彦四郎の中国生活

中国滞在記

寅年の初詣、虎を見に行く❹平安神宮「四神獣」、風水思想の地—アムールトラを見る

2022-01-06 19:15:30 | 滞在記

 京阪電鉄が毎月発行する「K-PREES」1月号(Take free)には、特集記事として「京都ゆかりの虎たち」と題して、京都の神社や寺院にある虎像を紹介していた。その社寺とは鞍馬寺、建仁寺塔頭の両足院。この二つの社寺は毘沙門天(勝利の神、福徳の神)を祀っている。また、方角の守護である「四神獣」についても書かれていた。

 風水思想により、四神獣(聖獣)に守られた土地とされた京都(四神相応の地)。平安京における四神獣は、それぞれ川・道・池・山に相当するとされ、北は玄武(げんぶ)である船岡山、東は蒼龍(そうりゅう)である鴨川、南は朱雀(すじゃく)である巨椋池、そして西は白虎(びやっこ)である山陰道(※風水思想では、都市をつくる場合、北に山、東に川、南に池、西に道があると良いとされた)。

 そして、京都では、京の四方と中央を守護する5つの社寺を参拝する「京都五社めぐり」というものが、明治以降に始まった。北の上賀茂神社、東の八坂神社、南の城南宮、西の松尾大社、そして中央の平安神宮の五社である。

 「寅年の初詣、虎を見に行く」ということで、1月5日の午後には平安神宮に行った。ここに白虎の虎の石像があるからだ。平安神宮の大鳥居、応天門(神門)へとすすむ。

 応天門をすすむと、西に白虎楼、中央に大極殿、東に蒼龍楼と、それぞれの建物群が目に入る。

 西の手水舎には白虎の石像が鎮座している。

 そして、東の手水舎には蒼龍の石像が鎮座。

 1860年代の幕末動乱の時期、京都守護職の任に当たった会津藩は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いに徳川幕府軍が敗れたあと、迫り来る薩摩・長州・土佐・肥前などの倒幕軍に対抗するため、国元の会津で四つの部隊を編成しなおした。年齢の高い順に「玄武隊」「蒼龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」と、四神獣にちなんだ部隊名である。白虎隊は16歳・17歳で編成されていたが、1868年8月23日に隊士たちは自刃する。

 この四神獣(聖霊獣)は、飛鳥時代につくられた明日香村の「キトラ古墳」や「高松塚古墳」の玄室に描かれてもいた。

                   —風水思想とは―

 古代中国の殷・周の時代に成立した思想で、都市・住居・建物・墓などの位置の吉凶禍福を決めるために用いられた。「気」(※「天・人・地」の三つの「気」が調和することを重視する環境哲学/環境と人間の相関関係に関する思想)の流れを、物の位置で制御するという思想だ。「鬼門」の方角から入る邪気を建物の壁などで遮る(さえぎる)ったり、玄関の位置を「運気」の方角に置くこともこれに関連する。「風水」には「地理」の別名がある。また、「五行」という思想も中国で生まれた。この世界の全ては、「木・火・土・金・水」の五つの要素から成るという考え方だ。

 この風水思想や五行思想が日本にも入り、平安時代には「陰陽寮」が作られ、日本独自の「占い・天文・時・暦」を担当する機関となり、いわゆる「陰陽道(おんみょうどう)」が形成された。安倍晴明などはこの陰陽寮の長官であった。この安倍晴明の末裔が土御門家(安倍)。応仁の乱で都が戦火に見まわれたため、土御門家(つちみかど)一族は都を逃れ、若狭国の名田庄(現・福井県の名田庄村)に移住する。徳川家康の命で、江戸時代となり京都に戻り、陰陽道の職にあたり、幕末までその職は続いた。名田庄村にはこの土御門家の史跡がある。

 平安神宮の近くに京都市動物園があり、ここにはアムールトラがいる。この虎を見たくて動物園に入園した。動物園玄関前に「謹賀新年 とら年 2022」と書かれた小さな看板が、アムールトラの写真とともに立てられていた。

 さっそく猛獣舎のある所に向かう。南米に生息するジャガーがいた。ヨーロッパのアルプス山麓に生息するオオヤマネコもいた。ジャガーの体長は2mくらいだろうか。かなり大きいが体はスリムだ。人間がこのジャガーと戦ったても致命傷は負わないかもしれないと感じた。

 アムールトラの獣舎に行く。一目見て恐怖を感じる。とにかく大きく、ジャガーよりも格段に威厳があり、そして怖い。この虎の体長は3mくらいあり、体はとても巨大だ。眼光も鋭く、もし森で遭遇したら、恐怖で体が射くすめられて、動けなくなるだろう。このアムールトラは、ここ京都市動物園で2010年に誕生しているようだ。この動物園で、母親の「アオイ」が3頭のオスを出産し、この「オク」と名付けられていた虎は次男と書かれていた。「森の聖獣、森の王、森の神」という「デルス・ウザーラ」の言葉そのものの姿だった。

 昨日5日、栃木県の「那須サファリ―パーク」で、ベンガルトラ(体長2m余り)に襲われて、20代の飼育員3人(女性2人・男性1人)が重症を負った。後頭部を嚙まれたり、右手首を食いちぎられた人もいたという。虎は猛獣だ。

 昨日、私の中国ファウエイ製の携帯電話の動画に上記のような映像が掲載されていた。アスファルト舗装された細い田舎道に、女性がリアルな虎の絵を描いた。そこに通りかかった野犬(野良犬)たち3匹。絵を見た瞬間に、犬たちは恐怖の叫び声をあげて、一目散に逃げるようすを撮影した動画だった。

 中国の三大発明に「火薬、羅針盤、紙」がある。中国福建省の骨董店で「羅針盤」を買って、日本に持ち帰った。この羅針盤にこと細かく書かれているのは、十二支であったり、風水であったり、陰陽道の紋様であったりしている。つまり、「天文・方角方位・時刻」などさまざまなものが、詳細に書かれている。

■戦国武将の上杉謙信(長尾景虎)は、「越後の虎」「越後の龍」とも呼ばれた。彼が、勇猛果敢な武将だったことからそう呼ばれたのだが、謙信は毘沙門天を深く信仰しており、その毘沙門天の使いが虎でもあったから、「越後の虎」とも呼ばれたようだ。甲斐の武田信玄も「甲斐の虎」と呼ばれた。「龍虎」という言葉がある。強大な力量をもち実力伯仲するライバルを意味する。謙信と信玄もこの「龍虎」。平安神宮の「白虎」「蒼龍」は、この「龍虎」のさまも表しているとも言える。

■日本の文学者・中島敦の作品に中国の古代を舞台とした『山月記』がある。この『山月記』には、人間が猛獣の虎にだんだん変わっていく人のことが書かれている。中島敦の『李陵』も中国の歴史上の人物である李陵や司馬遷(『史記』の作者)を題材とした文学。大学の「日本文学作品選読」の授業では、この優れた二作品も取り上げている。