A5版、71頁。4行から10数行の30編の行分け詩で、大半が1頁に収まっている。
どの作品もかなり理知的に書かれている。そのためにまとまりが良く、暴れている部分が少ない。妙な言い方になるが、非常にお行儀がよい印象を受ける。
以前の詩集でもそうだったのだが、谷内の作品では”ことば”という語が多用されている。せっかくのさまざまな事柄が”ことば”というひとつの言葉に閉じ込められてしまっており、残念な気がする。
たとえば「私がほんとうにしたいことは、」という作品では、それは「どこにもたどりつけないように間違えることだ」としながら、
せめて見つからないようにしたいと思うのだが、
先回りしたことばが向こうからやってきて、遅いじゃないか、こっちだよ、と叫ぶのだ。
「壁に描かれた花が、/さっきからことばをみつめている。」とはじまる「壁に描かれた花が、」では、話者の中に呼び起こされたものを”ことば”というひと言で言ってしまったのだろう。
盛りの花のなかにあって
一輪だけ先に咲いてしまった。
とりかえしのつかない後悔のにおい
同じにおいが
ことばの奥にもう開きはじめている。
肌触りは悪くないので、感覚としては素直に受けとることができる。しかしその分だけ既視感のようなものを感じてしまうことも否めない。
これらの作品では、書くことによっても読むことによっても、我が身の肉体が危険にさらされるという事がない。息を詰めるような緊張感というよりも、爽やかな楽しみのようなものを作者は求めているのかもしれない。
どの作品もかなり理知的に書かれている。そのためにまとまりが良く、暴れている部分が少ない。妙な言い方になるが、非常にお行儀がよい印象を受ける。
以前の詩集でもそうだったのだが、谷内の作品では”ことば”という語が多用されている。せっかくのさまざまな事柄が”ことば”というひとつの言葉に閉じ込められてしまっており、残念な気がする。
たとえば「私がほんとうにしたいことは、」という作品では、それは「どこにもたどりつけないように間違えることだ」としながら、
せめて見つからないようにしたいと思うのだが、
先回りしたことばが向こうからやってきて、遅いじゃないか、こっちだよ、と叫ぶのだ。
「壁に描かれた花が、/さっきからことばをみつめている。」とはじまる「壁に描かれた花が、」では、話者の中に呼び起こされたものを”ことば”というひと言で言ってしまったのだろう。
盛りの花のなかにあって
一輪だけ先に咲いてしまった。
とりかえしのつかない後悔のにおい
同じにおいが
ことばの奥にもう開きはじめている。
肌触りは悪くないので、感覚としては素直に受けとることができる。しかしその分だけ既視感のようなものを感じてしまうことも否めない。
これらの作品では、書くことによっても読むことによっても、我が身の肉体が危険にさらされるという事がない。息を詰めるような緊張感というよりも、爽やかな楽しみのようなものを作者は求めているのかもしれない。