瀬崎祐の本棚

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詩集「ダンスする食う寝る」 山崎修平 (2020/06) 思潮社

2020-07-03 20:57:08 | 詩集
 92頁に25編を収める。
 作品タイトルのある頁は黒色で文字は白抜き、それ以外の頁は白地に黒色文字である。作品世界の始まりがどことなく物々しい感じとなっている。それがこの詩集の雰囲気に続いている。

 この詩集では作者はこれでもかと言葉を連ねてくる。作者は読者を信用していないのではないかと思えてしまうほどである。というよりも、読者のことなど気にかけられないような時点で作者は言葉を発している、といった方がよいのだろう。
 たとえば作品「果実の瞬間」は、「百の花の挫折さえ許される瞬間に僕は触れる」と始まる。君やお前たち、あなたと向きあって、そこに街が生まれてくる。

   そのときだ
   確かに約束した通り情けないほどのひかりの束の先に
   正面から少しずれて立っている人がけったいな音を鳴らしながら
   もう、それだけで良いのだしそれで何が許されるというのだろう
   おめでとう
   俺たちはおそらく最低なまま昼下がりにはちゃんと帰る

 自己の外側に見えるもの、聞こえるものを描写して、自己の内側にあるものに結びつけていく。しかし、その外部描写のように思える部分までも、実は作者の内部に構築されたものであるのだろう。このように、形になることを拒絶しているものをどのように言葉で捉えて変容させていくのか。前詩集「ロックンロールは死んだらしいよ」の感想で私は、責任の所在などふりすてた自由さ、軽さがある、と書いたが、この詩集には責任を引き受けてしまった重さがあった。

 前半に収められている「直前」。この詩集には100行を超える長いものもあるのだが、この「直前」は1連14行の短い作品である。僕らは円型の広場にいるようで「言葉の通じないものたちは/拾い集めるようにしてひかりを目指した」のである。そして「ねじ曲げられた真実が自らを取り戻そうとする音を出す」のだ。

   汽車の音、沸騰の音、なにか逆流する音をけたたましく鳴らして
   隊列から外れてゆく9thのような複雑な音の響き
   雨上がりの水たまりの濁り
   それこそが僕の言葉になっている

 作品のかなりの部分を引用したが、この作品では言葉は切り詰められていて、緊張感が持続している。余分な方向にはみ出すものもない。言葉として音を取り出すイメージにも確かなものがあった。
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