第4詩集。111頁に29編を収める。
長い裏表紙が折られて本を囲み表表紙の大半を隠している。あおり返しと言うようで、読むときはこの裏表紙を後ろに格納してくださいとの註がついている。初めて見る造本体裁だった。
「やぶれ傘」。そのひとは幼い日につぼめた番傘を乱暴に振り回して壊したとのこと。雨は「菊座から中棒を伝わって」傘を差したこぶしを濡らす。しかしそれは我が身から出たことだったわけだ。
そうして屈託のない暮らしの六十よわいに
手遅れの病巣が見つかった
--俺はやぶれ傘なんだな
自分をそう譬えた眼を忘れるはずがない
あれから二十年
やぶれ傘は私の心にとどまり
暴れる雨滴が落ちてくることがある
そのひとの言葉に話者は自分を重ねているのだが、よく判る心情である。最終行の落ちてくる「暴れる雨滴」という表現が的確に伝わってくる。
この詩集で話者は、ある場面では娘として、またある場面では母として、そして時には一族の一員として、生きている。それはさまざまなしきたりや約束事にかこまれ、その中での自分の位置を確かめていくことでもあったのだろう。詩集タイトルの「ナラティブ」とは「語り手がつむぐ物語」とのことで、ナレーションという語とも関連しているようだ。そこには選ばれなかった場面が支えているものも在るわけで、その思いが「もしもの街で」という言葉に続いている。
「母生み」。聞き慣れない言葉であり、もしかすれば作者の造語かもしれない。理由もなく子を叱り、子の大切なものを見過ごしてきた母としての自分。それでも子は話者と共に成長してきた。、最終連は、
---たどりついたのは
絶望も幸せも溜まり水にはないということ
立ちどまらない激流のしぶきで
あなたがあなた自身をつくりあげたように
母親に生んでくれたこと
子を生むことによって自分は母になったわけだが、真の母になるには、その後の子の成長過程を共に歩むことが必要だったのだろう。それが、子が母を生む、ということだったのだろう。
「ねむのき坂」については詩誌発表時に簡単な感想を書いている。
長い裏表紙が折られて本を囲み表表紙の大半を隠している。あおり返しと言うようで、読むときはこの裏表紙を後ろに格納してくださいとの註がついている。初めて見る造本体裁だった。
「やぶれ傘」。そのひとは幼い日につぼめた番傘を乱暴に振り回して壊したとのこと。雨は「菊座から中棒を伝わって」傘を差したこぶしを濡らす。しかしそれは我が身から出たことだったわけだ。
そうして屈託のない暮らしの六十よわいに
手遅れの病巣が見つかった
--俺はやぶれ傘なんだな
自分をそう譬えた眼を忘れるはずがない
あれから二十年
やぶれ傘は私の心にとどまり
暴れる雨滴が落ちてくることがある
そのひとの言葉に話者は自分を重ねているのだが、よく判る心情である。最終行の落ちてくる「暴れる雨滴」という表現が的確に伝わってくる。
この詩集で話者は、ある場面では娘として、またある場面では母として、そして時には一族の一員として、生きている。それはさまざまなしきたりや約束事にかこまれ、その中での自分の位置を確かめていくことでもあったのだろう。詩集タイトルの「ナラティブ」とは「語り手がつむぐ物語」とのことで、ナレーションという語とも関連しているようだ。そこには選ばれなかった場面が支えているものも在るわけで、その思いが「もしもの街で」という言葉に続いている。
「母生み」。聞き慣れない言葉であり、もしかすれば作者の造語かもしれない。理由もなく子を叱り、子の大切なものを見過ごしてきた母としての自分。それでも子は話者と共に成長してきた。、最終連は、
---たどりついたのは
絶望も幸せも溜まり水にはないということ
立ちどまらない激流のしぶきで
あなたがあなた自身をつくりあげたように
母親に生んでくれたこと
子を生むことによって自分は母になったわけだが、真の母になるには、その後の子の成長過程を共に歩むことが必要だったのだろう。それが、子が母を生む、ということだったのだろう。
「ねむのき坂」については詩誌発表時に簡単な感想を書いている。