彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智光秀の丹波攻略で落城した丹波三大山城❺八上城③1年半に及ぶ壮烈な籠城戦は餓死者も‥

2021-02-01 12:28:48 | 滞在記

 ここ八上城は「藪椿(やぶつばき)」の樹木の多い城でもあった。藪椿は毎年2月ころに開花するが、12月26日のこの日すでに数輪が開花している木もあった。前出の『戦国の山城をゆく』でも安部龍太郎氏がこの八上城を巡って、「所々に椿もあって、道には朽ちかけた赤い花が転々と落ちていた。武士は一度に落ちる椿の花を不吉として忌んだというが、確かに散り落ちた花は打たれた首を連想させる。"武士(もののふ)の 御山の椿 落ちにけり" そんな句を作ってみたくなる風情なのである」と記している。

 これまでに1000を超える山城を巡ってきた。2度、3度と訪れた城も少なくない。日本には3万箇所以上の城跡があるとされるが、最も多いのは京の都に隣接する滋賀県、次いで兵庫県。京都府では1000余りの城跡がある。例えば、丹波の南丹市(旧「園部町・八木町・日吉町・美山町」)だけでも90余りの城跡がある。

 そのほとんどは(「土」で「成る」)、石垣がない中世山城(1400年~1580年の200年間に築城されたものがほとんど)。石垣を城に用いるのは中世後期の1550年代以降だ。山城に明確な「井戸」がない城址が圧倒的に多い。普段は山城の麓に館を構えているから、館背後の山城に登って籠城戦を戦っても、その多くは1週間から1か月間ほどだった。水瓶には貯めていた水や雨水、近くの小さな沢の水を使用した。

 山城に石で囲まれた小さな井戸がある城はめずらしいが、ちょっと気をつける必要がある。水がわずかながら今もあるので、蝮(マムシ)が井戸周囲に生息していることが多いのだ。何度か危険な目に遭った経験がある。近畿地方なら、例えば周山城(京都府京北町)、高取城(奈良県高取町)、観音寺城(滋賀県安土町)などの山城の山中の井戸。山蛭(ひる)や野猿の集団、熊やイノシシも怖いが、やはりマムシが私は一番怖い。(※特に産卵期の8月9月は怖い)  たまに遭遇する鹿はかっこよくて可愛い。

 山上の八上城域巡りを終え、元々、波多野氏の本拠地が作られた奥谷地区に入る。かってはここに八上城の城下町があり、武士たちの館群もあった。地区の東西に高城山や法光寺城のあった山がそびえ奥谷川が流れる。ちょっと越前朝倉氏の本拠地・一乗谷や北近江浅井氏の本拠地・小谷城の麓の谷の屋敷群地区と似通ってもいる地区だ。ここに波多野氏の最初の本城となった高城山の尾根の一つを利用した奥谷城のあるところを見る。

 波多野氏が史上に名を現すのは、応仁の乱で管領・細川勝元(東軍の総帥)に仕えて軍功のあった波多野清秀の頃からである。1447年に乱が終結、清秀はその恩賞として、多紀郡(篠山盆地)を与えられ丹波国の小守護の一人となった。そして本拠地として奥谷城をつくる。武家屋敷や城下町を奥谷川沿いにつくり、谷の出入り口に土塁や堀を築いて守りを固めていた。清秀の子元清の代になると多紀郡の土豪や豪族たちのほとんどを勢力下に治め、波多野氏一族は丹波国の守護代とも目される有力国人となっていった。

 勢力の版図が大きくなるにしたがい、1511年頃から高城山の山頂を中心とした今の八上城を新たに築城し始めた。元清から秀忠、元秀にわたる三代の間、波多野氏は細川管領家の内紛に巻き込まれ、他の勢力との合従連衡(がっしょうれんこう)をくり返しながら(※この頃には丹波国三大国人勢力は「内藤氏・波多野氏・赤井(荻野)氏」となっていた。)自立した戦国有力国人として家を保っていく。

 ところが1549年に思いがけない事件が起こった。かねて対立していた三好長慶が、足利第13代将軍義輝と管領の細川晴元を京の都から追い出し、三好政権を打ち立てたのである。これに元秀は敢然と反し、1567年まで18年間にわたって三好家との戦いをくり広げた。その戦いの中で、八上城の城域は拡大し、城としての防御機能も飛躍的に高まっていった。

 1530年ころから1579年までの50年間で7度にわたり八上城は攻防の戦場となり、三度落城した。一度目は1530年代に落城しその後に城を奪還。二度目は1550年頃、内藤国貞に攻められたが国貞を敗死させて城を守り撃退している。内藤家の婿養子となった内藤宗勝(三好家の重臣・松永秀久の弟)によって1555年頃に落城。波多野一族は流浪の身となる。丹波黒井城に籠る赤井・荻野氏を包囲攻城していた1565年の内藤宗勝の突然の不慮の討ち死ににより内藤家の勢いが弱くなった。また1564年に三好政権を打ち立てた三好長慶が病で死去し、その後の三好家も内紛により弱体化、1566年には黒井城の赤井・荻野氏の支援を受けて波多野一族は勢力を集めて再び八上城を奪還している。

 波多野秀治は播磨・三木城を本拠地とする別所長治に正室として娘(妹との説も)の照子を嫁がせて同盟関係も結んだ。

 そして三度目の落城が明智光秀軍による丹波進攻に対する1年半近くにもわたる壮絶な籠城戦での落城だった。1579年のことである。この時の波多野一族の城主は波多野元秀の長子・波多野秀治。そして秀治の2人の弟たちが秀治を支えた。この波多野三兄弟が城の各曲輪群の要衝にそれぞれ布陣して結束しながら1年半も戦い抜いた。当主の波多野秀治は1529年頃に生まれたとされ、この落城時は50歳くらいと推定されている。

 1575年に信長の命により明智光秀の軍団が丹波進攻を開始した時の標的は、東丹波地方の内藤氏と宇津氏だった。その後、西丹波地方の黒井城に拠る赤井・荻野氏が信長が将軍・義昭を追放したことに反発し、西国6か国の戦国大名毛利氏などとの同盟提携などにより反旗を鮮明にした。内藤氏の八木城を落城させた明智軍は、次なる標的を赤井・萩野氏に向けて侵攻を開始した。

 波多野氏は当初、明智軍とともに従軍。しかし、1576年1月、明智軍の黒井城攻めの最中、突如、明智軍に反旗を翻し、明智軍は赤井・荻野軍と波多野軍に挟撃されて大崩れとなり敗退し、光秀の丹波進攻に当初から協力してきた東丹波の有力国衆の小畠氏などの案内支援でようやく冬の丹波での窮地を免れ戦線を離脱できた。そして、これに呼応するように、播磨の三木城に拠る有力国人の別所長治や摂津の伊丹の有岡城に拠る有力国人の荒木村重などが、大阪石山本願寺を本拠地とする本願寺勢力とも呼応し、信長に反旗を翻した。

 それに対して織田信長は翌年の1577年10月、細川藤孝・忠興軍、丹羽長秀軍、藤堂高虎軍、滝川一益軍などの増援をつけて大軍団をもって第二次丹波進攻を開始した。黒井城と八上城との連携を断つために両城の中間地の峠に「金山城」の堅城を築城。それぞれを孤立化させる戦略をとる。八上城を防衛するための支城を次々と陥落させ、1578年9月には八上城本城の周囲に多くの付け城(陣城)を13箇所築城、付け城(陣城)と付け城(陣城)の間には二重・三重の柵を設けて獣一匹も通さぬ厳重な包囲網を形成した。

 1579年1月には光秀の丹波進攻の初期からその支配下に入った有力国衆の小畠水明が波多野方の反撃で戦死もしている。厳冬の冬に耐え、食料難に耐え、飲料水の欠乏に耐え、毛利軍の援軍を待ち続けた八上城や黒井城、そして三木城。だが羽柴秀吉軍団と対峙している毛利の援軍はついに播磨や丹波までき来なかった。

 八上城ではこのようにして1年半あまりの籠城戦を戦いぬいていたが、1579年4月頃から餓死者が相次ぐようになり400~500人が餓死、凄惨な状況となり城を抜け出す者も出始めた。城を出た者たちの多くは捕えられ、斬首されていった。このような状況下、光秀は降伏勧告の使者を出す。一説にはこの時、「光秀の母・お牧の方を亀岡城か坂本城から呼び寄せ、人質として八上城に送り、光秀を信じて降伏に応じるよう説得した」とも伝わる。しかし、この伝承の信憑性はかなり低い。なぜなら1年半ほどの籠城戦で餓死者も出てきていて、落城寸前まできている時期の話だからである。30歳の時に美濃の明智城の落城の際から苦楽を共にしてきた齢(よわい)70歳前後の母を人質として送ること自体、光秀の生き方からしてもありえないだろう。

 これ以上の籠城は不可能の判断した波多野軍は城から打ってでたが、400人の城兵が打ち取られた。三兄弟の助命嘆願を信長に強く要請するとの光秀との交渉もあり、波多野秀治ら三兄弟は投降し、信長の安土城に護送されたが、信長の命で磔に晒されたあと斬首される。1579年6月のことであった。奇しくも3年後の1582年6月に本能寺の変が起きる。秀治の辞世の句は、「よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」。丹波篠山の多紀郡に根をおろし100年あまり続いた波多野一族の滅亡となった。

 その後、1579年7月24日には宇津氏の拠る宇津城が落城、8月9日には赤井・荻野氏の拠る黒井城も落城し、明智軍の丹波平定戦がほぼ完了した。有岡城に1万5千の兵卒で籠城した荒木村重の城は信長連合軍によって1579年10月に落城。波多野秀治の娘(妹?)の夫・別所長治の三木城は7500の兵卒が立て籠もったが、羽柴秀吉による徹底した城の包囲網により2年間の籠城の末、日本史上有名な「三木の干殺し」(兵糧攻め)の凄惨な籠城戦で餓死者が続出し、1780年2月に落城し、秀治の娘(妹?)も殺された。1580年8月にはついに石山本願寺(別名:大阪城)も落城した。

 畿内・北陸の全域をほぼ掌握し、さらに1581年には山陰の鳥取城を信長軍の兵団長・羽柴秀吉軍がこれまた史上有名な「鳥取城の干殺し」兵糧攻めを展開し落城させ山陰東部もほぼ織田軍団の支配下に置く。織田信長は毛利氏を秀吉軍団をあてて牽制しながら、武田・北条の同盟を瓦解させ、1582年2月から武田氏の甲斐・信濃に怒涛のごとく各方面から攻め込み2カ月後には武田勝頼を天目山で自刃に追い込み、武田家を滅亡させた。その3カ月後の6月2日に明智光秀軍による本能寺の変にて信長は自刃に追い込まれるという事変に至る。

 八上城落城の時、波多野秀治のまだ幼い次男は、乳母や腰元に抱きかかえられて、八上城の西方8kmあまりの所にある黒田地区の乳母の実家に落ち延びた。その後、近隣の味間地区の文保寺にさらに落ち延び匿われる。共に幼子を抱き城から逃げた腰元は途中、八上城の西方2kmの野中地区にて捕まり殺された。そこには乙女塚がつくられている。のち、その次男は文保寺にて僧となり、30歳で環俗して波多野右衛門尉定吉を名乗る。その後、徳川時代の篠山藩士となったと伝わる。その子孫たちは今も篠山に居をかまえ暮らしていて、波多野同族会をつくり今に至る。同族会の人たちの家屋正面に記される家紋は戦国時代にて100年以上続いた丹波・波多野一族の「○の中に十」の家紋をつけている。また、次男に託した秀治ゆかりの太刀が今も同族会に伝わる。

 八上城とはそんな歴史をもつ城址だった。明智光秀の戦功として最も大きな5年間にわたる丹波攻めの中でも、八上城とその有力支城群である細工所城や籾井城の戦いと頑強な抵抗をもっての籠城戦は、丹波武士の白眉(はくび)かと思われる。織田軍団にとっても、ここ丹波国という地の侵攻・平定は「超難関」なことだった。

 

 

 

 


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