第4詩集。B6版の90頁に23編を収める。カバーも帯も排してセピア系の色で統一した装幀がなんとも小粋である。
作者が上野から千駄木界隈、また隅田川一帯をよく散策することはSNSなどの記事で知っていた。この詩集の作品はそれらの散策での様々な光景との出会いから生まれている。作品には湯島天神とか不忍通り、清洲橋、上野公園などの地名も出てくる。
「五月」は、作者を囲む新緑の葉が猛々しいイメージで迫ってくる作品。その生々しさに立ち向かうには並々ならぬ覚悟もいるのだ。
五月の瑞々しさなどと言うな
ひとつの意志に還元されていく
留まる者などどこにもいないのだ
緑の意志と
対峙しながら歩いていく
繰り返す季節を失うために。
ここには作者の、単に散策という言葉ではあらわせないような、季節の風景を歩く意志がある。季節は繰り返されても、その中を歩く者は時の向こうへ過ぎていこうとしている。
「蜉蝣の」は、「ほどけていく豊かさにも/纏わる毒にも//重さというものがない。」と始まる。この作品には具体的な風景の描写はなく、ただ街を歩く者の意識を確かめている。今、歩いている私は、昨日も歩き明日も歩くであろう私とは何故異なるのだろうと問い直してもいるようだ。それは夕焼けだんだんの辺りでだったのかも知れないと勝手に思ったりする。
蜉蝣のわずかな
存在のように
今は現実と狡猾の狭間を浮遊する。
詩集冒頭に「映写機」という作品が置かれている。そのなかに「時間の狭間で/小刻みに震える一瞬がある/ふと隠れながら/自らを脱ぐ。」という一節がある。街を歩く自分を少し離れて映像として捉えている作者がおり、その残像が結実した詩集であった。
この詩集と同時にエッセイ集「遊牧亭散策記」も送られてきた。本詩集の光景が作者の心で捉えたものであるのに対して、エッセイ集のそれは目と耳で捉えたものとなっている。合わせて読むことによって世界は何倍もの奥行きを持つものとなる。
作者が上野から千駄木界隈、また隅田川一帯をよく散策することはSNSなどの記事で知っていた。この詩集の作品はそれらの散策での様々な光景との出会いから生まれている。作品には湯島天神とか不忍通り、清洲橋、上野公園などの地名も出てくる。
「五月」は、作者を囲む新緑の葉が猛々しいイメージで迫ってくる作品。その生々しさに立ち向かうには並々ならぬ覚悟もいるのだ。
五月の瑞々しさなどと言うな
ひとつの意志に還元されていく
留まる者などどこにもいないのだ
緑の意志と
対峙しながら歩いていく
繰り返す季節を失うために。
ここには作者の、単に散策という言葉ではあらわせないような、季節の風景を歩く意志がある。季節は繰り返されても、その中を歩く者は時の向こうへ過ぎていこうとしている。
「蜉蝣の」は、「ほどけていく豊かさにも/纏わる毒にも//重さというものがない。」と始まる。この作品には具体的な風景の描写はなく、ただ街を歩く者の意識を確かめている。今、歩いている私は、昨日も歩き明日も歩くであろう私とは何故異なるのだろうと問い直してもいるようだ。それは夕焼けだんだんの辺りでだったのかも知れないと勝手に思ったりする。
蜉蝣のわずかな
存在のように
今は現実と狡猾の狭間を浮遊する。
詩集冒頭に「映写機」という作品が置かれている。そのなかに「時間の狭間で/小刻みに震える一瞬がある/ふと隠れながら/自らを脱ぐ。」という一節がある。街を歩く自分を少し離れて映像として捉えている作者がおり、その残像が結実した詩集であった。
この詩集と同時にエッセイ集「遊牧亭散策記」も送られてきた。本詩集の光景が作者の心で捉えたものであるのに対して、エッセイ集のそれは目と耳で捉えたものとなっている。合わせて読むことによって世界は何倍もの奥行きを持つものとなる。