<中臣印達神社 なかとみいたてじんじゃ>
『播磨国風土記』に記される、
「アシハラシコヲが丘(山)の上で食事をした」
という行動は、アメノヒボコより先に
「国占め」を行うためだったといわれています。
「国占め」とは、その土地が自分のもの
であることを宣言する「政治的な行為」でして、
古代の首長層は定期的にこのような儀礼を執り行い、
支配関係の強化を図っていました。
ちなみに、アシハラシコヲが食事をした粒丘の上には、
その昔、粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)
が鎮座していたそうで、粒丘(中臣山)のあたりでは、
今でも飯粒にも似た小さな石英粒が
たくさん見つかっているのだとか……。
また、「神が●●をこぼした」「天皇が●●を落とした」など、
「何かをこぼす」「何かを落とす」という表現は、
その土地を支配したことを示す文言だと聞きます。
『播磨国風土記』の中に、このような神々や天皇による
「落とし物」の伝承が散見されることを踏まえれば、
この地が古くから「闘争の場」「政治的な要所」
であったことは確かなのでしょう。