2011-11-06 17:03:10 | 散策
白いイワシャジン

イワシャジンは紫色だけと思っていたのに、白があったので写す。

          


白のイワシャジンは京・奥嵯峨 祇王寺で鉢に植えられて可憐に咲いていた。

              

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
平家物語に登場する祇王祇女の像が安置されている尼寺である。

              
 



祇王寺と云えばこの竹格子の吉野窓である。
この窓から苔むした庭の眺めが京都らしいので、嵯峨野では落ち着きがあって一番好きである。

                       




天竜寺にもホトトギスとりんどうがさいていた。

 


天城山隧道

2011-06-09 17:02:49 | 散策
         

「天城トンネル」の名で親しまれている「天城山隧道」は1905(明治38)年に天城湯ヶ島町と河津町を結ぶトンネルとして開通した。
              
              

長さ446m、幅3.5m、高さ3.5mの隧道(トンネル)である。

              

1970(昭和45)年に新しい天城トンネルが開通したため、現在では旧隧道に関心がある車のみの往来のため、車を気使うことなく安全に歩いて通ることができる。トンネル内部は灯りが点いている。

              

天城トンネルと云えば川端康成作の「伊豆の踊り子」をはじめとする多くの文学作品に登場するトンネルとして広く親しまれている。

           

踊子歩道として浄蓮の滝と河津七滝を結ぶ16.2kmの文学散策コースにもなっている。
 
    
     伊豆の踊り子文学碑               

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。・・・

伊豆の旅に出た一高生の私は、天城峠で出会った踊り子の清純な姿にひかれ、その旅芸人の一行と下田まで道づれとなった。

        

                 瞳の美しい薫と云う名の踊り子は14歳



          
           初景滝の踊り子と私像

2001(平成13)年、わが国に現存する石造道路隧道の中で、最大長を有する土木構造物で、技術的完成度が高く、明治後期を代表する隧道であるとして、道路隧道としては全国で初めて重要文化財に指定された。
また、日本の道100選にもなっている。


河津七滝

2011-06-01 14:37:08 | 散策
          

河津七滝は古い岩層の上に溶岩が流れ込み、その末端に出来た滝である。
河津では滝のことを「タル」と呼ぶが、この言葉は平安時代から呼ばれている貴重な民族語で、水が垂れると云う意味の「垂水(たるみ)」がルーツとも云われている。

               
大滝遊歩道の案内板の脇を下りてゆく。この遊歩道は「大滝天城荘」の敷地内であり、幾つかの浴室の脇を通って行く。川辺にある露天風呂も眼下に見える。

大滝(おおたる)

旅館の敷地内にある大滝は高さ30mの落差があり、水が流れる勢いや、規模の大きさは七滝中最大である。

出合滝

名前が示すように河津本流と萩の入川が合流してひとつになるところにできた滝である。

かに滝

滝の白さと周囲の木々の緑のコントラストが美しい。






 ハイ、パチリッ! パネルが絵ではなく画像なので実物により近いかな

初景滝

昔、この滝の洞に住んで修行をしていた行者が、持っていた小金を目当てに襲われて殺され、滝つぼに投げ込まれた。その行者の名前が「初景」だった所から名付けられた。

蛇滝

玄武岩が蛇の鱗のように見えることから名付けられた。

えび滝

白く流れる滝がエビの尾ひれのように見えることからきている。

釜滝

覆い被さるような玄武岩の上から流れ落ちる。かつては地獄谷として恐れられていた。

柱状節理

河津七滝の周辺には岩が柱状に規則正しい割れ方をしているのを見ることができる。これを節理と云う。溶岩がゆっくりと流れながら冷えていくときにできるもので、その割れ方によって、方状、板状、柱状節理などがある。
河津七滝の場合は、玄武岩の溶岩からできた節理で、なかでも釜滝では、はっきりとその露頭を見せている。

ユキノシタの群生

花がきれいに咲いていた。


ガイドブックによると七滝全てを巡ると110分かかるようで、今まで全てを巡ったことはなかったのではと思って、今回は時間もあったのでのんびりと七滝巡りをした。

松崎 なまこ壁

2011-05-31 16:58:48 | 散策
          
           近藤平三郎生家

民家・土蔵などの外壁のひとつの様式で、明治時代から昭和初期までは各地で見うけられた。

壁面に四角い平瓦を並べて貼り、「めじ(目地)」と呼ばれるその継ぎ目に漆喰(しっくい)をかまぼこ型に盛り上げて塗ってある点が特色。
本来は防火、保温、防湿などを目的として造られたものである。


1)明治商家 中瀬邸

              

中瀬邸は1887(明治20)年、呉服商家として建てられた。母屋と土蔵になまこ壁があしらわれている。


 中瀬邸の母屋と土蔵


2)伊豆文邸

1910(明治43)年頃に建てられ、昭和の初めまで呉服店を営んでいた商家。
建物内には帳場や土間が残されており、現在は観光客の休憩場となっている。隣接する小公園内には「伊豆文の足湯」が設置されている。


 2階建の店舗兼住宅と2つの蔵


3)長八美術館

伊豆長八こと、入江長八は生来の器用さで江戸の左官として比類ない名人であった。
長八美術館には長八の漆喰鏝絵(しっくいこてえ)が50作品、展示してある。




 龍の図と天鈿女命(あまのうずめのみこと)


                             花を持つ天女(現代作家の作品)


4)岩科学校

岩科学校(いわしながっこう)は1880(明治13)年に竣工した伊豆地域では最古の小学校として知られる学校である。1975(昭和50)年に国の重要文化財に指定された。
総工費の4割余りを住民の寄付で賄うと云う地元の熱意によって建築された。

1975(昭和50)年、「旧岩科学校校舎」として国の重要文化財に指定される。

          



 入江長八作漆喰鏝絵「千羽鶴」の一部


古くから松崎一帯と下田周辺にかけて、なまこ壁の家や蔵がかなり多く目立ったが、昭和30年代(1955~1964年)あたりを境として大幅に減り、今ではほんのわずかを残すのみとなった。
しかし、日本的な独特の美しさと有効性が再び見直されつつあると云い、松崎はなまこ壁の町である。


 町中には「なまこ壁通り」なるものがあり多くの家、蔵や塀がなまこ壁で飾られている