とても嬉しい本が届いた。宇田川新聞の木版画と廿楽順治の詩が合体した1冊である。
まずは2012年の「現代詩手帖」に連載されていた「鉄塔王国の恐怖」。
これは毎回見開き4頁に宇田川の版画が縦横無尽にひろがり、そこに廿楽の言葉が踊りまくる、といった体のものだった。
「探偵詩編」という副題が付けられており、江戸川乱歩の怪人二十面相を(一応は)題材にしている。しかしもちろんそんな題材を軽々と乗り越えて夜空を飛びまわっている頁ばかりなのだ。絵と言葉が一体となった紙面構成の作品なので、その一部分を切り取っての紹介はその魅力を損ねてしまう。これ以上の紹介が不可能であることが残念でもある。
各頁の言葉は欄外にまではみ出ており、たとえば「影男」の頁の淵に書かれていたのは、
【相談】朝、鏡に自分が半分しか映りません。病氣ですか。(職業・少年)
【答え】大丈夫。ぜんぜん映らない人もいます。
(註:原文では【相談】と【答え】は1行に印刷されている)
後半の53編からなる「うだがわ草紙」は、宇田川の版画に廿楽が詩を付けるというスタイルで作られたとのこと。1頁の上半分に版画、下半分に12行~18行の詩が載っている。ここでも二人の作品が互いに寄り添ったり反発し合ったりしているようで面白い。
たとえば「切符のかけら」の版画は、パチンパチンと厚紙の切符を切っていた切符鋏と切り取られて散らばっている切符屑。添えられた詩は、「死んでいるのは古いひとばかり/だから切符がいるのです」とはじまる。
切られた形が
それぞれのたましいの寫眞です
(なんてもちろん冗談)
実をいうと電車はありません
古いひとたちは歩いていきなさい
古いというだけで死んでからもなんだか理不尽な扱いを受けているようだ。切符にちゃんとはさみを入れてもらったのに、それでも歩いていくしかないのか。最終部分は「はさみの音に消されて/わたしたちの怒號はとどかない」
このように、銅版画などに比して柔らかいエッジの木版画の図柄が理屈詰めではない世界を現出させ、そこに妙にねじれた展開を見せる言葉が絡みついている。両者の持たれ具合がなんとも心地よい1冊だった。
まずは2012年の「現代詩手帖」に連載されていた「鉄塔王国の恐怖」。
これは毎回見開き4頁に宇田川の版画が縦横無尽にひろがり、そこに廿楽の言葉が踊りまくる、といった体のものだった。
「探偵詩編」という副題が付けられており、江戸川乱歩の怪人二十面相を(一応は)題材にしている。しかしもちろんそんな題材を軽々と乗り越えて夜空を飛びまわっている頁ばかりなのだ。絵と言葉が一体となった紙面構成の作品なので、その一部分を切り取っての紹介はその魅力を損ねてしまう。これ以上の紹介が不可能であることが残念でもある。
各頁の言葉は欄外にまではみ出ており、たとえば「影男」の頁の淵に書かれていたのは、
【相談】朝、鏡に自分が半分しか映りません。病氣ですか。(職業・少年)
【答え】大丈夫。ぜんぜん映らない人もいます。
(註:原文では【相談】と【答え】は1行に印刷されている)
後半の53編からなる「うだがわ草紙」は、宇田川の版画に廿楽が詩を付けるというスタイルで作られたとのこと。1頁の上半分に版画、下半分に12行~18行の詩が載っている。ここでも二人の作品が互いに寄り添ったり反発し合ったりしているようで面白い。
たとえば「切符のかけら」の版画は、パチンパチンと厚紙の切符を切っていた切符鋏と切り取られて散らばっている切符屑。添えられた詩は、「死んでいるのは古いひとばかり/だから切符がいるのです」とはじまる。
切られた形が
それぞれのたましいの寫眞です
(なんてもちろん冗談)
実をいうと電車はありません
古いひとたちは歩いていきなさい
古いというだけで死んでからもなんだか理不尽な扱いを受けているようだ。切符にちゃんとはさみを入れてもらったのに、それでも歩いていくしかないのか。最終部分は「はさみの音に消されて/わたしたちの怒號はとどかない」
このように、銅版画などに比して柔らかいエッジの木版画の図柄が理屈詰めではない世界を現出させ、そこに妙にねじれた展開を見せる言葉が絡みついている。両者の持たれ具合がなんとも心地よい1冊だった。
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