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彫刻の寺「帝釈天」を参拝(柴又・矢切を歩く2)

2017-12-16 11:57:38 | 東京散策
柴又帝釈天は、江戸時代初期の1629(寛永6)年に開創された、葛飾区柴又にある日蓮宗の寺院。
正式名称は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。その後、今から240年前、徳川10代将軍家治の時代、1779(安永8)年に、本堂修理の際に一時不明だった板本尊が棟の上から発見された。それが、庚申(かのえさる)の日であったことから、庚申日を縁日に定め、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになったという。
題経寺が略称して呼ばれている「帝釈天」とは仏教の守護神のひとつである。
1933(昭和8)年に始まった柴又七福神巡りでは、毘沙門天(多聞天)が祀られている。




二天門
1896(明治29)年建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施している。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置しており、門の名はこれに由来する。


帝釈堂
内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置している。
堂の前には、樹齢約450年、高さおよそ12mの「瑞龍の松」が植えられている。この松がここにあったことで、この地に庵を開くきっかけになったひとつだそうだ。


彫刻ギャラリー
帝釈堂の外部、東・北・西の全面に装飾彫刻が覆われている。
メインは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び浮き彫り10面の作品である。これは、1922(大正11)年から1934(昭和9)年にかけて、10名の彫刻師が1面ずつ分担し制作している。
これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している。












庭園・邃溪園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、1965(昭和40)年造られた。庭園の周囲に設けられた屋根付きの廊下から回遊して見ることができる。
大客殿は、1929(昭和4)年完成で、入母屋造瓦葺、平屋建で左右に細長い建物である。東京都の選定歴史的建造物になっている。















()柴又帝釈人車鉄道
1899(明治32)年から1913(大正2)年まで、丸13年間金町駅から柴又村までの1.4kmを日本で5番目の人車鉄道が走っていた。その模様である。『人車』の通り、6人乗り客車を人が押して運んでいた。
寅さん記念館にもジオラマが展示されていると云う。

()渡し船



祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右にあり、帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。
こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。


釈迦堂(開山堂)
江戸時代末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。


大鐘楼
1955(昭和30)年完成。高さおよそ15mの総欅造り、関東一の鐘楼と云われる。


御神水
開山以前より湧き続け、題経院日栄上人がこの地に庵を開くきっかけになったという名水。
人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)が産湯に使った御神水。


淨行菩薩
日蓮宗・法華宗では、『法華経』に登場する上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)、そして浄行(じょうぎょう)を四菩薩と称する。
菩薩は修行の初めに願を起こし、淨行菩薩は「人間を悩ませる数限りない煩悩を断ち切ること」を誓い願う。と云うことで、浄行菩薩像を水で洗い清めることによって、自分自身の煩悩を清めることになり、さらに自分の身体の悪いところと同じ部分を清めて祈願をすれば霊験をいただけるという信仰もあって、タワシで菩薩像を洗い清めているようだ。


観音菩薩座像と大日如来座像(?)
祖師堂(本堂)に向かって右に建つ。観音菩薩座像は、元は富士山頂に位置した下山仏であったようだが、明治時代の廃仏毀釈令によってこの地まで流れ着いたようだ。
右に座する大日如来座像も同様か?




南大門
1982(昭和57)年に建てられ、ニ天門に向かって右側に位置する。門扉には当寺の紋である「稲妻(雷)紋」が彫られている。





納めの更新日、今年は11月29日で、その日にこだわって参拝した。
寅さんの映画では、庚申日には神輿が出たのだが、これも映画ではなのか。
ただ、人出は多かったようだ。数日前にNHKで参道が放送されたが、同じ昼時での人出が全く違っていた。

庚申日前日には帝釈天まといが参道を巡行し、帝釈天に奉納されるとTV東京で放送された。
それなら前日に。


東京国立博物館の庭園散歩

2017-12-08 12:17:37 | 東京散策

東京国立博物館に庭園があったなんて!
知らない人が多いのでは、
それもそのはず、春と秋のそれぞれ1か月余の期間限定で公開する庭だった。

元々はこの敷地は寛永寺の境内であった。現在本館が建っているところは本坊があって、その北側に庭園が広がっていたようだ。ただ、庭は何度も改築されており、その上、5棟の茶室も移築しているため、昔の面影今いずこではある。




六窓庵
慶安年間(1648~52)に奈良の興福寺に建てられたものを1875(明治8)年に移築された。名は窓が六つあることにちなむ。



応挙館
1742(寛保2)年、尾張国(愛知県)の天台宗寺院・明眼院の書院として建てられ、一度移築後1933(昭和8)年にこの地に。



鉄灯篭の基壇
石の上に鉄灯篭が据えられていたが、錆が著しくついてしまい、台風によって竿から上が倒壊してしまった。そのため基壇だけが置かれている。







転合庵
武家・茶人の小堀遠州(1579~1647)が桂宮から茶入「於大名(おだいみょう)」を賜った折、披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室。

五重塔
徳川五代将軍綱吉が法隆寺に奉納した高さ570cmの銅製の塔。「大和国法隆寺元禄元年(1688)十二月日常憲院徳川綱吉の」銘文が基壇にある。常憲院とは綱吉の院号。


雨が傘が必要な雨脚となってしまったので、残念ながら短時間で引き上げた。

今回の博物館訪問は、「運慶展」である。

上野駅を下りたったのは朝の9時半を回っていた。今は横浜から乗り換えなしに来れることはうれしい。
博物館に到着。チケットを買うのに30分待ち。





入館まで再び30分待ち。
この日、入場者が40万人を越え、セレモニーがあったことをあとで知る。






展示会場に上がり、先ずは音声ガイドをレンタルする。展示されている仏像でも、何故か案内がない像もあった。


外に出るとムサシがかすんで見えた。

来年1月からは横浜の金沢文庫で運慶展が開かれるようだ。上野で見られなかった方はチャンスである。

上野公園では寛永寺山門「文殊楼」をモチーフとし、かつてそこに存在したものや時間、空間、記憶の 連鎖を体感させる大型インスタレーション(作品展示)が開かれていた。
文殊楼は、入母屋造重層の門。1627(寛永4)年に建立した仁王門が1688(貞享2)年焼失したため、のちに1697(元禄10)年に建てられたのが文殊楼であるが、それも上野戦争で焼失した。

上野も秋が深まった。

訪れた日:2017.11.14


野菊の墓と矢切りの渡し(柴又・矢切を歩く1)

2017-12-06 16:42:49 | 東京散策
              「まァ綺麗な野菊、政夫さん。」
              「私にも半分おくれったら、私ほんとうに野菊が好き」
              「僕はもとから野菊がだいすき。民さんも野菊が好き・・・・・・」
              「私なんでも野菊の生まれ返りよ。
              野菊の花をみると身振が出るほど好もしいの。
              どうしてこんなかと、自分でも思う位」
              「民さんはそんなに野菊が好き・・・・・・
              道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
              民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
           
(野菊の墓碑「野菊の人」より)


15歳の少年。斉藤政夫と2歳年上の従姉、民子との淡い恋物語である。
舞台は明治時代の千葉県松戸市矢切付近であり、矢切りの渡しは政夫と民子の最後の別れの場となったところである。

船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個(ひとつ)につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫でたり襟えりを撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色(すすいろ)と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じ米沢紬(よねざわつむぎ)に、品のよい友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の帯をしめていた。襷(たすき)を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。
(青空文庫『野菊の墓』より)


その後、民子は他家に嫁に行き、流産で命を落とす。死んだ民子の手には紅絹(もみ・女ものの薄手の絹地)のきれに包んだ政夫の写真と手紙が握られていた。
政夫は民子の墓の周りに、好きだった野菊を一面に植えた。
原作は、伊藤左千夫で、百恵さんや聖子さんがTVや映画で民子を演じている。


矢切の渡しで江戸川を渡って20分、「野菊のこみち」をたどって野菊の墓の記念碑が建つ西蓮寺(千葉県松戸市下矢切261)に向かった。

矢切の渡し
徳川幕府は、戦略上、江戸城を守るために、交通の要衝となる川には橋を架けなかった。そのかわり、川を渡るために「渡し」を設けた。柴又と対岸の矢切を結ぶ「矢切の渡し」は江戸時代初期に地元民専用として、耕作、日用品購入、社寺詣などの目的で利用を許されていた。一般の通行は、上流の金町~松戸関所の渡しを利用しなければならなかった。
現在は、柴又に来る観光客のための渡船として楽しまれている。大人片道200円。





矢切側船着場


「矢切の渡し」と云えば、細川たかしさんがレコード大賞を受賞した歌謡曲として知られているが、TBS-TVで「寂しいのはおまえだけじゃない」というドラマがあったが、その中でちあきなおみさんの「矢切の渡し」が流れていたことが印象にある。そのドラマでセリフ回しが一本調子だと思った旅役者芸人役で登場していた人物がいたが、後に誰もが知る下町の玉三郎こと梅沢富雄さんであった。今から35年も前のことである。

野菊のこみち
渡しを降りてからは西蓮寺までをスマホの地図頼りに歩く予定で住所を控えておいたのだが、その住所が誤っていたようで、行き先不明になってしまった。あとで調べたら松戸市には西蓮寺が2寺あることが分かった。
しかし、江戸川の堤に上がると、目の前に矢切の渡しの大きな看板や地図も備えられていた。
しかも「野菊のこみち」のネーミングも付けられて要所には道標が建つ親切な案内が備えれているコースなので、迷わずに目的地にたどりつけた。
















矢切のネギ
「野菊のこみち」はネギ畑の中を歩いて行くので、ネギの匂いがたっぷりだ。
この辺りは川砂地で、江戸川の氾濫によって大地ができたようだ
で、その土壌がネギの栽培に適しているようで、ネギの品種名にもなっている。ただし品種は一説に2万種もあるようだ。この矢切ネギは明治時代から「焼いてよし、鍋によし」で松戸の名産品(地域ブランド)にもなっている。




大井戸之碑
坂の改修で井戸を埋めることとなり、記念に碑が建てられた。
ここにあった井戸は徳川時代からあって、いかなる時も枯れることなく、生活用水に田畑への往復の際に喉を潤す水であったことが刻まれている。1958(昭和33)年に建てられる。


伊藤佐千夫文学碑
西蓮寺(松戸市松戸1900-1)境内に『野菊の墓』の記念碑がある。
文学碑は、左千夫の門人である土屋文明の筆になるものであり、小説『野菊の墓』の一節が刻まれている。
「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い丘の上でやはり矢切村と云ってる所。・・・・・・」




八幡山西蓮寺(はちまんざんさいれんじ)
境内には「伊藤佐千夫文学」の碑が建てられている。
また、この地は北条氏と里見氏の国府台合戦の主戦場でもあり、その合戦の模様が本堂裏に掲示されている。
それによると今から400年程前、二度ほどの大戦争があって、敵味方千人以上の死者が出たという。また、当地に庚申板碑が出ている。板碑は1543(天文12)年と室町時代の作品である。板碑としては比較的に新しいようだ。








野菊苑
西蓮寺の向かい側の崖上の小さな公園で「野菊の墓」の舞台とされるところ。政夫が民子を待った大きな銀杏の木は西蓮寺の入口にかつてはあったと云う。
ここからは江戸川方向が望める。



矢喰村庚申塚
矢喰村庚申塚の由来によると、この地は下総の国の重要な地点であったことで、北条氏と里見氏の国府台合戦の主戦場となり、戦没者がこちらの解説では1万人余を数えた(西蓮寺の解説と大きな隔たりがある)。家は焼かれ、田畑は荒らされ、女子供年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され、一家離散。この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれた。
江戸中期に二度と戦乱のないよう、やすらぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み朝夕祈ってきた。







庚申塚は角地に青面金剛像、馬頭観世音像、地蔵尊像などが鎮座している。

矢切神社
1704(宝永元)年、長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より3m近く(8尺余り)に及んだ。当時は江戸川沿岸に民家があったため、多数の死者を出し、産業も甚大な被害を受けた。そのため村民が台地上に移住し、鎮守として京都より稲荷を勧請して祀った。かつては稲荷神社と呼ばれていたが、現在は第六天神、稲荷、天神(菅原道真)を祭神として祀っており、矢切神社に名を変えている。
扁額には「葛飾郷」と記されている。葛飾「郡」は現在の東京都、千葉県、埼玉県にまたがった地域だが、「郷」となると狭い地域であり、それが葛飾区内ではなく、千葉県側にあるとは驚きだ。






対岸の柴又に向け帰路につく。





帰りの船はエンジンで少々上流に上がり、川の流れに任せて柴又の船着場に着岸した。

訪れた日は11月29日で、今年の営業終了前日であった。

神田川おしまいの橋(柳橋)界隈を歩く

2017-05-31 15:10:39 | 東京散策
神田川はフォークにも歌われ親しまれている川のひとつである。
井の頭公園を源流とし、隅田川に流れ込む全長25km近くの一級河川である。神田川の散策はこれまでも源となる井の頭公園や、下流域の桜の名所でも曙橋から江戸川橋や後楽園橋から万世橋を巡っていた。しかし、神田川の末端域、隅田川に流れ込むところは歩いていないので、今回その地域を歩いた。
スタートは浅草線・蔵前駅からである。

楫取(かじとり)稲荷神社 台東区蔵前2-2-11
江戸幕府が開府した慶長年間(1596~1614)に米蔵造営の石を肥後熊本からの運搬の途中の遠州灘で、海が荒れ船が度々遭難した。そこで浅草御蔵内に稲荷社を創建した。既に400年余り。

第六天榊神社(第六天社) 台東区蔵前1-4-3









日本武尊が東征の折に、この地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り、白銅の宝鏡を納めて東国の平安と国家鎮護を願ったことを縁起としている。2010(平成22)年に建立1900年とされる。

また、この地には1881(明治14)年から関東大震災までの間、東京工業大学の前身である蔵前工業学園が建っていて、「工業教育発祥の地」と云われる。

原歯科医院 台東区柳橋


都営地下鉄浅草橋駅がある江戸通りの裏手は空襲で焼けなかった区域がある。そこに旧字体で病院名が掲げている原歯科医院の建物もある。
1928(昭和3)年、木造2階建築で、外壁は塗りなおしてきれいな外観を見せている。

人形店
浅草橋といえば人形の街。
かつては30数軒の人形屋があった。今日でも10数軒が、建ち並んでいる。
江戸時代、ここに浅草見附が置かれていて、ここから浅草寺までの参道の両側に並ぶ土産屋が、後に人形屋やおもちゃ屋になった。

芸者・市丸邸 台東区柳橋1-28-8


長野県松本市生まれ。16歳で浅間温泉で半玉(芸者見習い)となり、19歳で上京。浅草で芸者となる。清元・長唄・小唄の名取となり、その生まれつきの資質で美貌と美声を買われ、たちまち人気芸者となる。最盛期には一晩10数件のお座敷を掛け持ちすることもあった云う。
レコード産業の発展によってレコード歌手となり、「ちゃっきり節」「天竜下れば」など次々とヒット曲を出し、そのヒットにより契約会社がこの屋敷を市丸さんに贈った。昭和20年~30年代に建設、木造2階建ての住まいであるが、1997(平成9)年に他界したあと一時空き家になっていたが、2001年に改装、ギャラリーとしてオープンする。現在は、建物のその塀の壁面に『lucite gallery(ルーサイトギャラリー)』の看板が目につく。
 
火伏神・石塚稲荷 台東区柳橋1-1-15
創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したと云い、1688(元禄元)年、当地へ移転した。




鳥居前の玉垣には、左手に「柳橋料亭組合」を筆頭に数々の料亭名。右手には「柳橋芸子組合」に始まり、芸奴の名が赤く掘られている。

篠塚神社 台東区柳橋1-5-1




東京を代表する柳橋花街の痕跡は、この小さな稲荷神社にも見ることが出来る。玉垣には、「亀精楼」「柳光亭」などの料亭のほか、「横綱朝汐太郎」「花柳章太郎」と刻まれる。

正中年間(1324~26)に新田義貞の四天王のひとりである篠塚伊賀守重宏が足利氏との四国での戦いに敗れ逃れ、当稲荷の祠の傍らで仏門に入り、主家の再興を祈願したことが始まりとされ、いつしか篠塚稲荷神社となった。
篠塚伊賀守重宏は、強力で無双な武将でその豪傑ぶりは歌舞伎の演目や武者絵にもなったと云う。


亀清桜(かめせいろう) 台東区柳橋1-1-3
安政元(1854)年創業。
明治時代には伊藤博文が利用した柳橋の代表的な料亭だった。その名は、森鴎外、永井荷風や舟橋聖一の文学作品にも登場する。
国技館に近いことから、角界との関わりも深く、横綱審議委員会の定例会場にもなっている。
現在では、歴史あるその名と共に、【神田川と隅田川の出会う柳橋のたもとで、語り継がれた花街の江戸料理を】を売りにお食事処として昼間から営業している。

柳橋 




神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋の最後の橋。

隅田川に合流

1698(元禄11)年に建設され、『川口出口之橋』とも、幕府の矢蔵があった事から『矢之倉橋』『矢之城橋』とも呼ばれていたが、橋のほとりの柳(小松屋の脇)から、いつしか『柳橋』となったと云われる。あるいは、江戸名所図会の「柳原提の末にある故に名とするとぞ」からとの説もある。 
現在の橋は、1929(昭和4)年に永代橋のデザインをまねた、ローゼ形式(弓なりの構造体を用いたアーチ橋の一種)のものが架けられ、戦災を免れ現在に至る。夜はライトアップされるようだ。
1991(平成3)年の修復時に、花街に因んで、欄干に芸子のかんざしのレリーフが飾られた。

江戸時代、この界隈には隅田川(大川)から運び入れた年貢米を納める浅草御蔵や米問屋があり、三河国岡崎藩邸や信濃国上田藩邸などの武家屋敷があった。その地域性によって、神田川の柳橋付近に花街が発達した、船宿や料亭が建ち並ぶようになった。

浅草橋




神田川に架かる柳橋のひとつ上流の橋である。
橋の袂には「浅草見附跡」の石碑が建っている。江戸時代からの歴史ある橋で、日光・奥州へ出る交通の要衝であった。
見附は橋の南側(中央区)にあったが、「浅草見附跡」の碑は、橋の北側(台東区)に設置されている。
見附門外には高札場があり、門内には郡代屋敷が置かれていた。
明暦の大火(1657年1月)では、「伝馬町の牢人が脱走した」という噂が伝わり、木戸が閉じられて、避難していた群衆が行き場を失い、多数の死者(焼死者、圧死者、溺死者などなど)を出した。という悲惨な過去もある。

左衛門橋
橋は1877(明治10)年頃になって架けられた(明治8年民間の有料橋として架けられた説も)。
江戸時代、酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があったため橋の名がつけられた。左衛門河岸とよばれる荷揚げ場もあった。
池上正太郎さんの「鬼平威犯科帳」に、雲霧仁左衛門一党の盗人宿があったという設定のストーリーがある。

花柳界
柳橋は、昔から新橋、赤坂と並ぶ三大花街の一つであった。芸奴もそれぞれ特徴があったようだ。
柳橋に芸奴が登場するのは江戸・文化年間(1804~18)で、記録によると14人が住んでいた。水野忠邦の天保の改革(1830~43)で、辰巳芸者で有名な深川などの岡場所から逃げてきた芸奴が移り住み、花街を形成した。やがて江戸市中の奥座敷として、また隅田川沿いの風光明媚な街として、栄える。江戸末期には、芸奴は150人ほどにもなっていた。
明治期には、新興の新橋と共に「柳新二橋」と称されるようになる。昭和に入ると、料理屋、待合併せて62軒、芸奴366人になる。代表的な料亭は伊藤博文が利用した「亀精楼」だったという。
東京オリンピック以降衰退した。
柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われる。
正岡子規の歌にも「お白粉(おしろい)の風薫るなり柳橋」「贅沢な人の涼みや柳橋」などと歌われている。

屋形船


柳橋から浅草橋の間には数件の船宿があり、神田川には多数の舟が係留する。
花見、花見見物や夕涼みに、江戸情緒を楽しむために利用されている。

訪れた日:2017.5.26

怨霊の雷鳴が鳴り響いた雷神伝説の地を歩く

2017-05-14 11:52:03 | 東京散策
政治的野望の中で非業の最後を遂げ、その祟りを引き起こすと云う裏の歴史が東国・武蔵国にもあった。
新田義興雷神伝説
時は足利尊氏が室町幕府を開いた南北朝時代。今からおよそ700年近く前のことである。
場所は現在の大田区多摩川界隈である。
主人公は南朝方の勇将・新田義貞の次男(妾腹の子)・義興である。
1358(正平13)年、義興は足利勢に寝返った味方の謀略により討死する。
義興の死後、義興の絶望と恨みは雷神を操る怨霊へと変えた。
それは、矢口の多摩川下流域は七日七晩にわたって雷が鳴り続いたという。さらに謀略に手柄を立てた江戸遠江守(えどとととおみのかみ)が鎌倉の帰りに矢口の渡しにさしかかると、一天にわかに黒い雲の覆われて雷がとどろき、江戸は落馬。7日間も、もがき苦しみ狂死したという。
そのうえ、雷火によって民家や寺が燃えたり、矢口の渡しには夜ごと「光もの」が出るなど人々を悩ませた。

新田義興

矢口の渡し跡
大田区側の多摩川大橋西側のたもとにある矢口の渡し跡。義興が悲愴な最期を遂げた舞台として知られる。



矢口の戦い



大田区文化財 矢口の渡し跡
『新田義興が、矢口の渡しで延文3年(1358)討死したといわれるころの渡し場は、現在の新田神社付近であったと思われ、多摩川は、今より大きく湾曲していたと考えられる。
江戸時代に、平賀源内により戯作「神霊矢口の渡」が作られ、歌舞伎に上演されるに至り、この渡しは有名になった。
渡し場は、流路の変遷と共に、その位置をいくたびか変え、この付近になったのは、江戸中期からであると考えられる。
この渡しは、区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和24年(1949)まで利用された。』


東八幡神社  矢口の渡し跡碑(上写真中の位置にあり)



多摩川七福神 弁財天

頓兵衛地蔵(とろけ地蔵)
多摩川の渡し舟船頭だった頓兵衛が、義興をだまして舟の栓を抜いて沈めたことを悔いて造ったといわれる石造。または、義興の祟りで死んだ頓兵衛のために造られたという説もある。地蔵は怨念のためか、つくり直してもボロボロと解けたようになるため、別名とろけ地蔵ともいわれている。






多摩川七福神 布袋尊

 新田神社

13人の家臣と共に矢口の渡しで無念の死を遂げた義興。その後、怨霊となった義興の祟りを鎮めるために墳墓の前に社を造り、「新田大明神」として祀ったのが神社の起こりである。
義興の怨霊は火雷信仰と結びつき、火除け災難除け、必勝開運、人々を幸せへと導く神様として崇敬されるようになる。






破魔矢の元祖
宝暦年間(1751~1764)頃より「義興の矢」として門前の茶屋で売られていたものが、のちに平賀源内の提案により、五色の和紙と竹で作り、新田家の黒一文字の短冊を付けたものを魔除けとして売り出した。
そして、この矢を2本買い、1本を奉納し、1本を持ち帰り魔除けの「矢守」としたといわれる。






 Love神社のパワースポットと知られている

十寄神社
三体地蔵尊の3名のほか、義興と共に忙殺された10人の家臣がここに祀られている。その名も十寄神社。昔は「十時神社」といい、現在は、十騎神社「「とおよせ様」などとも呼ばれている。
10人の家臣は舟上で義興と共に潔く切腹し、そのまま沈んだといわれ、社殿の裏手に葬られている。






多摩川七福神 毘沙門天

三体地蔵尊
1358(延文3・天平13)年に義興と共に矢口の渡しで命を落とした家臣のうち3人が地蔵として祀られている。
多くの家臣は十寄神社に祀られているが、この3人は舟が沈められた時に対岸までたどり着き、交戦の末に討ち死にした。昔は三体地蔵と新田神社の間に多摩川が流れ、この位置は河岸であったとされる。


ご神木が太くて社が陰で見えない


光明寺
天平年間(720~749)、行基によって創始され、のちに空海が再興。寛政年間(1229~1232)に浄土宗に変わって関東弘通念仏最初の道場となった古刹。
義興の伝説は、義興の怨霊に襲われた江戸遠江守が寺に逃げ込んだことや、切腹した義興が内臓を投げた時、境内の巨木に引っ掛かった話などがある。










延命寺
もともとは、蓮花寺という名の寺で、義興の怨霊が雷火なって堂宇を焼き尽くしたという伝説が残る。
その際、聖徳太子が国家安穏衆人救護のために彫った地蔵尊だけは難を逃れたという。以後その地蔵は「火雷除子安地蔵尊」「延命地蔵」とも呼ばれて、人々の信仰を集め、寺の名も延命寺と変わって再建された。






多摩川七福神 寿老人


神霊矢口渡
エレキテルで知られる平賀源内が福内鬼外(ふくうちきがい)筆名で軍記物語『太平記』を元に370年後に人形浄瑠璃の戯曲に書き下ろした5段の作品。その後歌舞伎でも上演される。
中心は矢口の渡しに伝わる新田神社の縁起を描いた四段目「頓兵衛内(とんべえうち)」通称「矢口渡」。義興が滅んだあと、義興の弟義岑(よしみね)は落武者となり、愛人のうてなを連れて矢口の渡しの渡し守頓兵衛の家に泊まる。かつて義興を謀殺した頓兵衛は、義岑をも討ち取って賞金を得ようとするが、娘お舟は義岑を恋して彼を逃がし、身替りに父の刃にかかる。頓兵衛は飛んできた新田家の神矢に貫かれて最期を遂げるというストーリー。



足利勢の謀略によて、無念の最期を遂げた新田義興の『雷神伝説』が残る多摩川下流域(東急多摩川線鵜ノ木駅~矢口渡駅)を歩く。

資料:裏・東京魔界散歩(三栄書房)
訪れた日:2017.5.5



二十五の阿弥陀様がお練る「おめんまつり」 2017

2017-05-10 14:14:16 | 東京散策



浄土宗 九品仏浄真寺

3年に1度の浄眞寺(九品山唯在念仏院淨眞寺)の「おめんかぶり(二十五菩薩来迎会)」が行われた。
前回までは真夏の8月16日に行われていたが、お面をかぶって歩くにはあまりにも暑いということで、気候の良い5月5日に変更された。
1700年代末期に建てられた仁王門(紫雲楼)の楼上には「おめんかぶり」に登場する阿弥陀如来と二十五菩薩が安置している。特別の日だけ開扉され仏像が拝める。

二十五菩薩来迎会は、信者の臨終に際し、阿弥陀如来が二十五菩薩を従えて来迎し、 極楽浄土に導く様子を行事化したものという。 本堂を現世(娑婆)に、正面の上品堂を西方浄土に見立て、この間に特設の橋が架けられている。これを極楽浄土に通じる白道(びゃくどう・二河白道の略)と云い、浄土往生を願う信徒の白い道である。余談だが、徳川三代将軍家光時代の大久保政談に登場する、一心太助が腕に「一心如鏡、一心白道」の刺青をしていたとされる。

お練りは二往復する。
最初は本堂より梵字袈裟をまとった信徒たちが上品堂に渡る。

上品堂に入るとお面を被り、阿弥陀如来と二十五菩薩に扮し本堂に渡る。これを「来迎」という。




お顔は同じであるが、持っている道具によって菩薩が区別され、多くは鼓、琵琶や笛など楽器を持たれている。
最後に渡られるのは、我々もおなじみ右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩である。

本堂に入ると、本尊の釈迦如来像のまわりを回わる。
次に、往生人にみたてた住職衆僧と開山の「珂碩(かせき)上人坐像」を載せた逗子、菩薩や導師を守る役目の稚児らが上品堂に渡る。これを「往生」という。
先頭を2基の万灯が進む。






蓮はすの花びらの形をした散華を巻きながらお練る。



最後に、珂碩上人の逗子、僧侶、稚児、そして信徒らがお面を上品堂で脱ぎ、素顔で本堂に帰る。
これは、来迎をうけた往生人が浄土よりこの世に帰り、世のためにつくすという「還相(げんそう)」を表している。








お練りの最後を進む僧正が白道上でお念仏を唱え終わる。



本堂の釈迦如来像と上品堂の三躰の阿弥陀仏とは、白道に通された白い帯とひもで結ばれている。


おめんかぶりの行事の一環で巨大な「南無阿弥陀仏」の虫干し法要も行われる。

境内の閻魔大王と葬頭河婆(奪衣婆)が祀られた閻魔堂でも念仏が唱えられている。

このおめんかぶりは、1827(文政10)年に当時の寺の厳しい経済状況から宗教及び経済的な理由によって始めたとされるが、事前に寺社奉行に届け出を出さなかったようで、それ以降中止され、復活したのは明治になってからのようである。
関西ではいくつかの寺院でこの法要が行われているが、関東ではこの寺院だけである。
浄眞寺の土地は、もともとは世田谷吉良氏系の世田谷城の支城となる奥沢城であった。秀吉の小田原征伐後廃城となり、1675(寛文5)年に当地の名主が寺地として貰い受け、珂碩が同地に浄眞寺を開山した。
境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに三体、合計九体の阿弥陀如来像が安置されている。この仏像は、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(くほん)と云い、浄眞寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
また、自由が丘駅は、開業当初は「九品仏前駅」という名であったという歴史もある。現在では、東急大井町線に「九品仏駅」が自由が丘駅の隣駅として存在している。


訪れた日:2017.5.5


桜坂も・"多摩川夢の桜街道" 八十八ヵ所巡り

2017-04-20 14:46:55 | 東京散策
昨年まで桜の玉川上水を3年かけて巡り、中央自動車道の暗渠までたどり一段落した。
そこで、多摩川流域に「多摩川夢の桜街道・八十八ヵ所」桜の名所があることを知り、今年は玉川の本流でもある多摩川を遡上し、下流域の桜の名所を東京が満開宣言をした4日後にたどった。



多摩川 桜街道


4番所 六郷橋緑地堤防桜並木  大田区南六郷2・3丁目
桜の種類 染井吉野70本
多摩川土手の「ガス橋緑地」。対岸には、武蔵小杉の高層ビル群も眺められる絶好のロケーション。
羽田空港に離着陸する飛行機
1931(昭和6)年に造られた六郷水門がある。ドイツ人建築家のデザインで存在感たっぷり。



水門にも管理棟にもレンガが使われ古き趣を感じる


桜満開宣言4日後なのに近くにあっても咲き方が大きく違う



5番所 池上本門寺・本門寺公園  大田区池上1丁目
桜の種類 染井吉野1,500本
関東最古の五重塔
日蓮聖人が1282(弘安5)年10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)した霊跡。













本門寺公園



弁天池


6番所 ガス橋緑地堤防 二十一世紀桜並木  大田区下丸子2・3・4丁目
桜の種類 染井吉野115本
ガス緑地堤防付近には、「講和桜」と呼ばれる、1952(昭和27)年サンフランシスコ講和条約を記念して植えられた樹齢50年以上の古木が約50本。2004(平成16)年~2005(平成17)年の多摩川のスーパー堤防工事に伴い、切り倒されることになっていたところ、近隣住民の強い要望で現在の場所に植え替えられた。そんな講和桜に平行するように、新たに63本の染井吉野が「二十一世紀桜」と名付けられ植樹された。高層マンションとの桜とのコントラストが印象的。











7番所 桜坂と六郷用水  大田区田園調布町
桜の種類 染井吉野・枝垂桜65本
90年代末に人気を博した、TBS系テレビ番組「未来日記」の挿入歌として使われた福山雅治・ミリオンセラーの「桜坂」。その舞台として、この坂は、一躍有名になった。
また、この道は旧中原街道でもある。田園調布本町19番付近にある石垣に囲まれた切通しで、道の両側には大正時代に植えられた桜が40本ほど立ち並ぶ。かつては「沼部の大坂」とも呼ばれ、急勾配のため荷車などの通行は大変困難だったと言われている。周辺の村落は旅商人の往来も多く、坂の両側には茶屋などもあり、坂下には六郷用水が流れていた。現在は、湧水を利用して「六郷用水の跡」として保存されている。
桜坂



この道は大御所様も通った旧中原街道 でもその頃は桜は植わってはいなかった



六郷用水沿い






8番所 多摩川台公園  大田区田園調布1丁目
桜の種類 染井吉野300本
大田区にある多摩川沿いの約750mの丘陵地の公園。昔は、亀甲山(かめのこやま)と呼ばれ、小学校の遠足や家族での花見の記憶がある。現在は、多摩川台古墳群や、展望台に水生植物園、あじさい園など見所がある多摩川台公園となり、古墳から出土したレプリカが展示されている古墳展示室などの施設も存在する。
園内には、『自由広場』と『運動広場』の桜や多摩川を見下ろす位置にある『見晴し台広場』付近のパノラマ風景での桜が楽しめる。





多摩川浅間神社


1~3番所は川崎市のため割愛した。

桜の語源には一説として、「さ」は山の神「サ神」に由来し、「くら」は神様が鎮座する場所を示すという。
普段、「サ神」は、山に住み、山から下って宿るのが「桜」・・・つまりは「サ神が座(くら)に宿る」と謂われ「さくら」の語源になった。
そうなると、「相模の国高座郡」は桜の語源そのものになるのだろうか。
それはともかく、桜の開花は神様が降りられた証とされ、 農民は桜の開花により田植えの時季を知り、桜のもとで、「サ神」を迎え、料理や酒でもてなし、一緒にいただく≪お花見≫をしたのであろう。

訪れた日:2017.4.6

『"多摩川夢の桜街道" 八十八ヵ所巡り 2』に続く

"多摩川夢の桜街道" 八十八ヵ所巡り 2

2017-04-20 14:44:22 | 東京散策

多摩川 桜街道 2


『"多摩川夢の桜街道" 八十八ヵ所巡り』から続く


9番所 洗足池公園 大田区南千束2丁目
桜の種類 染井吉野200本
園内には、池月橋、水生植物園のほか、勝海舟夫妻の墓、西郷隆盛留魂碑など歴史を感じるスポットもある。また、洗足池の北側に位置する桜山はその名の通り見事である。













10番所 九品仏浄真寺 世田谷区奥沢7丁目
桜の種類 染井吉野・八重桜50本
総門を抜け閻魔堂を横目に見ながら進むと、高さ30mの楼門の 威容に圧倒される。
境内は3万6千坪、三仏堂(上品堂・中品堂・下品堂)建ち並ぶ。














11番所 等々力不動尊 世田谷区等々力1丁目
桜の種類 染井吉野100本
境内の見晴らし舞台から眺める景色が見事。










等々力渓谷





愛 染 桜

                  愛を染める 桜と書いて 愛染桜
                   兄さん あなたに習って書いた
                   あれは幾つの 春のこと
 
                   ・・・・・・・・・・・・・
                    ・・・・・・・・・・・・・
                   桜吹雪に つつまれながら
                   明日 私 嫁ぎます
      (唄:愛染桜 あさみ ちゆきさん)



12番所 多摩堤通り桜並木 世田谷区玉川1丁目~野毛2丁目
桜の種類染井吉野・大島桜50本
「にこたま」と呼ばれている、東急二子玉川駅から河口に向かって、交通量の多い多摩堤通りを進むと、右手に多摩川の水位が上昇した時には閉められる、赤レンガの玉川東陸閘(りっこう)がある。多摩川堤通りの桜並木はここからスタートする。このあと桜は一旦まばらになるが、第三京浜の橋を越えたあたりの河川敷沿いに、再び群生の桜が続く。本数的にはそれほど多くはないが、1本1本が太く大きく、枝ぶりも地面につくほどに見事。










14番所 砧公園 世田谷区砧公園
桜の種類染井吉野・里桜930本
都内では最大 級規模の公園。
幹まわり3mを超える大木も多く、間近で花を見ることができる。










15番所 妙法寺 世田谷区大蔵









おおくら大仏(ハイテク大仏) 高さ8メートル、重さ8トン、ブロンズ製
午前9時から午後5時までは、南に位置する本堂の方を向いているが、参拝者が近づくと、そちらに向きを変える。 午後5時になると、北側の世田谷通りを向くようにゆっくりと180度回転する。

道筋で





東宝スタジオ
ゴジラ生誕60周年、ハリウッド版『GODZILLA』の公開を機に、3ヵ月の制作期間を経たゴジラ壁画(高さ約11m、幅約11m)



16番所 きたみふれあい広場

















13番所馬事公苑は交通接続上のため割愛した。
これで多摩川下流域・桜の札所は終了した。

昨年、『“多摩川夢の桜街道” 八十八ヵ所巡り』なるものがあることを知り計画したが、天候が悪く今年に延期した。
この桜の八十八ヵ所は、多摩川流域の自治体から構成される「多摩川流域都市協議会」等から支援を受けた、美しい多摩川づくりを目指す「美しい多摩川フォーラムという団体が選定している。
『夢の桜街道八十八ヵ所巡り』は東北地方にもあると云う。


訪れた日:2017.4.10


平河天満宮に詣でる

2016-07-26 12:02:33 | 東京散策

太田道灌が、菅原道真の霊夢を見て、1478(文明10)年江戸平河城内に天満宮を建立した。その後、徳川家康公が築城のため本社を平河門外に移し、1607(慶長12)年徳川二代将軍秀忠に依り、現在の地となり、地名を本社に因み平河町と名付けられた。
菅原道真を主神に相殿として徳川家康を祀っており、徳川幕府に特別な格式で待遇され、紀州藩徳川家、彦根藩井伊家の祈願所でもあった。


銅鳥居(千代田区指定有形民俗文化財)
高さ5m五メートルにおよぶ銅製鳥居で、1844(天保15)年に、麹町周辺の人々によって奉納された。千代田区内では最古の鳥居で八代目西村和泉藤原政時の製作である。鋳物師西村和泉は元禄から明治期まで十二代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示し、江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残している。




狛犬(千代田区指定有形民俗文化財)
狛犬は、先代の狛犬がこわれてしまい1801(享和元)年に麹町周辺の人々によってあらたに奉納さるが、1850(嘉永3)年に火災で角や足を失い、1852(嘉永5)年に補修して再設置したと記録に残されている。
ただ、本社の狛犬は、「獅子」(右側)と「狛犬」(左側)との対のようである。


撫で牛・石牛(千代田区指定有形民俗文化財)
天神様のシンボルが梅であるが、同様に牛も天神様のトレードマークと云うことで、撫で牛が1体、石牛が4体境内に鎮座している。
なぜ牛が奉納されているのかは、祭神道真が丑年生まれと云うことのようだ。牛の耳元で願いごとを唱えながら、一番気にかかる箇所をやさしく撫でると、ご利益があると云われている。


力石
力石とは江戸時代から明治時代まで力試しが盛んに行われており、それに用いた石のこと。その由来は神霊が寄り付いた石を持ち上げることで豊凶・天候・武運等の神意を伺う石占の信仰にさかのぼると云われているが、やがて本来の意味を失い、娯楽として若者の力自慢の道具と見られるようになっていった。


筆塚
使い古した筆の供養のために、筆を地に埋めて築いた塚で、1852(嘉永5)年、菅原道真950年忌を記念して作成・奉納されたと神社の解説であるが、一方で筆塚とは寺子屋の師匠などをしのんで,教え子たちが建てた記念の碑を指している。筆子塚ともいう。


常夜燈
本来、常夜燈は左右一対で存在していたが、現存するのは一基のみである。
中台に菅原道真にちなんだ梅鉢の文様が装飾されている。
寄進者は区内にあった寺子屋の雲龍堂と龍海堂である。雲龍堂は、文政年間から文久年間(1818~1864)まで現在の麹町5丁目に生徒数は250名(男150名・女100名)の寺子屋として存在した。龍海堂は、1804(文化元)年現在の鍛冶町2丁目に開業し、読み書き・算術・活花を教え、生徒数は160名(男55名・女105名)であった。


百度石
百度参りを行うために使用される石標で、個人的な心願のため特定の神社に百度参詣を行うことで、最初は百日間にわたり毎日参詣する形であったが、のちには一日のうちに百度参詣する形に変化したと云われる。この百度石は背面に奉納者と思われる人名数から察して、何らかの結願の結果として1852(嘉永5)年建立・奉納されたようだ。


縁結びの梅
境内の梅の木には、ペアに実がなるそうで、恋愛成就には霊感あらたかだと云われている。

  このようになると云うのだが



本社と亀戸天神社(江東区)、湯島天満宮(文京区)の三社を江戸三大天神とも呼ばれれ、関東三大天神となると、本社ではなく谷保天満宮(国立市)の三社となるようだ。
参拝した時は本殿の提灯に灯りがともる日暮れ時で、訪れる人もわずかであった。
そして、この神社を離れてすぐに豪雨が降り出し、しばらく駐車場の軒先を借りて雨宿りした。

          


訪れた日:2016.7.19


丸ノ内の将軍塚

2016-07-24 14:59:18 | 東京散策
皇居のお堀が見えるビジネス街の一角に平将門の首を祀る塚がある。
平将門とは平安中期に於ける関東の豪族で、京都の朝廷に対し東国の独立を図り、自ら新皇(しんのう)と称した。このため関東諸国を巻き込む「平将門の乱」となったがわずか2カ月で平定され、将門も戦死しその首は平安京に運ばれ都大路でさらし首となった。獄門の最初の人物ではないかとも云われる。
その首が3日目に夜空に舞いあがって数カ所に飛んで行ったと云われる。そのひとつがこの地である。

ここの住民は長らく将門の怨霊に苦しめられるが、他阿(たあ)と云う僧侶が供養した。浅草の日輪寺の前身の念仏道場が建てられた。

塚は関東大震災で損壊した。その地に大蔵省の仮庁舎建設計画があったり、戦後はGHQが区画整理で移転計画もあったが、いずれも不審な事故が発生し取りやめとなったと云う。
そこには科学では割り切れない何かがあるのかも。
そのために、東京に一等地に今日まで残っているのかもしれぬ。同様なことは、羽田空港の鳥居にまつわる話もある。

と云うことで1307(徳治2)年から700年余もこの地に祀られている。

首塚の境内にはカエルの置物が奉納されているが、これは将門の首が平安京から関東に帰ってきたことで、必ず帰る(カエル)と云うことのようだ。事実1986(昭和61)年に発生した三井物産マニラ支店長誘拐事件ではカエルを祀って無事に帰って来た事実があって奉納が絶えないようだと云われる。



将門伝説は関東各地に伝承されているが、先週のテレビ東京の朝の番組「歴史の道」で青梅街道を歩いたが、ここでも将門伝説が紹介されていた。
「青梅」の地名自体が将門伝説から生まれている。青梅の金剛寺の梅の木は将門がこの地を訪れた際に馬の鞭に使われていた梅の枝を地に刺したものが根付いた。その木になった梅の実は何時までの赤くならずに青かった。そこで「青梅」の地名となった。
また、「将門神社」が創建は不明であるが、将門の子なる者が建てられている。


また、徳川四代家綱の時代、寛文年間(1661~72)この地は酒井雅楽頭(うたのかみ)の上屋敷中庭で、歌舞伎の「先代萩」や山本周五郎原作「樅の木は残った」で知られる伊達騒動で原田甲斐(1619~71)が殺害されたところでもある。

上屋敷中庭と書かれている案内板がたつ



訪れた日:2016.7.19