桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

礼文島・花の島⑰

2005-04-06 21:51:50 | 旅行記
24時間コースを歩き終わった。これで、旅の目的を全部果たすことができた。本当なら、このままもう3泊星観荘に泊まりたかった。でも、明日からは団体の予約が入っているとのことで、泊まることができない。実に残念でならない。でも、礼文を満喫できた。ご飯も美味しかったから、二重の満腹感を感じていたと言っていい。

風呂から上がって、皆といろいろ話したが、やはり夢の中にいるようで、ボーっとしていたらしい。どんな話をしていたか、全然覚えていない。覚えているとすれば、その夜の夕食にイカリングのフライが出たこと、去年知り合った人達に絵はがきを書くために、結局1時頃まで起きていて、彦さんに「疲れてるんだから早く寝ろよ。」と言われたことくらいである。

翌朝。同室のOさんから「いやあ、24時間コースに行く前の夜は何でもなかったけど、夕べのイビキはすごかったよ。」と言われてしまった。普段はイビキをかかないので、相当の疲れだったのだろう。朝食後、見送りツアーに行ったらしいのだが、写真もなく、全く記憶がない。

朝起きて気付いたのが、足首の痛みだった。足首を見てみてびっくりした。何と、くるぶしが見えないくらいに足首が腫れ上がっていたのである。無理もない。24時間コースを、ただ長時間歩く程度のことに考えていた私は、トレッキングシューズでなく、普通のスニーカーで歩いてしまったのである。くるぶしの腫れは、そのことに起因するものであると思われた。ちなみにその腫れは、1ヶ月もの間引かなかったのである。24時間コースをスニーカーで歩いたことによるダメージはそれほど大きかったのである。

この日は豊富のあしたの城に移動するだけだったので、昼過ぎの便で出発することになっていた。見送りから帰ると、私は久々に就職試験の問題集など開いた。1時間ほど勉強した後、彦さんが「お願いがあるんだけど、いいかなぁ。」と言ってきた。聞けば、壁紙を張り替えたので、これまで玄関に貼ってあった「ようこそ北の国へ」を書いた紙も新しいものに代えたいのだが、君が書道をやっていることを知ったので、書いてもらえないだろうか、ついては道具は亡くなった父のものがあるのでそれを使ってもらいたい、紙も用意してある、とのことだった。

「ようこそ北の国へ」は、脚本家・倉本聡が富良野市の広報誌に寄せた文章で、北を旅する人を迎える人々の心の有り様を綴った、まさに星観荘のような宿の玄関を飾るにふさわしい言葉である。彦さんがいたく気に入っている言葉だという。私は今回星観荘で楽しい思いをさせてもらったお礼に、書くことを快諾した。

彦さんのお父さんの書道用具は、かなり年季の入ったものだった。墨も硯もありふれたものだっったが、筆は上等のもののように思われた。穂先がよく利いて、鋭い線が引ける。墨を磨りながら、構想をまとめる。模造紙に横書きの長文で、かなり書きにくい形式である。しかも、誰にでも読めるものでなければならない。紙は2枚しかない。いざ書き始めると、初めはかなり慎重になったが、次第に気楽に筆を運べた。皆がまわりでずっと見ていたが、ほとんど気にならなかった。それより、私が普通のペンで書くのと同じように筆で文字を書いていくのが珍しく思えているようであった。

2枚書き、結局後に書いた方のものを掲示することになった。その後、皆が見ている前で24時間完歩記念の寄せ書きを贈呈された。これは嬉しかった。夕べ一緒だった人が一言ずつ言葉を寄せてくれている。しかもヘルパーのえみりさんによって美しく彩色されている。出発前に力をもらい、ゴールして祝福されただけでも嬉しかったのに、この寄せ書きは嬉しさを倍増させてくれた気がした。

そんなことをしているうちに昼時になった。双葉食堂という食堂からお昼を取ってくれるという。味噌ラーメンとチャーハンが美味しいとのことだったので、言われるがままに注文した(「ようこそ北の国へ」を書いた謝礼に、ご馳走してくれるとのことだったので)。やがて届けられたラーメンとチャーハンは、とても美味しかった。チャーハンには、ツブ貝が入っていた。満腹になり、いよいよ出発となった。Kさん夫妻と一緒の出発だった。皆も見送りに来てくれるという。

フェリーターミナルに着いてみると、様子が変である。たくさんの背広を着た人達が並んでいる。いつもなら地面に横になって写真に収まる”儀式”を行う場所に、背広姿の人達が100人ほど並んでいる。一種異様な光景である。フェリーのデッキには年配の夫婦だけがおり、スーツ軍団から手を振られている。話の様子から、どうやら、引退した前礼文町長が島を離れるのを、役場職員一同が見送りに来たようなのである。

下々の人間である私たちは、仕方がないので、握手とハイタッチをして別れた。彦さん達はターミナルの2階に上り、そのバルコニーから見送ってくれることになった。

フェリーが出航すると、大量の紙テープがフェリーから下ろされた。見送りに来た人全員と、前町長夫妻とが、テープで結ばれているのである。それはそれで壮観であった。しかし、下々の私たちは、特に私などは、本当に後ろ髪引かれる思いで島を離れようとしているのに、バルコニーから遠く手を振られているだけなのは、何ともやりきれない感じがした。最高に楽しい時間を過ごせた島を、こんな中途半端な感じで離れなければならないのは、ちょっと寂しかった。



あれから今日まで、12年の月日が流れた。その間、私は無事就職試験を突破し、仕事に明け暮れる日々である。そして、毎年、星観荘を訪れている。その年の秋には48時間コースを歩いた。また3年前には2度目の24時間コースを、今度は15人という大人数で歩いた。「ようこそ北の国へ」も、星観荘の移転新築に伴い、彦さんの求めに応じて新しいものを書き、今度はちゃんと額に入れて星観荘に掲げてもらってある(倉本聡が書いた書だと勘違いしてくれる人もいるそうだ)。

あの時贈った「観星」と、あの時書いた「ようこそ北の国へ」は、今でも旧星観荘に掲げてある。

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