瀬崎祐の本棚

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詩集「切り岸まで」  紫野京子  (2015/11)  思潮社

2015-12-09 23:01:49 | 詩集
 第8詩集。131頁に41編を収める。
 この詩集には、親しい人、父母や弟などの死と向き合う心が詩われている作品が多い。そこでは、死を受け入れようとしてなおその周りをいつまでもめぐっているようなのだ。死について想いが彷徨うということは、すなわち自分の生をもう一度見つめ直すことでもあるのだろう。
 「雨の日は」では、「心が内向きになる」という。しかし、そんな日が好きだといった人がいて、その人の眼差しは遠くを見つめていたのだ。

   あれは宇宙の果てを
   見つめていた眼だと
   今はわかる

   そして同時に 自らの深い井戸を
   覗いていたのだと

 宇宙のすべての広がりは自分の中にもあり、同じように、死は生をすべて包み込んでもいるし、あらゆる生も死とともにあることを、あらためて感じさせてくれる。
 Ⅰが死の周りにある作品群とすれば、Ⅱは生の周りにある作品群と捉えることもできる。
 「切り岸まで」では、「この世には見えない函があ」り、私たちは自分でも気づかぬままに「その函を探し続けてい」るという。

   触れてほしくてたまらないのに
   透明な函のかなしさよ
   私はここ と叫んでいても
   風の音 雨の音しか聞こえない

 生きているということには、見える形での報酬も賞賛もそぐわないわけだ。生きていることの意味は誰にも捉えられないわけで、それゆえの「透明な函のかなしさ」という表現に感心させられた。
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詩集「沈む永遠 始まりにむかって」  布川鴇  (2015/10)  思潮社

2015-12-01 18:13:50 | 詩集
 第3詩集。92頁に20編を収める。
 この詩集での事物への対し方はかなり観念的である。しかし、観念を語る言葉にも、何かしらの作者の肉体をともなっていなければ、詩の言葉としては空虚なだけであろう。この詩集では、単なる観念に終わらない言葉が力を持っている。
たとえば「沈む永遠」は、「海に沈んだ街が眠りつづけている」と始まる。その街は時の流れから忘れられたように存在しているわけだが、いつまでも作者を待っている人がいる場所でもあるのだ。

   いま 目前にあるこの細い道のすべて
   いままで知ることのなかった道
   先の見えない道はたましいにしか辿れない
   わたしもたましいになったのかもしれない
   ふたたび覚醒することさえ求められずに

 わたしの眠りの中に在るものを、あるいは、眠ろうとしたときにあらわれるものを、巧みに捉えている。道を辿れば街はどこまでもつづいているのだろう。
 あとがきによれば、作者はダニエル・リベスキンドというポーランド系ユダヤ人の建築に惹かれてベルリンやポーランド、そしてアウシュヴィッツを旅している。そしてそこで生まれた作品が章に収められている。
 「空の本箱」では、ナチスが書物を焼き払ったという歴史をとどめる「図書館」という名のミュージアムを訪ねている。そこには一冊の本もないのだ。

   灰になることを拒んだ言葉の
   涼しい霊たちは/記憶の炎に立ち上がり
   解き放たれた空に向かって歩き出した

   かって存在したものの
   いまなお存在するものの
   幻影をゆらして証する空の本箱よ

 こういった題材で作品を成すときに、往々にして空回りをしてしまう言葉にその無力さを痛感させられるのだが、ここでの作品は「目的地」、「町角」など、見事に屹立している。
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