第3詩集。詩集タイトルには「1994ー2021」と添えられている。28年間の作品が収められていることになる。139頁に19編。
作品の言葉は重く、その詩行をたどる足取りも一歩ごとに痛みを伴うもののように感じられる。
「熟柿」でも、何かに手遅れになった人は痺れた舌で言い訳をし、「病葉の穴めがけて投身」していく。それは記述している話者に起こることの投影であるわけだ。
路上にて赤いカンナが咲く
熟柿によく似た古い傷だ
門切りの謝辞や思いつきの罵詈
叫びも古びた宣言もやがて尽きる
側溝の乾いた泥の底で
通用しない符丁を探して
言葉を知らない蛾がさ迷う
「悪い夢」を見て、「悪い汚れ」が指先につく。それでも、どこまでも一人でこの世界に向きあっている。少しでも気を許せばすぐに崩れ落ちてしまいそうな緊張を強いられつづけている。こうして書くことがそれを支える力にもなっているのだろう。
詩集後半の「苔暮し」「しぇのひと」になると作品の印象が変化してくる。かつての日々のマスコミ文化にあったものを題材にして、泡沫のようにあらわれては消えていった文言を取り入れたり、駄洒落を駆使している。一人だけだった世界で、せめてもの仲間になるものを見つけようとしているのだろう。
最後に置かれた「さよならタヴァーリシ」はその最たるもので、32頁に及ぶ長編詩、16節から成る。猥雑ともいえる作品世界が作り上げられており、たとえば、水ノ江滝子は「宍戸錠とあしたのジョーでは/どちらが大阪城でしょうか」と出題し、「残り少ない余生を/ちびりちびりとぬる燗で飲み干す」ときのつまみは「炙ったイカで」はないのだ。「ゆやーんゆよーん/揶揄するよん」と詩人チューヤンも「ぶらんこで右と左に揺れながら」登場する。どれだけの広い世界を取りこむことができるかと、自己の制約を解き放っているようだ。しかし、そうした日々の”同志”にも別れを告げなくてはならないときに来ているのだろうか。
作品の言葉は重く、その詩行をたどる足取りも一歩ごとに痛みを伴うもののように感じられる。
「熟柿」でも、何かに手遅れになった人は痺れた舌で言い訳をし、「病葉の穴めがけて投身」していく。それは記述している話者に起こることの投影であるわけだ。
路上にて赤いカンナが咲く
熟柿によく似た古い傷だ
門切りの謝辞や思いつきの罵詈
叫びも古びた宣言もやがて尽きる
側溝の乾いた泥の底で
通用しない符丁を探して
言葉を知らない蛾がさ迷う
「悪い夢」を見て、「悪い汚れ」が指先につく。それでも、どこまでも一人でこの世界に向きあっている。少しでも気を許せばすぐに崩れ落ちてしまいそうな緊張を強いられつづけている。こうして書くことがそれを支える力にもなっているのだろう。
詩集後半の「苔暮し」「しぇのひと」になると作品の印象が変化してくる。かつての日々のマスコミ文化にあったものを題材にして、泡沫のようにあらわれては消えていった文言を取り入れたり、駄洒落を駆使している。一人だけだった世界で、せめてもの仲間になるものを見つけようとしているのだろう。
最後に置かれた「さよならタヴァーリシ」はその最たるもので、32頁に及ぶ長編詩、16節から成る。猥雑ともいえる作品世界が作り上げられており、たとえば、水ノ江滝子は「宍戸錠とあしたのジョーでは/どちらが大阪城でしょうか」と出題し、「残り少ない余生を/ちびりちびりとぬる燗で飲み干す」ときのつまみは「炙ったイカで」はないのだ。「ゆやーんゆよーん/揶揄するよん」と詩人チューヤンも「ぶらんこで右と左に揺れながら」登場する。どれだけの広い世界を取りこむことができるかと、自己の制約を解き放っているようだ。しかし、そうした日々の”同志”にも別れを告げなくてはならないときに来ているのだろうか。
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