就職した頃、最初に配属された課で私はかなり緊張していた。
次々とやってくる仕事を何とかこなす毎日だった。
その課には、紅茶を葉から入れることが好きな人がいた。
その人は、たまに3時になると自分のために紅茶を入れるのだが、その時に「今から紅茶を入れますが欲しい人はいますかー?」と課内に問いかけるのだ。
その人は紅茶を入れるのがうまく、入れる度に皆におすそわけしてくれたのだが、何人も集まってしまい大変なことになっていた。
私もものすごく気になったが、緊張のあまり眺めているだけだった。
ある日の3時、その人の「今から紅茶を入れますが欲しい人はいますかー?」という声がした。
欲しい欲しい欲しい!といくつも手が挙がる。
今まで緊張してとてもその中に入っていけなかったが、思い切って申し出た。
「私も入れてもらえますか?」
「飲む?いいよ~。今日は何の葉にしようかな。」
すんなり入れてもらえてほっとしたのを覚えている。
その人は、メリオールで紅茶を入れ始めた。
(この時初めてメリオールを見た。この時は名前はわからず、しゃれた器具だなと思っただけだった)
しばらくするとできあがり、わくわくしながら口をつけた。
マスカットの良いにおいが口いっぱいに広がった。
同時に緊張していた神経が、強引にほぐされていくのが分かった。
その時まで私は「精神力で体は何とかなるもの」と思っていたが、逆は考えたこともなかった。
香りや味でこんなにリラックスするなんて(しかも職場で)!
流しに駆け寄って、置いてあった紅茶の缶を見ようとした。
ちょうどその時、紅茶を飲み終わった人たちがコップを返しにやってきた。
缶をじろじろ眺めているのも変だと思った私は、コップを返すふりをしてその場を立ち去った(馬鹿)。
立ち去るときにその缶をちらっと横目で見た。
金色の地に「FAUCHON」と書いてあるのがかろうじて読めた。
時は経って、紅茶にはまった数ヶ月前、茶葉を買いにデパートへ出かけた。
この時、他のブランドではなくてフォションにこだわったのはこのためだ。
本当はフォションのマスカットの紅茶が欲しかった。
でも、マスカットフレーバーはなく、ダージリン(マスカテルを期待して。でも違った)とソワール・ド・フランスを購入して帰ったのだった。
ネットでもフォションのマスカットの紅茶を探したが、ラインナップにそもそもないようだ。
数年前にはあったのだろうか。
それともあれは、缶だけフォションで中身は別の会社の茶葉だったのか。
おいしい紅茶を入れてくれたその人とは、しばらくして課が別になってしまった。
「あの紅茶はなんですか」と聞きたかったのだが、課が同じとはいえ接触がほとんどないために勇気を出せずじまいだった。
ところが先日その人は結婚されて、何と私の家の近くに引っ越してきた。
私の地域では、春になると草刈りがある。
(冬は草が生えないのでない。)
それにその人も参加するはずだ。
そうしたら、ようやく「あの紅茶は何だったのですか」と聞ける。
紅茶を入れることが好きになったことも、今はそれでどんなに楽しく苦労しているかも話すつもりだ。
その人は、何と言って答えてくれるだろう。
春が待ち遠しい。
※画像は
hare's photoさんからお借りしています。