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詩集「鳥をさがして」 漆原正雄 (2021/03) 私家版

2021-03-29 11:11:47 | 詩集
 第2詩集。65頁。Ⅰ章に行分け詩8編、Ⅱ章に散文詩(窓のかたちをした詩編、としている)14編、そして最後に11頁に及ぶ長編散文詩を置いている。

 「白線まで」。他者との繋がりを求めようとすると、通り過ぎるものとの接触の危険を遠ざけるために「白線の内側までお下がりください」と言われてしまう。この感覚の捉え方が巧みだ。最終連は、

   飼い慣らすように水道の蛇口をひねる、それから
   あどけないコップの行方を捜す、首を曲げて仮死を洗う
   予想どおりゆりちゃんの背中にもあった、もう下がれない、と思った

いつもぎりぎりのところまで下がってしまっているのかもしれない。そこで踏みとどまらなければ、仮死状態はいつまでも払拭できないのだろう。視覚、聴覚、そして触覚で捉えられたものが丹念に描写され、そこから自分の奥に生じてくるものを形づくっている。こうした模索の軌跡こそが意味を持つのだろうと考えたりもする。

 「出来の悪い被写体」。”被写体”という意識は、他者にとっての存在がどのようなものかということだろう。電車の揺れのなかで、話者は彼を被写体として捉える。視覚で捉え客観的に描写する行為には、あくまでも彼が他者であるという認識がある。それこそ”白線”で区切られている関係であり、「乗客はみな一様に、水平に浸されている、ということ」だったりするわけだ。

   私もまた、しきりにうごめく人影の重なりのなかで、
   誰もが嵌め殺しだと、出来の悪い被写体なんだと、
   日々何かしら不安と軋みを抱えながら、
   電車の揺れに身をゆだねている、この、どうしようもなさ

 自分もまた他者にとっては被写体であるとの認識が、話者をかなり辛い地点に連れて行っている。

 最後に置かれた長編詩「鳥をさがして」は、己の中にあるものを丹念に取り出している独白体の作品。途中に挟み込まれるゴシック体で表記された2~3行の部分では、そんな己を他者として観ている。己の中にいる鳥は何を囀り、何をもたらすのだろうか。読みごたえのある作品だった。
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