はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

大崩山塊・虚空蔵山5

2013-08-07 11:40:43 | 寺社遍路
 那閉神社の境内社の一つに「須藤左門が眠る青木神社」という祠が祀られていた。そこの案内に
「戦国時代の駿河では、たびたび武田と徳川の合戦が繰返されていました。天正9(1581)年、浜当目近くの
青木の森(現サッポロビール近く)付近で、用宗(持舟)城にいる武田勢と徳川勢とで争いが起きました。
そのとき武田の武将として名高い須藤左門は、次々と徳川勢を打倒し、徳川勢の石川という将兵と槍を
あわせました。
この石川と云う武将は初陣の若者であるため、須藤には勝てるはずもなく、あっさりと組み敷かれてしまいました。
須藤は石川の首を取ろうとしたが、石川の余りの若さに故郷の息子たちの顔と重なり、そのまま背を向けたとき
後から討たれてしまいました。
 須藤を討ち取った手柄から石川家は旗本の身分に出世をしました。しかし何代後かの石川家の当主が、
駿府城に行くたびに急死をするので、須藤左門の怒りを鎮めるため石祠を造り、青木の森に祀りました。」

と紹介されている。

この話は以前「焼津の昔話」で読んだ事がある。その昔話は、ここの案内と少し違うので紹介しておきます。
「今から四百年ほど前のお話です。
天正6(1578)年から10年ごろにかけて、当目山の麓で、武田軍と徳川軍が、何回となく戦いを繰りひろげました。
そんな戦いのおり、武田の家来の中に須藤左門という強い侍さむらいがいました。この日も40騎ばかりの敵を討ちとり、
続いて石川右京という武将と戦いはじめました。
逃げる右京を青木の森に追いつめたとき、左門は木の根っこにつまづき、ドーッとばかり倒れてしまいました。
右京がこれ幸いとばかりに切りかかろうとすると、左門は、「汝、武士の情けがあるならば、われ起き上がってのちに
堂々と戦え」
と叫びました。右京はこれを聞き入れず、ついに左門を討ちとってしまいました。
右京はこの手柄により、駿府城の守りをする役につき、しばしば東海道を往来することがありました。
ところが、いつも岡部宿あたりまでくると、なにか胸さわぎがするのです。心配になって岡部宿の易者に占ってもらうと
「先に討ちとった左門の霊がたたっている。三輪石(岡部の三輪)で碑をつくり、当目の寄鼻という所に祀れば
許されるであろう。」
と言われました。
右京は、さっそく三輪石で高さ70cmぐらいの祠をつくり、寄鼻に運ぶことにしました。人夫に担がせ、青木の森まで
来たときです。不思議なことに急に祠が重くなり、一歩も進むことができなくなってしまいました。
しかたなく右京は、祠を森の中に建てることにしました。きっとここが左門の最後の地だったのでしょう。
今では青木の森もなくなってしまい、石祠も浜当目の那閉神社の境内に移されています。そして「青木さん」とよばれ、
赤ちゃんの夜泣き、ひきつけに効きめがあるということで、近くの人々がおまいりに来るようです」

どうです少し雰囲気が違いますよね。
これらの話以外にも、徳川軍が詭計を謀り、少人数で用宗城を攻めると、調子に乗った武田軍を青木の森に
おびき寄せて討ち取ったなどの話もあった。

果たしてどの話が史実か。
文政3(1820)年に駿河全郡の詳細な実地調査を繰り返し、丹念に考証した地誌「駿河記」には
「須藤が石川を組敷いたが、所以あって、彼を許しその場を去ろうとする時、不覚にも石につまずいて転んでしまった。
そこに石川がやってきて容赦なく槍で左門を討ち取ってしまった」
 と記されている。
「所以あって」の所以とは、若い石川を見て、須藤左門が故郷の子供のことを思い出したのか?
と、なると案内板と焼津の昔話を合わせれば駿河記の話に近くなるな。

 石川家は駿河加番4千石となったが、6代目、7代目と不慮、不遇の早死にをした。8代目石川右京が
「早死にするのは須藤左門の祟り」と思い込むようになり、青木の森に石宮を勧請した。  
それは1581年の戦から173年後の1754年のことだった。
更に青木の森から那閉神社に祠が移されたのは明治の初めころと云う。

 虚空蔵山の帰りに青木の森があったサッポロビールの焼津工場に行ってみた。
広い敷地の周りをグルリ歩いて行くと、工場の東側(焼津側)で150線に近い場所に神社があった。
だが神社は高い金網に仕切られた工場の中なので近くには行けない。
多分そこが須藤左門が討ち取られた所で、祠があった場所なのだろう。

 しかしその場所に立つと少し疑問が湧いてきた。ここから直線で北東1.8kmの所には花沢城。東に1kmほどの所には
当目砦があった。そのどちらも武田側の城だった。なのにその目の下の所で徳川勢にやられるとは----
調べてみると花沢城は永禄13(1570)年武田勢が今川の支城だった花沢城を攻撃し開城させている。ただその後
武田が花沢城を改修した史料はない。また当目砦は元亀元年(1570年)武田氏によって築かれたと云われている。
青木の森の戦いのあったのは、それより10年後の1581年だから、花沢城や当目砦に果たして武田軍が駐留していたか
どうかは分からない。

 

 祠の大きさが70cmとあったが実際の祠はその半分程度の大きさだったと思う。また祠が青木の森に建てられて、
この那閉神社に移されるまでの約100年以上は、風雨に晒されていたのだろうが、その割に痛みは無い。
この祠は本当に8代目石川左京が建てた祠なのだろうか?

 那閉神社の先はすぐ海岸だった。海から切立った崖の上の当目山は遠くからでも良く目立つ。
標高126mしかないのに海から立ち上がっている単独峰なので、志太平野や牧の原台地など西からは一目で判別できる。
そうそう静岡空港に最近できた石雲院展望デッキの展望写真には、大崩山塊としては高草山と虚空蔵山(当目山)の
二つの山名が書かれている。それほど小さいながらも自己主張の強い山だ。

この虚空蔵山の最初の紹介で、当目山の名前は「遠くが見えるから」遠目山=当目山と書いたが、これはこれで合って
いるようで、昔、焼津では捕鯨も行われていた古文書もあるとか。またイルカ漁の盛んだった伊豆にも近いので焼津でも
イルカ漁も行われていただろう。そのため当目山から鯨やイルカの接近を監視していた見晴小屋もあっただろう。
しかし「遠くから見える」事も確かで、それから当(遠)目山になったという説にも頷ける。
多分焼津の住民は遠くが見える当目山。近郷の住民は遠くから見えるの当目山と呼んだのだろう。

 海岸に黄色ぽい大きな岩が撤去もされずにある。大崩山塊は太古の昔に海底火山の噴火により隆起したと
読んだ事がある。火山の噴火により海底にあった玄武岩質溶岩が噴出すると、その表面は海水に急冷されて袋状になり、
ゴロゴロと枕を積み重ねたような枕状溶岩となるそうです。
でもこの黄色の岩は枕状溶岩かしら?

     

 切立った崖の横に30mほど沖に向かった突堤がある。その突堤から崖を見てみると何やら穴らしき物が見える。
あれが「御座穴」かしら? となると今立っている突堤は沖にあった「神の岩」に続く砂洲のあった場所なのか?
御座穴らしき所まではとても行けないが、崖に近づいて見ると丸い感じの岩があった。これが枕状溶岩?
これも分からない。御座穴も枕状溶岩も違うから案内表示が無いのか、それとも元々案内をする気が無いのか
一応市民税を納税している市民としては不満の一言も言いたくなる。

       

 本来ならこの海の先にある日本平の上には富士山が見えるのだが、今日は見えていない。
2時間にもならない散策だったが、色々興味を惹かれる物が多かった。これだから初めての所、知らない所に
行って見たくなるのだ。さて次は何処に行こう、近回りは大分歩き回ってしまったが。

虚空蔵山の最後に、ここ海の伝説を紹介します。

「昔、虚空蔵山で山崩れがあり香集寺の鐘が海中に落ちて失われてしまいました。そのため鐘が落ちた海を
「鐘ヶ淵」と呼び禁漁区としました。
ただ、もし1年間不漁が続いて、本当に困ったときは、大晦日に網を入れる事が許されていました。
そんな年は鐘ヶ淵に網を入れると、必ず大漁となって正月の餅代になりました。
それからはこの漁場を「餅米代」と云うようになりました」