瀬崎祐の本棚

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詩集「ナラティブ/もしもの街で」 石下典子 (2022/05) 栃木文化社

2022-06-08 21:50:01 | 詩集
第4詩集。111頁に29編を収める。
長い裏表紙が折られて本を囲み表表紙の大半を隠している。あおり返しと言うようで、読むときはこの裏表紙を後ろに格納してくださいとの註がついている。初めて見る造本体裁だった。

「やぶれ傘」。そのひとは幼い日につぼめた番傘を乱暴に振り回して壊したとのこと。雨は「菊座から中棒を伝わって」傘を差したこぶしを濡らす。しかしそれは我が身から出たことだったわけだ。

   そうして屈託のない暮らしの六十よわいに
   手遅れの病巣が見つかった
   --俺はやぶれ傘なんだな
   自分をそう譬えた眼を忘れるはずがない
   あれから二十年
   やぶれ傘は私の心にとどまり
   暴れる雨滴が落ちてくることがある

そのひとの言葉に話者は自分を重ねているのだが、よく判る心情である。最終行の落ちてくる「暴れる雨滴」という表現が的確に伝わってくる。

この詩集で話者は、ある場面では娘として、またある場面では母として、そして時には一族の一員として、生きている。それはさまざまなしきたりや約束事にかこまれ、その中での自分の位置を確かめていくことでもあったのだろう。詩集タイトルの「ナラティブ」とは「語り手がつむぐ物語」とのことで、ナレーションという語とも関連しているようだ。そこには選ばれなかった場面が支えているものも在るわけで、その思いが「もしもの街で」という言葉に続いている。

「母生み」。聞き慣れない言葉であり、もしかすれば作者の造語かもしれない。理由もなく子を叱り、子の大切なものを見過ごしてきた母としての自分。それでも子は話者と共に成長してきた。、最終連は、

   ---たどりついたのは
   絶望も幸せも溜まり水にはないということ
   立ちどまらない激流のしぶきで
   あなたがあなた自身をつくりあげたように
   母親に生んでくれたこと

子を生むことによって自分は母になったわけだが、真の母になるには、その後の子の成長過程を共に歩むことが必要だったのだろう。それが、子が母を生む、ということだったのだろう。

「ねむのき坂」については詩誌発表時に簡単な感想を書いている。
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詩集「春の箱庭」 葉山美玖 (2022/06) 空とぶキリン社

2022-06-03 18:10:40 | 詩集
第4詩集。101頁に31編を収める。

「Ⅰあかるい空」の章には、感情が表出されてしまうのを恐れるかのように淡々と描かれた作品が並んでいる。あえて無表情であることを選び取っているようで、その裏にはかなりに辛い心情が横たわっているのではないかと思える。
たとえば詩誌発表時に簡単な感想を書いた「乳母車」では、アパートの窓から「人気のない三月がよく見える」のだ。荷を降ろすトラックが止まっていたり、自転車の女子高生が走って行ったりするのだが、やはりそれは「人気のない三月」なのだ。最終連は、

   誰も乗っていない
   乳母車が通る
   桃の木の下に

その乳母車に乗っている筈だったのは、もしかすれば話者だったのかもしれない。しかし乳母車に乗せてもらっている自分の姿が、話者にはいつまでも見えないのだろう。

前詩集「約束」の感想で私(瀬崎)は、「書かれた事柄が事実である必要はないのだが、少なくともそこには作者がこのように書かなければならなかった家族環境や親子関係があり、そのなかで作者は育ってきたのだ。」と書いた。
そして「Ⅱ猫仏」の章では、母との確執から生まれた作品が並んでいる。その母は亡くなり、骨壺に収まる。
「母の一周忌」では、話者は心療内科あるいは精神科のようなところで医者と話をする。食虫花になってしまった母は「どんどん大きくなって」「私のことも飲み込もうとしたので、私は走って遠くの安全な場所に逃げ」たのだ。その帰り道、

   夕焼け坂を下りながら、私は自分のことをもう許してあげて、好き
   になってもいいような気がした。

「赦す」では、神父さんが「お母様を赦すとは/やったことを許可することでは/アリません。/もう過去のこととして咎めない/事デス」と呟く。そして最後部分、

   ずっと後になって
   わかったのは
   母を赦すことは
   自分の中の
   鬼に
   気づくことだった

ここには小さく震えている魂がある。第三者が何かを言える地点をはるかに超えたところで作品の言葉が紡がれている。

「Ⅲ春の箱庭」の章には、それらを受け入れて次の地点に歩みを進めた作者の思いの作品となっている。まるで家族関係の呪縛から抜けだしたようで、今の自分のありようを認めることで生き始めようとしている。   

   この小さな私の箱庭のような街から
   春は出航する
                   (「春の箱庭」最終連)

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詩集「夜のバザール」 山本博道 (2022/05) 思潮社

2022-06-01 22:06:05 | 詩集
第17詩集。125頁に25編を収める。

すべての作品が、カンボジア、タイ、ミャンマー、バングラデシュ、ベトナムといった東南アジアの地を踏んで書かれている。読む者はそれらの異国風土に否応なしに連れて行かれる。
「寺院の階段」では、話者はミャンマーにある古い寺院の不ぞろいな石段を上っている。沢山の人が「芥川龍之介の蜘蛛の糸のように上が」っていく。最上階のテラスには柵もなく、話者はおそるおそる眼下に広がる光景を見ているようだ。そして気がつけば、

   それまでいた人たちはいつ下りたのだろう
   もう人影はほとんどなかった
   こんどは一段一段と急階段を下りていく
   鉄製の青い手すりを命綱にして
   ぼくは裸足で下へ下へと石段を下りる

まるで異界に一人取り残されたようだ。そこから慌てて下りてきた場所は、はたして元の場所だったのだろうか。千年前の寺院の最上階を訪れてしまった話者には、異なる光景が待っていたのではないだろうか。

「泥棒市場(タラート・クロントム)」はバンコクでの作品だが、その市場の露天には、およそ廃品としか思えないような品物が並んでいる。そんなものが商品となる地に作者はいる。そしてホテルに戻ろうとして乗ったトゥクトゥクは、「再三再四念押ししたのに」「おかしな道ばかり走って」いつまでもたどりつかないのだ。ここでも、作者はあの地から変貌を遂げて帰還したに違いない。

「サータイ市場」はホーチミンでの作品。話者は誘われるままにガイドのバイクに乗って中華街や古刹をめぐる。そこはデュラスの小説「愛人・ラマン」の舞台にもなった街で、

   二人が逢瀬を重ねた部屋の近くには
   フーさんのバイクは通り過ぎたが
   切り落とされた豚の足や葉物野菜や洋服や
   花や魚のサータイ市場がある

このように作者は日本から離れた非日常の地に身を置いて作品を書いている。もちろんその題材に読む者はまず引き込まれる。しかし、そこに書かれているのが単なる非日常の風景、事物だけであれば、それは紀行文であり、旅行記で終わってしまう。そこに広がった光景によって作者のなかでもつれ合った何かが描かれることによって、この詩集の作品は成り立っている。
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