瀬崎祐の本棚

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詩誌「妃」 24号 (2022/09) 東京 

2022-09-16 23:01:41 | 「か行」で始まる詩誌
B5版、137頁に17人の詩、4編の書評を載せる。

細田傳造は4編を乗せているが、その中から「土管」。
少年だった日に、原っぱの土管に青大将が入っていたのである。俺は棒で突っついてどかすとそこで昼寝をした。すると今度は、色の悪い顔をした男と女に「おれらが使う出て行け」とどかされたのだ。今、俺は「あの日の青大将はもう生きていないだろう」「すまないことした」と思うのである。それだけのことなのだが、細田の面目躍如は、それに続く最終連である。

   あの日の
   熾盛(さかり)のついてたアベックはどうかな
   百歳ちかいなふたりとも
   生きていねえだろう
   ざまあかんかん

年月が過ぎて自らも老いた今の、青大将に対する優しい気持ちと、それと拮抗するような毒舌ぶりがなんとも小気味よい。これだから細田の詩を読むのは楽しい。

田中庸介の「彦根」は160行に及ぶ作品。
小中高校生の詩のワークショップのために彦根を訪れた話者は、彦根駅が似ていた昔の武蔵境を思い出す。話者が小学生だったときの先生の話、そして彦根城の裏鬼門の多景島、そこにあるお寺さんの話。この作品は一部分だけを紹介してその魅力が伝わるようなものではない(どの作品も本当はそうなのけれど)。作品全体の大きなうねりを感じて読み通さないと、作品に向き合うことはできないのだ。したがって次の引用にはほとんど意味がないことをお断りしておく。

   迷う人たちの背後に後光が射すように
   多景島に集う
   島たちの肩に日が射している
   住職は毎日、船で島の寺に通ってくる。

   そしてあっという間に人生の時間が過ぎた。

詩の実作活動では何が伝えられるのか、小学生だった話者は何を伝えられたのか、そんな思いが絡み合った紀行詩のようにもなっている。長いこの作品を書きながら、作者はもう一度の別の旅をしたのかもしれない。

月読亭羽音の「みんみん」は、幼い頃に家族で行っていた”みんみん(珉珉、だろう)”を久しぶりに訪れる作品。これも160行あまりの作品だが軽快に読むことができる。作者はジンギスカン定食で決まりだったようだが、学生時代の私(瀬崎)はレバニラ炒めと餃子だったな。
コメント
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