はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

榛南の山城と高根山

2016-02-19 11:34:27 | ウォーキング
歩行記録                                                              H28-2-15(月)
歩行時間:9時間05分   休憩時間:1時間05分   延時間:10時間10分
出発時刻:7時10分     到着時刻:17時20分
歩  数: 49、953歩(推定距離35.5km)    GPS距離35.6km
行程
 掛川駅 1:15> 横地城趾入口 1:50> 横地城趾出口 1:05> 一勝間田城入口 0:25> 勝間田城出口 1:00> 地蔵峠
 0:50> 高根山中腹 0:25> 地蔵峠 1:00> 誘導路開始点 1:05> はばたき橋

                       榛南の山城 (横地城址・勝間田城趾)と高根山

                                ウォーキングコース

 寺社巡りの遍路ではなく、街道歩きでもないウォーキングは、何か目的が無いと歩く気が湧いてこない。今回このコースを歩く
切っ掛けになったのは、島田ハイキングクラブの会報 “やまびこ” に記載されていた 「静岡の一等三角点」 の文中に
 「高根山の山頂には一等三角点と県内にはここだけという天測点が埋設されている」 とあるのを読み、急に好奇心が湧いた。
これまで一等三角点は見た事はあるが、 “天測点” は聞いたことも無ければ見た事もない。これは話のタネに見に行かなけりゃぁ
と、出かけることにした。
 とは言え標高150mの高根山だけが目的では面白くなさすぎだと、かねてから気になっていた横地城址と勝間田城址も一緒に
回る約33kmのウォーキングコースを設定した。

 
              菊川堤防から粟ヶ岳                           菊川文化会館アエル

  観歩しながらのウォーキングで歩行距離が33kmなら概ね10時間もあれば十分だろうと、始発電車はやめて菊川駅に7時頃
着く電車に乗った。(年寄りは朝が強いと言われるけど、私はどうもまだ年寄りではないようです)

 横地城址付近は過去何度も歩いているので、城趾入口の看板のある場所までは気楽に歩ける。
途中渡った菊川から粟ヶ岳の “茶” の字が見えていた。さらに歩いていくと西洋のお城のような建物が見えてきた。
窓が極端に少ないので、これでノッペラ坊の建物ならオーム真理教のサティアンのような感じだ。でもここは塔のような凹凸が
幾つもあるのでシャトーに見えなくもない。
生憎建物の裏を歩いていて何の施設かわからなかったので家に帰り調べてみると、菊川市文化会館アエルだった。
そうだろうな。これだけの規模で、これだけユニークな建物は地方の民間では無理だろう。失敗しても個人に実害の無い役所だから
こそ建設可能な建物ともいえる。尤もそうして文化は発展していくのだろうが。

                             横地氏の豆知識
     
                                  横地城趾案内看板
 横地城に着く前に横地氏の豆知識を。
・前九年の役で源(八幡太郎)義家が奥州に安倍氏討伐に向かう途中、長雨のため遠州見附(現磐田市)に滞在した。
その折、遠州相良荘平田城主の娘との間に男子が誕生すると、その所領として城飼郡と榛原郡の大部分を与え横地村に住み、
横地と号するのを許した。これにより横地家初代当主・横地太郎家長が誕生した。
・3代太郎長宗は源義朝(知多野田大坊に墓所)に従い、平治の乱で平家に敗れ横地に隠居する。
・4代太郎長重は源頼朝の挙兵に応じ、平家追討では義経に従い、屋島、壇ノ浦で戦功をあげる。
・10代太郎家長(為長)遠州守護今川に従い都にに入り各地を転戦する。
・横地(金寿)城を築城した15代太郎(四郎)秀国の時代までに、横地氏の支族は東遠の各地に拡がり、勝間田城(牧之原市)の
勝間田氏、新野城(新御前崎市)の新野氏、西郷氏、石谷氏(掛川市)、内田氏(菊川市)等がいた。
中でも勝間田氏との関係は強く、初代横地家長の次子が勝間田氏を創設したため、横地氏草創から滅亡に至るまで常に兄弟の
如く行を共にしている。

 だが横地城が築城された頃から横地氏は滅亡の道を辿っていく。その過程には幾つかの説があり、まずは横地氏末裔の説から
 「東海地方にあっては今川氏が駿遠の守護としてその支配体制を固め、横地氏も遠州今川氏と表裏一体のような関係を築いたが、
遠江の守護職が斯波氏の手に移り、今川氏は駿河に後退して遠州今川氏も堀越氏を称して振わ無くなっていった。
寛正年間に入り遠州今川の見附城(磐田市)を斯波氏の家臣狩野が横領すると、横地・勝間田氏は狩野一族を月余に亘って攻め
滅した。この事件で横地・勝間田の勢力も中部遠州に伸びることとなった。
 その後、応仁の乱が勃発すると戦いは地方に波及し、遠江の地も今川、斯波派の争乱の巷となった。京にいた今川義忠は将軍の
命により、遠州の治安維持のため駿河に戻ることになったが、斯波氏側の抵抗にあい中々駿河には戻れないでいた。

 一方横地・勝間田氏は自立の好機と斯波氏を擁して西進、見附城を落としていた。ようやく駿河に戻った義忠は、陣容を整え
五百余騎を率いて横地域に来攻、昼夜の別なく七日の間攻めて、ついに落城させた。
城主横地四郎兵衝秀国、勝間田修理亮は城の一偶、身討原で自匁して果てたという。
帰途今川軍は南に途をとり、塩買坂にて夜中横地・勝間田の伏兵に襲撃され、義忠は流 矢に当り落命し、その従臣は殆んど討死、
その墓が残っていることから、今川方は壊滅的打撃を蒙って潰走したものであろう。
落城後横地の遺子・藤丸は居館を建て再挙を計ったがならず、子孫は城下の地に土着した。」


横地氏の末裔の説は
・横地氏は当初は守護今川家の将であったが、遠州の守護職が斯波氏に移ると次第に斯波氏側となり、最後は遠州今川の居城
見附城を落としたことで、今川の怒りを買い横地城を攻め落とされ城主は討死する。遺児の再挙はならなかったとなる。

一方ウィキペディアでは
 「横地城は今川義忠に焼き討ちされ落城。城主横地秀国が討死。遺児元国は武田信虎を頼って甲斐国へ行ったが、再興ならず」
と簡単な表記だったが、今川義忠の項ではこんな風に説明している。
 「文明8年、斯波氏に通じた横地四郎兵衛と勝間田修理亮は見付城を修復し、義忠から背いて抵抗の構えを見せた。
義忠は両名を討伐すべく、500騎を率いて出陣。勝間田城と金寿城(横地城)を囲み、両人を討ったものの、その帰途の夜 遠江
小笠郡塩買坂(現在菊川市)で横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われた。
馬上から指揮する義忠だったが、流れ矢に当たって討ち死した。なお塩見坂は金寿城から駿府へ戻る経路とは反対方向にあり、
金寿城で敗走した義忠は坂の南にあった今川方の新野城に落ち延びる途中で討たれた可能性もある。」
 となっている。

 基本的には横地氏の末裔の説と同じだが、義忠が打たれる場面では違いがある。
末裔説は横地・勝間田の残党の流れ矢、ウィキペディアでは一揆のの流れ矢となっていて、遺児のその後は地元で暮らした説と
甲斐へ落ち延びたとの違いがあった。
 しかし何よりウィキペディアで気になるのは “なお” 書きの後の 「金寿城で敗走した義忠は・・・・落ち延びる途中で討たれた」 とある
ことだ。これでは義忠の横地(金寿)城攻撃は失敗したことになってしまい、ではなぜ横地氏は滅亡したのか疑問が百出してしまう。
これは明らかにウィキペディアの誤記だと思われる。
更に 「塩見坂は金寿城から駿府へ戻る経路とは反対方向」 とあるのも疑問だが、これは後で検証する。

こうなるともう少し詳しく調べたくなり、更に遠州の古城に詳しいHPを見ると、今川と横地の関係をこう説明していた。
 「遠江では守護斯波氏が後ろ楯となり狩野氏が見付城((磐田市)を居城として中遠一帯に勢力を広げつつあった。
今川義忠は幕府から狩野氏討伐の幕命を得て、見付城の攻防戦が展開された。この戦いには横地秀国も勝間田氏と共に幕府方と
して今川の陣中にあって奮戦している。三ヵ月に及んだ攻城戦は、城主狩野が自害して終わった。
 今川の遠江侵略に危機を感じた秀国は、勝間田氏とともに斯波氏に通じて見付城を奪取して守りを固めた。それを知った義忠は、
烈火の如く怒り見付城を昼夜の別なく攻め立て、城は七日目に落ちたという。この戦闘で秀国と勝間田修理亮の両人が壮烈な討死を
遂げ、見附城が焼け落ちて終わった。手薄となっていた横地城も今川軍によって焼き払われたことであろう。

 しかし戦いはこれで終わったわけではなかった。横地・勝間田の残党は今川義忠が駿河帰陣のために塩買坂に現れたところを襲い、
不意を打たれた義忠は流れ矢を脇に受けて戦死してしまった。

 横地一族郎党は四散してそれぞれに落ち延びた。秀国の男子三人も落ち延び、一人は三河松平氏に仕えて代を重ね、十六代目を
継いだ藤丸は横地に帰農して先祖の地に住み続けた。そして落城時まだ乳呑児だった元国は追手を振り切って甲斐の武田氏に身を
寄せた。子孫は武田氏に仕え、後に徳川家康に召抱えられて旗本となった。」


 私にはこの説が一番しっくり理解できたが、それでも義忠が見附・横地・勝間田城の攻撃順序と、義忠が打たれた塩買坂の位置
関係に納得がいかない。


                            城の位置関係

 東端に位置する駿府を出陣した義忠は、どの順番で城を攻撃したか。
考えられるのは距離の近い順に勝間田、横地、見附となるが、一番防御が固く苦戦が予想される見附城攻撃を二城攻撃で疲れた
将兵を向かわせただろうか。ここは重点志向で先ずは一番重要な見附城を落とし、味方の士気を挙げ、かつ敵の気力を落とした
後で、横地・勝間田城に向かったと考えた方が妥当だと思われる。
そのとき少なくても横地秀国は見附城に出張っていたと思われる。彼とて一番重要な城が攻撃されるのを横地城でただ黙って
待っていたとは思えない。当然大将として横地城で奮戦し討死したとする方が自然だ。
そして城主を討たれた横地城は戦意を喪失し義忠の攻撃に簡単に落城してしまったのだ。これは勝間田城でも同じ事だったろう。
そうなると先に横地・勝間田城が責められ、そこで城主が “自匁して果てた” と云う末裔説とウィキペディア説は不自然になる。

 では見附城を落とした義忠は次に向かったのはどの城だろう? 横地か勝間田か。
順路から云えば横地・勝間田の順になるが、そうなると駿府に近い勝間田からわざわざ西に戻り塩買坂を通る事になる。
では見附城の次は横地を通り越して勝間田城を落城させた後に横地城に向かい、その後で塩買坂を通った説も成り立つが
でも何故か不自然に感じてしまうのですよね。

 遠州古城のHPでは、義忠が “兵五百騎を引き連れ見附城を攻撃し七日で落とした” とある見附城だが、ネットには見附城を
詳しく紹介した物が少ない。今川との三ヶ月の攻防や今回の七日の攻防、さらには今川義元の戦闘もあった筈の見付城なのに
何故だろう? しかもネットの多くは三ヶ月の攻防戦と義元の戦闘を紹介しているだけで、横地・勝間田連合軍の戦いを紹介した
ものは非常に少ない。
これは若しかして横地・勝間田連合軍の戦いの事を書いてない末裔説やウィキペディア説が正しいのではないか。と思えてきた。

 義忠は勝間田城と横地城を壊滅しただけで一旦は駿府に引き上げた。帰路は討伐が済んだばかりで勝間田勢がまだ潜んで
いる可能性のある道は避け、整備されている塩の道を通った事は十分考えられる。それが証拠に塩買坂には落城した残党が
義忠を襲ったのだから。
最後にウィキペディアでは一揆が襲撃したあるが、それは問題外だろう。武器も持たない住民が勝ち戦で意気が挙がっている
軍隊に向かって行く訳はない。結局私の考えは末裔説に近くなってしまった。


 横地城址に向かう途中 「全国横地姓のルーツ」 等と書いた看板があった。そこで “名字由来net” で調べてみた。
何時のデータか分からないが、静岡県の横地姓は県内順序で1801位で180人と少なく、その中で一番多かったのが
掛川市の70人だった。だが横地城のある菊川市は調査中で未掲載だった。これではなぁ~
 ついでに全国を見てみると横地姓の比率の多い県は、お隣の愛知県と遠く離れた島根県の2県だった。
その内の愛知県は494位で2400人で、住民の割合は不明だが三河より尾張に多いのは、三河は今川の勢力圏だった事も
関係しているのだろうか。
 島根県も見ると順位こそ653位で170人だが、その内120人は隠岐郡隠岐の島町だった。これは何を意味するのか?
まさかあんな遠くまで落ち延びて行ったとは到底思えないが、調べれば面白い結果が出るかもしれないな。
菊川市ではこれを調べ、もし横地城の横地氏と関係があるなら姉妹都市の縁を結ぶのも面白いだろう。
なんてまた勝手な妄想が湧いてきた。