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あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

横浜ブルーライン沿線の桜を愛でる

2017-04-15 14:56:35 | 散策
昨年も横浜市内の代表的な桜の名所を巡ったが、まだまだ桜の名所はたくさんある。
と、云うことで今回はブルーライン沿線を横浜が満開宣言をした翌日に回る。



ブルーライン沿線


大岡川河畔  港南区
ブルーラインを阪東橋で降りて河畔を小雨の中、弘明寺まで歩く。


















  山王橋公園  南区南太田







  蒔田公園  南区宿町 








弘明寺  南区弘明寺






この日は花まつり





弘明寺公園  南区弘明寺







柏尾川河畔  戸塚区













訪れた日:2017.4.8(横浜満開2日後)


横浜シーサイドライン沿線の桜を愛でる

2017-04-14 15:33:22 | 散策
昨年も横浜市内の代表的な桜の名所を巡ったが、まだまだ桜の名所はたくさんある。
と、云うことで今回はシーサイドラインの沿線を回る。


シーサイドライン沿線


新杉田公園  磯子区杉田






球場や4面のテニスコートがメインの区の公園。
桜の木が数本植えられているが桜の名所の分類には入らないスポーツ施設の公園だと思う。
なぜに桜で検索してこの公園がヒットしたのか?
ただ、すぐ脇をシーサイドラインが通ってはいるものの。


富岡総合公園   金沢区富岡東2丁目
















小高い丘の自然樹林が植わる中にテニスコート、アーチェリー場が整備されている。空にはくちばしの形や大きさから猛禽類の一種と思われる鳥が6羽ほど飛び交っている。
桜の道も整備されている。
かつて、ここには日本海軍の基地「横浜海軍航空隊」があった。


 

稱名寺庭園  金沢区金沢町






















称名寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、この地に館を構えた鎌倉幕府の要人・北条実時(上の像)の持仏堂から始まったとされる。
稱名寺庭園は鎌倉時代随一の浄土庭園で、平安時代中期から鎌倉時代にかけての仏教の浄土思想の影響を大きく受けたものであり、平等院鳳凰堂に代表されるように、極楽浄土の世界を再現しようとしたため金堂や仏堂をはじめとした寺院建築物の前に園池が広がる形をとっている。
稱名寺庭園は浄土庭園様式最後庭園とされ、大変重要な庭園である。


横浜シーサイドライン











全線、14駅、11kmを25分間で走る横浜シーサイドラインは1983年に横浜市、京浜急行、西武鉄道等43社の出資で開業した。
現在、ラッシュ時4~7分、日中7~8分間隔の無人運転で走行している。
車窓からは工場群や八景島シーパラが眺められる。

訪れた日:2017年4月7日(横浜満開の翌日)

やっと晴れて江の島に

2015-07-11 21:57:34 | 散策
7月10日間の連続降雨もやっと一段落。
晴れの土曜、11日に江の島に足を運ぶ。

行きは江ノ電で



行き先表示のイラストが可愛い 花火にアサガオ 季節によって様々あるようだ



江の島・江の島弁天橋
歩道橋が江の島弁天橋と名付けられたのは1949(昭和24)年である。鉄筋コンクリートの橋脚に上部は木製の橋であった。
それから遡ること、1891(明治24)年には江の島桟橋と云う名の橋があったと云う。
          

 

          


明日は江の島神社境内社の八坂神社が例祭
本日は宵宮、明日は神輿が腰越・小動神社まで出かける「神幸祭」、江ノ電電車を避けながらの渡御となる。




神輿は島を出る前に禊プラス海中の神を迎えるためにここから30分海中へ。


江の島神社は日本三大弁天のひとつに数えられる。
奥津宮、中津宮そして辺津宮(へつみや)の3宮から構成され、それぞれに女神を祀り、江の島大神と総称する。



辺津宮


中津宮


奥津宮拝殿天井・八方睨みの亀


奥津宮


奥津宮・灯篭の彫刻


龍宮


道標・庚申塔
この石柱は、江の島への道筋に杉山検校の寄進によって建てられた道標
江ノ島弁財天にたどるすべての人の現世と来世での安穏と極楽の願いが込められた文言が記されている。





店先の水連の花


群猿奉賽像庚申塔(ぐんえんほうさいぞうこうしんとう)は、四面に「見ざる、言わざる、聞かざる」をはじめとする36匹の猿が浮き彫りにされている江戸時代の庚申塔。
これは神猿が山王神の神徳に奉賽(謹んで神を奉る)している図となっている。
     


岩屋
かつては、信仰の場所となって、弘法大師が訪れた際には、弁財天が現れ、江の島弁財天信仰の発祥地と考えられている。また、源頼朝は奥州平泉の藤原氏征伐の際、ここに祈願した。
第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)のふたつの洞窟から構成される波によって浸食されてできた洞窟。江の島弁財天信仰の発祥地と考えられている。
 
左画像には昔の壊れた順路の石段が見える







昔の岩屋の入口の写真

岩場に咲くスカシユリ

イワユリとも云われる海岸の岩場に咲く多年生草 6~8月にかけて開花する

 
波高し



台風の余波か波が橋の壁に打ち上げられている



江の島東浜
この一帯をかつては東洋のマイアミと売りこんでいたが、久々に見る東浜は海の家もまばらだ。
1日に海開きを行って以降はじめての好天の休日と云うのに海岸には殆ど人がいない。
サーフィンやウインドサーフィンに興じている人の方が多いのでは?






トンビに注意
 

帰りは小田急で
         

見事! 関ヶ原のアジサイ

2015-06-24 13:07:12 | 散策
          
関ヶ原に咲いたアジサイの群れ、150mほどに植えられているのだが、今が見ごろとなった。
関ヶ原と云っても、歴史に残るところではなく、瀬谷区に流れる和泉川(いずみがわ)沿いの水辺の「関ヶ原の水辺」のこと。
なぜこの地名がついたかは、地元の歴史家でも分らぬようだ。
          
          
 
          
 
          
          

 
          
 
和泉川は、瀬谷区の東端にある瀬谷市民の森を源流として、瀬谷区、泉区を南下し、戸塚区で境川に合流する全長は9.42kmの二級河川である。
川沿いには緑地や屋敷林などの自然景観が多く残され、水と緑の谷戸景観をとどめている。
二ツ橋~宮沢の約2.8km区間では6つの水辺が整備されており、市民の散歩道となっている。ここ関ヶ原の水辺もそのひとつである。
また、水辺にはカワセミや冬の渡り鳥の住処にもなっていてバードウォッチングに訪れる人もいる。
「国土大臣賞」「第1回関東のいい川づくり」「手作り郷土賞」にも選ばれ、テレ朝の報道ステーションの番組でも松岡修造さんのレポートで紹介されている。

訪れた日:2015.6.22


横浜の紅葉を眺める

2014-12-07 00:44:44 | 散策
横浜公園
横浜港が開港された時代1858(安政5)年、この場所には港崎遊郭(みよざきゆうかく)があった。しかし1866(慶応2)年の大火によって焼失した。明治維新の影響によって復興が遅れ、ようやく1875(明治8)年、外国人の環境改善の目的で、跡地に公園が出来た。また、公園から港に向かって新道路・日本大通が建設された。なお、この折に馬車道や海岸通りも整備されている。
敷地内には、横浜DeNAの本拠地、横浜スタジアムや日本庭園などがある。
          

             


日本大通
日本大通は、横浜公園より海岸までおよそ450m、幅36mで延焼防止の目的で造られた。
道の両脇には60本余りのイチョウの木が植えられている。
          
横浜公園から望む


          
日本銀行横浜支店(右)


                                   
横浜地方裁判所


          
神奈川県庁・葉が落ちて淋しい  落ちはじめると一揆だと

  
          
横浜開港資料館



山下公園通
山下公園通は、文字通り山下公園に沿った道路で、開港広場から山下橋までを称する。
沿道のイチョウの木はおよそ200本といい、新・日本街路樹100景、日本の道100選や神奈川景勝50景に選ばれている。全国で街路樹で、イチョウが最も多く植えられているという。
また、東京の都道府県の木として、イチョウが選ばれていることは有名だが、神奈川県もシンボルとなっており、大阪府もそうだと云うので、3大都府県が同じイチョウの木ということも面白い。
          
シルクセンター前の桑の木


          
産業貿易センター前


          
県立県民ホール


          
ポーリン橋より


                   
マリンタワー


          
人形の家前



山下公園通には、横浜の顔と言うべく「ホテルニューグランド」が建っているのだが、その前のイチョウの木は枝ぶりが悪いのか、落葉が早かったのか、絵にならなかったので、残念ながら写していない。
全体に日本大通のイチョウに比べ選定されていた、枝の張りが小さい。
昨年の紅葉時期から判断して12月頭に訪れたのだが、1週間ほど遅かった感がある。




早い復興を願いつつ大津波被災地を巡る

2014-10-12 17:03:46 | 散策
東北旅行・2日目、3日目は海側を走った。
東日本大地震の生傷は沿道からも確認できた。
大津波で流された建物の復興は3年半たった今も進んでいるとは感じられなかった。
早い復興を願いながら、国道45号線を北上する。

観音寺
気仙沼の市街地を足下に望む丘陵にあり、この地域きっての天台宗の名刹。創建は709年。
          
義経は、陰陽師(伝説上の人物)が大事にしていた兵法書をその娘である、皆鶴姫と盗み平泉に旅出ってしまう。姫は陰陽師である父から怒りをかい、海に流されてしまう。  
姫は骸(むくろ)となってこの近くの浜に漂着する。手には観音像が握られていた。
一方義経は霊夢によって姫の漂着を知り、その霊を慰めるため堂を建て観音像を安置した。
観音堂には姫を乗せて漂着した舟板の残骸、義経が使ったという笈や弁慶が衣をかけたという石が残っていると言う。
          

早馬神社・大津波の碑
早馬(はやま)神社は1217(建保5)年に鎌倉若宮(鶴岡八幡宮)の宮司・梶原景實により創建され、古くから「早馬さん」「権現様」と称された。
東日本大震災では、大津波により、海抜12mの高台に位置する神社にも15mの大津波が襲い、拝殿、社務所などが2.5mほど浸水し全ての道具を粉砕されたが、建物の流失は避けられた。気仙沼市のこの地区ではこの神社だけが残ったすさまじい惨状であった。当時を写した写真が碑としてたてられていた。
         

     

 

普門寺・犠牲者悼む五百羅漢
1241(仁治2)年創建の曹洞宗の名刹。
  
被災者の追悼と心の傷をいやす目的で、五百羅漢を造る活動を昨年より行っている。今年もお盆明けの1週間で羅漢を制作した。岩手は、昔から飢餓が多く、五百羅漢を造る歴史がある。
         
青銅の大仏は1718(享保3)年の作、東北ではこの大きさは稀有。三重塔は1809(文化6)年製作、高さ12.5m、県指定有形文化財。
境内に、石仏展覧会入賞作品・地蔵菩薩像が祀られている。
    

気仙大工左官伝承館・希望の灯
気仙大工は、気仙地方の大工の集団で、その足跡は江戸時代にまでさかのぼり、農民が生活を支えるために建設関係の仕事に従事し、次第に独自の技能集団が形成された。
その技量は、家大工でありながら神社仏閣も手がけ、建具や彫刻までもこなし、全国的にも高い評価を得ている。
この建物は 明治初期の気仙地方の民家を想定し、当時の建築様式により、材料は全て地元材を使用し、気仙大工左官の優れた建築技法を後世に伝えるために建設された。
          

震災から7か月後の12月、神戸から「1.17希望の灯り」が運ばれてきた。
 

      

陸前高田・奇跡の一本松
奇跡の一本松は、陸前高田市気仙町の高田松原跡地に立つ松の木のモニュメントである。
太平洋に面した高田松原には、350年にわたって植林されてきたおよそ7万本の松の木が茂り、陸中海岸国立公園(現三陸復興国立公園)や日本百景に指定されていた景勝地であった。
その松原も先の大震災よる大津波の直撃を受け、ほとんどがなぎ倒されて壊滅しが、その中で、一本の木が津波に耐えて、立ったままの状態で残った。そこで、震災からの復興への希望を象徴するものとしてとらえられるようになり、「奇跡の一本松」や「希望の松」などと呼ばれるようになった。その後、残念ながら枯れてしまい、復興を象徴するモニュメントとして残すことになった。
          
右手の建物は、陸前高田ユースホステルである。この建物も壊滅状態となってしまった。幸いにも地震発生の2ヵ月前より休館していたため、人的被害は免れたという。

陸前高田・追悼施設
追悼施設
施設は海の近くにあり、津波で流失した高田松原の松を使った建物。なかに慰霊碑や献花台が設られている。
          

          

 

道の駅・高田松原
先の大震災によって被災し、現在は休館中となっている。営業が再開されることを願う。
           

陸前高田の巨大コンベア
山を削って発生する土砂を別の盛土に利用するために陸前高田市は総延長3kmとうい巨大なコンベアを今年の3月から稼働している。膨大な土砂をトラックで運ぶことは現実的ではない、安全性も考えこの手法を執ったという。コンベアが運ぶ土砂の量は、1日2万立方メートルで、この量は10tトラック4千台分の相当するという。工事は来年2015年5月に終了とのこと。
 

洞雲寺・明治の大海嘯(津波)碑
山門は竜宮門と呼ばれる2階造りの山門・楼門で、文化年間(1804~18)に気仙大工が建てたとされる。本堂も同様に、気仙大工が棟梁となって天保年間(1830~44)に建てられた。本堂には明治29年に発生した明治三陸地震の津波で犠牲となった5,678人の名前が刻まれた大位牌が奉納されているという。
 
駐車場付近には、明治三陸地震石碑「大海嘯紀念碑」が建てられている。昭和初期まで津波のことを海嘯(かいしょう)と言っていた(左下)。
近くには先の大震災によって犠牲となった方々を慰霊する観音菩薩像が祀られている。高さは、当時の津波とほぼ同じ、8mという。
 

長安寺
真宗大谷派の寺院、開創は平安時代末期頃と伝えられている。東北随一といわれる壮麗な山門は総ケヤキ造りで、1798(寛政10)年の竣工。実はケヤキが当時禁制の材木であったため、藩主の伊達氏から工事途中で中止を命じられ、以後の造作が許されず「袖なしの門」と言われている。
江戸時代には幕府に迫害されていた蘭学者・高野長英がこの寺に隠れ住み、密かに蘭学を教えていたとも伝えられている。
          

釜石大観音
釜石港を見下ろすところに、高さ48.5mの白亜の観音像が建立されている。胎内には聖観音や七福神等が安置され、胸元は展望台になっている。
 

浄土ヶ浜・チリ津波記念碑
三陸沿岸は明治以降、被害が大きかった津波だけでも4回ある。1896(明治29)年の三陸地震津波、1933(昭和8)年の三陸沖地震、1960(昭和35)年のチリ地震津波、そして2011(平成23)年の東日本大地震である。
明治以降からの地震の発生はおよそ40年に1回の割合の被害である。これは、ほかの地域に比べて非常に多い数ではないだろうか。
この浜には、1933(昭和8)年発生に「三陸沖地震の津波碑」(右手の大きい碑)と1960(昭和35)年の「チリ地震の津波碑」が建てられ、それぞれに教訓が刻まれている。
『大地震の後には津浪が来る 大地震があったら高い所へ集れ 津浪に追はれたら何處でも高い所へ 遠くへ逃げれば津浪に追いつかれる 常に逃げ場を用意しておけ 家を建てるなら津浪の来ぬ安全地帯へ』
『地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ』
火の周辺に咲く白い花は、宮古市の花でもある「ハマギク」である。
 
青の洞門観光のさっぱ船(小型船)乗り場に小百合さんの写真が飾られていたので写す。偶然にもその日のNHKニュースに小百合さんが出演されていて、東日本大地震の感想や被災者への思いを語られていた。
 

頻繁に行きかう工事トラック
海岸線を南北に走る国道45号線を北上したが、工事エリアを表示した横断幕を掲げたトラックがひっきりなしに走っている。
 
津波表示
「過去の津波浸水区間 ここまで」という表示板が道路を走っているとたくさん見かける。こんなに高い場所まで津波が襲ったのかと改めて驚く。
 
架設住宅・商店
仮設住宅を至るところで見かける。神戸地震の経験から小規模な住宅をたくさん建てたのか。陸前高田では4500人が仮設住宅に住んでおり、ここから出られるのは3~4年先だという。気分が滅入ってしまうだろう。最優先の案件のはずだが、被災から6~7年も待つなんて・・・。
 


奥州藤原氏の華麗なる世界

2014-10-08 17:06:48 | 散策
今から800年余り昔のこと、東北に奥州藤原氏によって燦然(さんぜん)と輝く人口十数万の一大都市・平泉が存在した。
戦いのない平和な世界・浄土思想を理想として、東北全土に100年間、戦のない平和な世界がもたらせられた。しかし、中央や西国に於いては源氏と平氏が死闘を繰り返した時期であり、公家社会から武家社会に時代は大きく変わろうとする転換期であった。
 
藤原氏
奥州藤原氏は、南は現在の福島県にある白河の関から、北は青森県にある外ヶ浜までを制圧しており、それは、現在の東北地方をすっぽり治めていたことになる。
                    
基礎をつくった初代・清衡は、幼いころに父を失い、その後の戦いで弟を失った。
(後三年の役において、敵味方に分かれて戦い、結果的に殺してしまった。)
その経験から、中尊寺を建立。建立の際の法要で、
『鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える・・・』
と、読み上げた。
これは「みちのく」といわれた辺境の地・東北に、仏の教えによる平和な理想社会である「仏国土」を建設する願文である。
                    
二代・基衡は、清衡の教えである浄土思想を守り、一層の普及を尽くした。
毛越寺を建立し、浄土庭園を造り、仏教都市づくりに着手した。
                              
三代・秀衡は、基衡が手掛けた毛越寺を完成させ、当時の都であった平安京をしのぐ無量光院などをつくり上げた。
この時代が、藤原氏が最高を栄華を誇った時代とされる。しかし、平家追放の依頼を断ったり、義経をかばったりしたことなどで、平泉の栄華に影を落とし始めた。          
          
秀衡が建立した無量光院は、毛越寺より一回り大きい規模で、宇治平等院をまねて、平泉の猫間が淵を宇治川、束稲山(たばしねやま)を宇治の朝日山に見立てた背景とし、中央の池には金鶏山を映し中島に本堂を建てた絢爛豪華な新院であったたと言われる。
                    
四代・泰衡は代をついで直ぐに、鎌倉幕府による奥州征伐によって滅ぼされた。
          

藤原氏の金
奥州の黄金は、藤原氏が治める以前から、豪族によって利用されてきたが、後三年の役で権力を手中にした清衡によって、一括管理、利用された。
この時代は、金の鉱山を掘って、金を精錬する技術はなく、川から採る砂金であった。
当時、砂金が採れるのは、奥州で、特に気仙郡(今の岩手県)や本吉郡(宮城県)といった北上川流域であった。宮城県北東部の太平洋沿岸、石巻、気仙沼・本吉地方は、産金を行った坑道の跡地がたくさん残っていることもあって、「黄金海道」と呼ばれている。
どれだけの量の黄金が採取されたであろうか、藤原氏三代、100年でおよそ10tと言う。コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時のヨーロッパ全体で20tに満たない量であったというから、その量は一地方都市としては膨大な量と言えよう。
                    
一番黄金文化が栄えたとされる三代秀衡の時代は、当時の都を凌ぐほど、平泉は金に溢れていたと言われている。
                    
マルコポーロが、東方見聞録で日本を紹介した『ジパング』に登場する「黄金で作られた建物」は、中尊寺がモデルとされる。
                   
また、黄金は海外からの貴重な品を買う代価となり、その品を献上品に使い、政治的に安定した、戦のない平和な世界を築く資金にもなった。
                    
清衡は、中国の宋から仏教経典一切経5千数百巻をおよそ4tの金で購入している。この経典は、千人の僧侶が8年をかけて金文字と銀文字で書き上げたものだという。
また、金は朝廷への献上され、鎌倉幕府が黄金5千両に対し、藤原氏は倍の1万両であったという。献上の多さによって奥州の平和を確保していたようだ。
          
平泉の黄金文化を象徴は中尊寺金色堂であるが、極楽浄土を表現するために使用されている莫大な黄金の多さもさることながら、木材のほとんどが南洋産の貴重な伽羅木(きゃらぼく)で占め、遥か南洋の海からシルクロードを渡ってもたされた夜光貝の螺鈿細工(らでんざいく)もある。建築家や工人までを海を渡って招き入れる独自の海運ルートをも確立した資金にも黄金が使用されたであろう。
最近になって、金色堂内や邸宅跡から小石状の高純度の金塊が発見されていう。当時は砂金きりなかったと思われていたので、藤原氏はほかにも高純度の金塊を案出する隠し金山があったのではないだろうかと想像をめぐらす研究家もいるようだ。
          
このように、藤原氏の戦いのない平和な世界・浄土思想である「仏国土」を建設するにあたって、裏には潤沢な黄金という資金があって、その黄金が惜しみなく使われたことによる。
                 

浄土思想
藤原氏の保護のもと、平泉に開花した仏教文化。盛時の中尊寺には、寺塔60余宇、禅坊300余宇と言われる。
贅を尽くした荘厳のありさまは、中央の平安京に比肩するもので、まさに地上に極楽浄土を再現したごとくであったと言う。
清衡は、白河の関から青森の外の浜までの道1町ごとに、卒塔婆を立て並べ、中尊寺が中心であることを周知させた。村人は中尊寺に年貢や薪を届けており、また、中尊寺の僧が主体的に村の小さなお祭りにも参加し、思想の普及、啓蒙活動も盛んに実践されていたようだ。
          

藤原氏栄華の軌跡
平泉文化遺産センターでは藤原氏が奥州平泉で繰り広げられていた栄華の軌跡の一端が、模型で表現されている。それは公家文化と武家文化が混在した華麗なる文化である。
17万騎を抱えていた藤原氏が、頼朝の奥州征伐で、裏切りにより20日という短期間あっけなく敗れてしまった。頼朝の軍勢は、28万4千騎であった。
同時に宮中をもしのぐ雅な奥州藤原文化が消滅した。


先の東日本大震災の大津波によって、岩手県内の博物館をはじめとする文化施設が多く被災した。とりわけ陸前高田市立博物館は、施設が頬水没し、多くの展示・収蔵資料が流失した。それを免れた資料も全て海水に浸かってしまった。その中に藤原氏に関する金鉱の資料も含まれていたことを加筆しておく。

JR逗子駅の風鈴

2014-08-26 14:35:35 | 散策






             JR逗子駅1番線ホームに数多くの南部風鈴が吊るされている。
             時折、涼やかな音色をかもし出してくれている。

             8月もあと5日、不純な天候はしばらく続くようだ。
             雨による被害は、もうたくさんだ。
             発生しないことを、強く望む。

江島神社節分祭2014

2014-02-04 14:34:41 | 散策

江島神社節分祭2014

節分とは、季節の分かれ目。本来ならば、四季それぞれにあるはずであるが、一年の初めは春であり、それで春の節分2月3日がメジャーとなった。
では、何故、節分に豆を撒くか、これには諸説あり、そのひとつに、
むかし鞍馬山の近くに鬼が現れ、村人たちを困らせていた。その時に神のお告げで鬼を追い払うのに豆を使ったという言い伝えがあって、平安時代から豆を撒くようになったといわれる。
しかもその豆(魔目)は煎ったものでなければならなかった。生であると「魔」から「目」が出ると、縁起が悪いとされて、煎った豆(魔滅)で「魔」を「滅」っする。つまりは、邪気を除き、福を迎えるためということのようだ。




江島神社の豆まきは合間に歌謡ショーが入って今回は、6回行われた。
福豆の袋の中には景品(福物)が書かれたカードが入っている。テレビやデジカメから地元の特産品や袋菓子が当たるようだ。
撒く豆の量も半端ない量で、景品も舞台前に貼られた提供者の数からいっても多いと思われる。
        
開催にあたって、神社側から諸注意が述べられている。
なにせ、神社は江の島の山の中に建てられおり、限られた平地の通路で豆まきが施工させるため会場の東側は階段となっていて危険がいっぱいある。

参道を使用した撒豆会場 この広さで千人が参加すると予想

その警備は、藤沢警察と警備会社ご合同で行われている。
        
撒き手は1回に20人ほどで、本殿で神事を行って、銘々枡を持って舞台に上がってくる。その上に舞台上にはこれほどの豆が用意されている。
        

        
福豆には、江島神社の家紋「三つ鱗」が記されている。この三つ鱗は執権北条氏の家紋でもある。
『「太平記」には初代執権・北条時政が江の島に参籠(さんろう・神社などに一定期間籠って祈願すること)
して、子孫の繁栄を祈った時に、龍(大蛇)が現れ三つの鱗を落とせり、時政祈願成就と喜び、その三鱗を授かり家紋となす』と龍宮(わだつみのみや)の解説に書かれてある。
一方、江島神社の家紋が何故三鱗なのかは神社の由来にも書かれていない。
江島神社の三鱗家紋はどこから来たのか調べたが、北条氏の誰かが奉納してのではという文章をあったが、それは逆だったのではなかろうか。
ただ、江島神社の祀られている弁才天の信仰と龍神は密接な結びつきがあると云うので、古くから江島神社の家紋として使用されていたのではなかろうかと解釈する。
一方、鎌倉関係のブログを見ると、『そもそも、北条氏が使用していた三鱗家紋は、源頼朝の命によって旗に記された「北条のマーク」で、頼朝が「誰の旗か、あるいは、あの軍は敵か味方か」がわかればよい程度のものであって、三角形の種類を気にして使用されていたとは考えにくい。』と、ある。
単に、単純な最小の形三角形を家紋にしただけでは、との見方もあるようだ。
        
最初の福男は、地元の実力者である。
合間には、歌謡ショーが。
        
初回は、アンジェリカさん。鎌倉出身で、ご町内にはみのもんたさんも住んでいるとか。 
肩書きは、タレント、シンガーソングライター、それにNHKの海外旅番組のレポーターとナレーターをしている。
        
アンジェリカとは、ギリシャ語で天使という意味だと彼女のブログに書かれていた。馴染みがない方もいるだろうが、道端アンジェリカさんとは別人。暴れん坊将軍で小役で登場しているという。また、ふるくは、横浜ドリームランドのイメージガールを務めたこともあるようだ。
            

次の歌手は、ムードコーラスのグループ・森雄二とサザンクロス。
        
サザンクロスと聞いても分らぬかもしれないが、「足手まとい」を歌った最初のグループといわれれば分るかと。左手の女性はメンバーではないようだ。
        
進行、司会役の本田修一さん。よかにせどんグループのリーダーである。
地元に事務所があるようで、藤沢音楽祭など地元で活躍しているのかなという感じ。
テレビ埼玉の歌と旅のバラエティー情報番組「アンジェリカとよかにせどんの旅物語」というレギュラー番組を持っているようだ。
最後まで居なかったのだが、安倍理葎子(旧名:安倍律子)さんも特別出演すると案内にはあった。

2回目以降は年男、年女を中心としたメンバーのようだ。
初穂料15千円を奉納すれば豆まきに参加できるようだ。
        
    
福豆の取り合いはすさまじく、主催者側が危険を感じると、ストップの笛が吹かれる。
2度目の撒豆には4~5回の笛が吹かれ、しかも危険場所は固定していたようで何度も同じ場所の参拝客が注意されていた。
そんな危険個所にいなくても足と頭が左右にずれた体系に持っていかれ、2回だけの参加なのに押し合いへしあいで、しばらくは背中が痛かった。
皆さん景品が欲しいのだろう。
という私は、袋菓子ひとつをゲット。『福』は大きな福をどさっと頂くよりも、小さな福を続けて頂き2014年が良い年であっったと願いたい。

『 福は内 福は内 』


その江島神社の由来は、
社伝によると、552(欽明天皇13年)に、天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されている。この年は、日本書紀によると、仏教が公に伝わった年、「仏教公伝」の年に当たる。ということで、この時代は、伝来の仏教と固有の新教が共に大切にされていたようだ。
当時は、御窟(おんいわや)を本宮、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼んでいた。
一時は御窟に籠る修験者や、行を練る僧たちが神の功徳を仰いでいた。
その後、仏教との習合で江島は金亀山与願寺と号した。鎌倉時代には、源頼朝が鳥居を奉納し、執権北条時政は北条家の家紋である、龍の三つ鱗を授けた。また蒙古軍を撃ち退けた折には、御礼として御宇多天皇が、江島大明神の勅額を奉納されている。 このように朝廷や武将を始め、庶民の信仰も篤かった。
江戸時代には、江島弁財天への信仰が集まり、 江ノ島詣の人々で大変な賑わいを見せました。
特に、女人禁制の大山詣と対比され、男は大山詣、女は江ノ島詣とか、その両方をセットにした旅が江戸庶民の娯楽のひとつとなり、講を組んでの旅が盛り上がっていた。 
         

関連 : 江の島を歩く


寺家ふるさと村を訪ねて

2013-06-29 07:00:00 | 散策
         

東急田園都市線の青葉台駅で下車。寺家ふるさと村へは[青30]鴨志田団地行きに乗って10分前後で到着する(もう1便、[青30]寺家循環バスのある)。
寺家町の外側から固めてと、先ずは鴨志田町を歩く。

鴨志田の板碑
バスを降りて、鴨志田中学校の敷地沿いに東に向かうと、集合墓地があり、その一角に板碑が小祠の中に置かれている。
この板碑(いたび)は解説によると、材質が秩父産の緑泥片岩で、阿弥陀如来一尊種子板碑である。碑面には阿弥陀如来を現わす種子(しゅじ或いはしゅうじで仏・菩薩の象徴として書き表す梵字(ぼんじ))「キリーク」が大きく薬研彫りされている。紀年銘は寛元(かんげん)と刻まれている。今から930年以上も前の鎌倉時代の造立である。
板碑の分布地域は主に関東であるが、日本全国にも分布している。ただし材質が異なっているようだ。設立時期は、鎌倉時代~室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。

この板碑は「念仏堂跡」に置かれていたものを区画整理のためこの地に移転したという。

板碑に彫られている「弥陀如来」を現わす梵字


甲神社
さらに東へ5分ほど歩いたところに甲神社がある。

創建の年代は不明であるが、戦国時代と伝えられる。御神体が石剣に似ているので祭神・日本武尊、社名・甲神社と称したのも武士の尊崇が篤かったことが推察される。鴨志田町の産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ・生まれた土地の守護神を指す)として尊崇されている、と解説されている。
参道には石像物が祀られている。
     
中央画像はおよそ200年前の1816(文化13)年に造立された不動明王像で、『西 大山みち』と刻まれ、道しるべにもなっている。
右画像の地神塔は1827(文政10)年で『左 大山道、長津田』とこれも道しるべを兼ねている。
    
中央画像は千手観音庚申塔のようだ。右画像は願主平五郎、1861(文久元)年、稲荷大明神と赤山大明神と刻まれている。赤山(せきざん)大明神は聞いたことがなかったので調べると、京都・延暦寺別院赤山禅院に祭られている天台宗の守護神。延命富貴を司り商家の信仰を集めた、とある。

甲神社の横の道を北上すると、いよいよ寺家ふるさと村にはいる。
「寺家」という呼称は「新編武蔵風土記稿」によると、王禅寺末寺である臨水山桂月院東円寺という寺院が1922(大正11)年に柿生の王禅寺に合併するまで、この地にあって、この寺院が寺家の地名と関連があるのではと考えられているが定かではない。
中世・鎌倉時代は「吾妻鏡」には、当地は頼朝に従った鴨志田一族の領地であったが、畠山重忠と共に倒れる。「鴨志田」という名は現在でも町名として残っている。そのあとに入ったのが、大曽根・金子一族の先祖である。
小田原北条時代、北条氏直から大曽根飛騨守あての古文書が残されており、大曽根氏は鴨志田・寺家の小領主として軍役を負う替わりに年貢は免除されている。
下山治久氏著『横浜の戦国武士たち』によると、足軽2人、中間1人を従えて戦場に臨んでおり、その姿の復元模型が横浜市歴史博物館に保管されている。その写真を見ると、飛騨守が着けている、兜の前につける飾りのような「前立」の長さには驚く。実に1m73cm(5尺7寸)の大きな装飾である。乗っている馬にも金箔の馬鎧を被せ、金の家紋を添付してあるという。横浜市歴史博物館に展示してあるのなら一度見てみたい。
徳川初期には金子氏を名乗り、小領主として暫くは年貢を免除されていた。その後一時、鴨志田・寺家は旗本・筧(かけい)小座右衛門の所領となるが、中期には再び大曽根氏に戻っている。
文禄及び元禄の検地帳等の古文書によると、1697(元禄10)年には37戸が農業に従事しその後、1843(天保14)年には28戸に減少しており、農産物は、米およそ3t(98石)の他、大麦、小麦、粟、ヒエ、ソバ、ゴマ、生糸、醤油、桑が記録されている。
1877(明治10)年の改正戸籍では29戸、人口143人、田畑・山林・宅地の総計は75.7ha(76町4反)余となっている。明治から大正時代にかけては養蚕が盛んとなる。
村の水田は天水に依存し、各谷戸の奥には先人達の努力により、用水池が6箇所造られていたといわれるが、現在は、新池・居谷戸池・むじな池・大池・熊の池の5池である。

その5池と「ふるさとの森」を中心に歩いてみた。
案内所の「四季の家」で散策マップを20円で買ってスタートである。

         
「四季の家」前を流れる用水を渡って突き当たった道を西に進む。


郷土文化館というから寺家に因んだ品を展示しているのかと思ったら、食事のスペースもある展示場のようで、その日は神田小川町に住む方の藍染の展示をやっていた。


古い水車小屋が残されているのかと思ったが、「寺家町小川のアメニティ」の一環で造られった水車小屋。、後ろに新池という池があるのでそれを流しているのかと思ったら、小屋のそばにある小さな池の水をポンプで循環しているようだ。小屋を覗いたらポンプの操作盤がみえた。


新池の横の道を居谷戸池に向かう。小いさな山を越えるような感じで道は造られている。殆ど人は通らないようで何度となく蜘蛛の糸に引っ掛かった。竹林の中を進んで行くとかなりの数竹が倒されている。真竹なのか細めなので風の勢いで折られたようにも思える。
竹林を下ると右手に水田、左手に池が見えた。


「いやといけ」と読むのかルビをふっているサイトが見つからなかったし、池に置かれている案内板もルビがふっていないので定かではない。
居谷戸池は一番奥まったところにあるのであまり人は訪れないようだ。池の中には赤い鳥居と小祠が祀られている。弁財天のようだ。

居谷戸池の通りには、茶釜師のお宅が案内図に茶釜の絵として示されている。それらしき工房が高台にあることを確認したが、現地に何も示されていないとは、それこそ絵に描いた餅である。
寺家にはもう一軒、茶釜師があると案内図に茶釜の絵で示されている。このお宅もやはり解らない。やっと表札をみてそれらしきお宅と判断した。

先ほどの水車小屋のある道に戻る。
途中、ある民家でトケイソウの花を見つけた。わが家にも2株ほどトケイソウが植わっていたが、花の命は短くて、わが家の花は終わっていて一度も見ていなかった。観賞出来てうれしかった。


水車小屋の通りを歩いて行くと水田の石垣が立派に組まれていることに驚く。何時頃組み上げたのか。城壁を組む方法と同じ野面積みである。
水田の脇には赤く熟した木イチゴがなっている。
水田に目を落とすとカラスが3羽えさをついばんでいる。この辺りのカラスは水田にエサを求めてゴミ袋荒らしはしないのだろうか。


「ふるさとの森」の案内杭が置かれているがここからは入らずもう少し先に進む。
オカトラノオが群生している。この先幾度か見かける。


あぜ道にカモが2羽休んでいる。水田の雑草や害虫を食べて農家の手助けをしているようだ。
むじな池に着く。
大池まで行くのだがこちらの水田は町田市である。丁度市界を歩いていることになる。


大池に着く。その名の通り寺家の池の中では一番大きいようだ。
「ふるさとの森」のはずれから入っていく。
前日の雨でぬかるみも多々ある。

森の最高高さと思われる場所に着く。周りは樹木だらけなので、奥深いところに入り込んだと思ったら。スポーツ競技をしている歓声が近くから聞こえてくる。深山の感傷には浸れない。後で地図を見たら日体大のグランドが森の隣にあるようだ。
それにしばらく進むと駐車場が下に見える。やはりここは横浜市だ。


東屋もところどころにあるようだ。
熊の橋。下の歩道が続く。

5つ目の池、熊の池である。
へら釣り専門の池だそうだ。遠くから赤い幟旗が見えていた。
熊の池の下にもこの池の天水を利用した水田が広がっている。


山野草、蘭、茶花の販売をしている千草園を通り過ぎると、赤い鳥居が見える。
2社とも稲荷神社と思われる。藪の中に埋もれているのは個人の小祠であろうか。

熊野神社の由来記には、創建は不明であるが武蔵野風土記稿に、9尺2間の社(熊野社)が寺家村熊野谷にあると記録されている。当地では昔から熊野様と呼ばれている。
もう少し調べると、もともと、この神社は鎌倉の御家人安達氏の一族であった大曽根氏が、港北区師岡にあった熊野神社を、 一族が領有することになった寺家に分社したもので、もとは寺家の入口の東円寺にあったが、 焼けてこちらへ移したものである、とある。



これで寺家ふるさと村の散策は終わりである。
今日、6月29日は地井武男さんの一周忌である。
「ちい散歩」で二度ほど訪れた「寺家ふるさと村」を一度は訪れて見たいと思っていたので、この機会に、地井さんの冥福を祈る意味も兼ねて梅雨の合間に寺家町を歩く。
この日も晴れ男の神通力が未だに通用して、晴れ間も見え腕が日に焼けて黒くなる。


「ちい散歩」に因んだ場所として、3年ぶり2回目に訪れた内の一カ所「木工アパートメント」を今回お邪魔した。

地井さんが訪れた時は、枡を大きくして横にしたような園児用の椅子を造っていた。
今回は階段木琴という木工品を造り直していた。螺旋階段状のところに数台の木琴を、また4本の棒状のところにも木琴を固定して子供達にたたかせる楽器である。
5人の若手が共同で工房を持ち、お互いに刺激し合う仕事場が寺家には相応しいと地井さんは述べていた。
「ちい散歩」でいつも書かれているその日の1枚の絵は、春先に訪れて、コブシが青空に春を告げて咲いている姿に感動を覚え描いている。
寺家ふるさと村は、地井さんが『ここに住むかな。住みたくなったな』と云わしめた町である。


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