東海道53次14回目ー2
建部大社~大津宿
建部神社-0:15-瀬田の唐橋-1:35-大津宿
日本武尊とは東海道歩いていると所々にその痕跡が残っている。この建部大社もその一つで
「伊吹山の神に敗れた日本武尊は大和に戻ろうと杖を突いて坂を上り、血を止めながら足が三重になっても歩き続けた。やがて能褒野の地で大和を懐かしみながら息が絶えた。それを知った天皇(父)は日本武尊の氏を憐れみ、建部氏を名代としてその功名を伝えんとして建部神社を建立した」らしい。
さすが歴史を感じさせる古社だけの事はある。本殿もさることながら左右に四棟づつ並んだ境内社も小さいながら趣がる。この神社が旧官幣大社で近江国一宮だというのもうなずける感じだ。
さて日本武尊のお参りは済んだ。これから瀬田の唐橋に向かうことにしよう。
建部大社拝殿と三本杉 建部大社境内社
瀬田の唐橋は建部神社から500m程度しかなくすぐ着く事が出来た。
唐橋は宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされているので楽しみしていたのだが、工事中でネットが張ってありその全容を見る事が出来なかった。唐橋というからには中国風な宝珠でも付いているのだろうか。
唐橋といえば俵籐太の百足退治が有名だが、その案内板が唐橋の東西の橋の袂に取り付けてあった。それによると
「豪傑の誉れの高い藤原秀郷は、大蛇が横たわり近寄る人もいなかった瀬田橋の大蛇を踏みつけて渡ってしまった。すると大蛇は爺さんに姿を変えて、三上山に住む大百足が夜な夜な琵琶湖に現れて、琵琶湖の魚を食い尽くしてしまい住民が困っている。しかし余りに凶暴な百足を恐れて退治出来ないでいる。話を聞いた秀郷は快く大百足退治を引き受けて矢で百足の眉間を打ち抜くと大百足は消えてしまった。
秀郷は爺さんからお礼として食べきれないほどの米俵を貰い、それ以後名前を俵籐太と名付けられた」
中々面白い話だ。話の中に出てくる三上山とは、前回歩いた石部宿で見た近江富士の事だろう。あの山を七回り半する大百足とは大きく出たものだが、七回り半という半端な数は何か意味するのだろうか? それに食べきれないほどの米俵をどうして運んだのだろうか?
ある説によると俵籐太とは田原に住む藤原家の長男で藤原秀郷の別名だとも書いてあった。米俵を貰ったから俵ではなさそうだ。
更にこの伝説の背景には、関東で起きた平将門の乱平定があるともあった。これは大百足が平将門で、その平定に効のあった藤原秀郷が別名田原(俵)だったので彼を主人にしたのではないか。
ネットに覆われた瀬田の唐橋 俵籐太の大百足退治
橋の途中から琵琶湖が見ていた。その湖の向こうには山頂が薄く白くなった山も見える。あれは比叡山なのだろうか? でも方角が違うかな? それに琵琶湖の手前に見える橋は国道1号線の瀬田大橋なのか。あのまま国1を歩き続けたらあの橋に行ってしまったのだろう。引返して良かった。
唐橋は京の都の防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。その唐橋の攻防戦の案内もあった。「壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、木曽義仲の乱、承久の乱、本能寺の変」などその度に唐橋は焼かれている。なのにまた唐橋は架けられている。
これは徳川幕府が江戸に近い、遠州より東の川に橋を架けなかった政策より、庶民の生活を優遇しているように感じる。帝は民の暮らしを見守ってくれたのだろうか。
瀬田の唐橋から琵琶湖 俵籐太の大百足退治
サー1時を過ぎた先を急ごう。
唐橋を渡ると町の中に入り、あっちに曲がったり、こっちに曲がったりで道が分かりにくくなった。今度間違えたら京都に着くのが遅くなってしまうと慎重にかつ素早く地図と通りを見比べながら進む。道々由緒のありそうな神社や寺もあるが無視、膳所(ぜぜ)城などと刻まれた石碑もあるがこれも無視して先を急ぐ。
だが「義仲寺(ぎちゅうじ)」はちょっと無視するには惜しいと中を覗き込む。
「義仲寺は、近くで討死した木曽義仲を憐れんで村人たちが義仲の墓を造って数年後、尼僧が墓の側に草庵を結び墓の供養を始めた。人が名を尋ねると「名は捨てました」と言う。後に村人は彼女が巴御前と知り、没後に草庵を「無名庵(むみょうあん)」と呼び始めた。草庵の名は巴寺、木曾塚、木曾寺と移り行き、100年後には「義仲寺」となった」
しかしこの伝説にも無理はある。巴御前は義仲亡き後は鎌倉方に捕えられたあと、頼朝の命により鎌倉武士に娶われて子をなしたとあった。
正面に見えるのは義仲の墓のようだ。ではその近くにあるのは芭蕉の墓なのか。入ろうと思ったが受付があって拝観料を取るようだ。なら止めた。見てみたいが時間と金が惜しい。このまま先を急ごう。
でも気になるなー「木曽殿と背中合せの寒さかな」の句ではないが、義仲と芭蕉の墓が背中合わせにあるなんて。しかもそれは芭蕉の遺言で実現したのだから尚更だ。
芭蕉ほどの男が、何故死後に義仲の墓の隣に埋めてくれと遺言までしたのか、その気持が理解できない。私の知らない義仲を芭蕉見ていたのだろう。
ところでこの句は以前は芭蕉の句だと思っていた。だが実際には芭蕉の友人が、芭蕉が義仲寺に滞在しているとき訪れて詠んだ句だとか。それでは「隣り合わせ」とは墓同士でない事になる。知らなかったなー。確かめと来ればよかった。
義仲寺 義仲寺境内
時間はすでに2時10分を過ぎてしまった。予定では大津の本陣跡を1時半には出発することになっているのに、すでに40分も過ぎてしまった。
歩きながら歩行手帳で水口から草津の時間を調べてみると、今日は同じ距離を歩いているのに1時間弱余計にかかっている。どうも今日はペースが遅いようだ。自分では同じように歩いているつもりでも一昨日の藤沢小田原間43kmの疲れが残っているのだろうか。しかしそんな事は言っていられない。すでに御所や二条城の見学は諦めたが、鈍行の最終列車は京都駅を7時1分発だ。それには何としても間に合わせなければ。
午後になっているのに道路脇のゴミがそのままになっている。よく見るとゴミ袋の中を新聞紙やチラシを広げて中が見えないようにしてある。なんだろうこれは?不潔なものを見せないためなのか。
私の住む焼津市では、こんなことをしたらゴミ袋を収集してくれない。再生可能の紙類はたとえ小さな紙屑でも雑紙として別に保管して月一度の収集日に出している。所変われば品変わるだろうが、リサイクル品は何処へ行ってもリサイクル品だと思うのだが。
オッと今度は軒先に粽?いや藁納豆のようなものをブル下げてある。近づいて見てみると「曳山元祖 西行櫻狸山」とある。なんだろう?
尋ねる人もいず、そのまま帰ってネットで調べてみると、ありました。これは西行櫻狸山(さいぎょうざくら たぬきやま)という大津市のお祭りだった。軒先に吊るしてあった物は、やはり粽で祭りの山車(曳山)の上から撒いたものを拾って、厄除けに軒先に吊るそうです。でも粽だから食べないのだろうか?
そして西行櫻とは、西行法師のカラクリ人形が、桜の花の中から現れた仙人と問答することをいうようです。その模様をカラクリで表現をするのかな。
また、狸山とは余りよく分からないが、山車の上の唐様の屋根の事を山と呼び、その上に狸の人形を立てるかららしいのです。何故狸かはわかりませんでしたが。
新聞紙で目隠しをしてあるごみ袋 軒先の厄除け粽
左手に滋賀県庁が現れた。大体何故滋賀と呼ぶんだろう? 調べてみると滋賀とは「石の多いところ」を意味する「シカ(石処)」に由来するという。そういえば歩いている途中にも「石山」とか「石場」と言った駅があったが、付近の山を見る限り岩山のような山は見えなかった。
また滋賀県の国名は近江国で略称は「江州(ごうしゅう)」だとか。遠江が遠州だから、こちっはきっと近江だと思っていたが外れだった。
県庁を過ぎたあたりから電信柱に東海道の表示が出てきた。前にも有ったのかどうか断言できないが、クネクネ曲がっていた道のあたりでは無かったような気がする。このような表示があるとありがたい、地図で確認しなくてもズンズン歩ける。
国道161号の京町1丁目交差点に出た。持っている地図にはこの交差点の札の辻標識を左折となっている。だが交差点名は合っているが札の辻の標識は無い。
多分ここを右折と思うのだが困ったことに、前方に直進した道にある電信柱に東海道の字が見える。
ここで間違ったら最終電車に間にあわなくなってしまう、と慎重になって交差点を横切り確認に行って見た。間違いない確かに東海道と書いてある。もう一度交差点を渡り左の電信柱を確認するが、こちらには東海道の表示は無い。
さて困った。誰かに聞いてみよう。
「済みません。東海道を歩いているのですが、どちらに行けば良いのでしょうか」
「エー分からない、意味が分からない」
「江戸時代の東海道を歩いているのですが」
「それなら向うの道だよ。表示が見えない?アハハ」と笑って走って行った。馬鹿にしているのかな?
こんな事で腹を立てても仕方ない。でもあの道に行くのは気が進まないなー。そうだ地図には本陣跡の近くに郵便局のマークがある。今度は郵便局を聞いてみよう。
すると「郵便局ならこの先にありますよ」と教えてくれたのは交差点を左折する方角だった。それなら本陣跡を確認してから方向を決めよう。
何の事は無い100mも行くと郵便局はあった。そしてその少し先に本陣跡の標識が。アー良かった。
江戸から53番目の最後の宿、大津本陣跡に2時40分着。予定より1時間40分遅れになってしまった。ここで休憩をしないで出れば1時間10分遅れで済む。それなら出るしかないな。
滋賀県庁 大津本陣跡
それにしても京町1丁目の先の東海道の標識は何だったろうか。
気になって調べてみたら、あの道は逢坂越えのもう1本の道「小関越」の道だった。そのために東海道の標識が?それなら「逢坂越」のこちら側にも標識が欲しかった。
大津市は観光場所が多く、余り金を落とさない人が歩く東海道等は力を入れないのかな?
建部大社~大津宿
建部神社-0:15-瀬田の唐橋-1:35-大津宿
日本武尊とは東海道歩いていると所々にその痕跡が残っている。この建部大社もその一つで
「伊吹山の神に敗れた日本武尊は大和に戻ろうと杖を突いて坂を上り、血を止めながら足が三重になっても歩き続けた。やがて能褒野の地で大和を懐かしみながら息が絶えた。それを知った天皇(父)は日本武尊の氏を憐れみ、建部氏を名代としてその功名を伝えんとして建部神社を建立した」らしい。
さすが歴史を感じさせる古社だけの事はある。本殿もさることながら左右に四棟づつ並んだ境内社も小さいながら趣がる。この神社が旧官幣大社で近江国一宮だというのもうなずける感じだ。
さて日本武尊のお参りは済んだ。これから瀬田の唐橋に向かうことにしよう。
建部大社拝殿と三本杉 建部大社境内社
瀬田の唐橋は建部神社から500m程度しかなくすぐ着く事が出来た。
唐橋は宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされているので楽しみしていたのだが、工事中でネットが張ってありその全容を見る事が出来なかった。唐橋というからには中国風な宝珠でも付いているのだろうか。
唐橋といえば俵籐太の百足退治が有名だが、その案内板が唐橋の東西の橋の袂に取り付けてあった。それによると
「豪傑の誉れの高い藤原秀郷は、大蛇が横たわり近寄る人もいなかった瀬田橋の大蛇を踏みつけて渡ってしまった。すると大蛇は爺さんに姿を変えて、三上山に住む大百足が夜な夜な琵琶湖に現れて、琵琶湖の魚を食い尽くしてしまい住民が困っている。しかし余りに凶暴な百足を恐れて退治出来ないでいる。話を聞いた秀郷は快く大百足退治を引き受けて矢で百足の眉間を打ち抜くと大百足は消えてしまった。
秀郷は爺さんからお礼として食べきれないほどの米俵を貰い、それ以後名前を俵籐太と名付けられた」
中々面白い話だ。話の中に出てくる三上山とは、前回歩いた石部宿で見た近江富士の事だろう。あの山を七回り半する大百足とは大きく出たものだが、七回り半という半端な数は何か意味するのだろうか? それに食べきれないほどの米俵をどうして運んだのだろうか?
ある説によると俵籐太とは田原に住む藤原家の長男で藤原秀郷の別名だとも書いてあった。米俵を貰ったから俵ではなさそうだ。
更にこの伝説の背景には、関東で起きた平将門の乱平定があるともあった。これは大百足が平将門で、その平定に効のあった藤原秀郷が別名田原(俵)だったので彼を主人にしたのではないか。
ネットに覆われた瀬田の唐橋 俵籐太の大百足退治
橋の途中から琵琶湖が見ていた。その湖の向こうには山頂が薄く白くなった山も見える。あれは比叡山なのだろうか? でも方角が違うかな? それに琵琶湖の手前に見える橋は国道1号線の瀬田大橋なのか。あのまま国1を歩き続けたらあの橋に行ってしまったのだろう。引返して良かった。
唐橋は京の都の防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。その唐橋の攻防戦の案内もあった。「壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、木曽義仲の乱、承久の乱、本能寺の変」などその度に唐橋は焼かれている。なのにまた唐橋は架けられている。
これは徳川幕府が江戸に近い、遠州より東の川に橋を架けなかった政策より、庶民の生活を優遇しているように感じる。帝は民の暮らしを見守ってくれたのだろうか。
瀬田の唐橋から琵琶湖 俵籐太の大百足退治
サー1時を過ぎた先を急ごう。
唐橋を渡ると町の中に入り、あっちに曲がったり、こっちに曲がったりで道が分かりにくくなった。今度間違えたら京都に着くのが遅くなってしまうと慎重にかつ素早く地図と通りを見比べながら進む。道々由緒のありそうな神社や寺もあるが無視、膳所(ぜぜ)城などと刻まれた石碑もあるがこれも無視して先を急ぐ。
だが「義仲寺(ぎちゅうじ)」はちょっと無視するには惜しいと中を覗き込む。
「義仲寺は、近くで討死した木曽義仲を憐れんで村人たちが義仲の墓を造って数年後、尼僧が墓の側に草庵を結び墓の供養を始めた。人が名を尋ねると「名は捨てました」と言う。後に村人は彼女が巴御前と知り、没後に草庵を「無名庵(むみょうあん)」と呼び始めた。草庵の名は巴寺、木曾塚、木曾寺と移り行き、100年後には「義仲寺」となった」
しかしこの伝説にも無理はある。巴御前は義仲亡き後は鎌倉方に捕えられたあと、頼朝の命により鎌倉武士に娶われて子をなしたとあった。
正面に見えるのは義仲の墓のようだ。ではその近くにあるのは芭蕉の墓なのか。入ろうと思ったが受付があって拝観料を取るようだ。なら止めた。見てみたいが時間と金が惜しい。このまま先を急ごう。
でも気になるなー「木曽殿と背中合せの寒さかな」の句ではないが、義仲と芭蕉の墓が背中合わせにあるなんて。しかもそれは芭蕉の遺言で実現したのだから尚更だ。
芭蕉ほどの男が、何故死後に義仲の墓の隣に埋めてくれと遺言までしたのか、その気持が理解できない。私の知らない義仲を芭蕉見ていたのだろう。
ところでこの句は以前は芭蕉の句だと思っていた。だが実際には芭蕉の友人が、芭蕉が義仲寺に滞在しているとき訪れて詠んだ句だとか。それでは「隣り合わせ」とは墓同士でない事になる。知らなかったなー。確かめと来ればよかった。
義仲寺 義仲寺境内
時間はすでに2時10分を過ぎてしまった。予定では大津の本陣跡を1時半には出発することになっているのに、すでに40分も過ぎてしまった。
歩きながら歩行手帳で水口から草津の時間を調べてみると、今日は同じ距離を歩いているのに1時間弱余計にかかっている。どうも今日はペースが遅いようだ。自分では同じように歩いているつもりでも一昨日の藤沢小田原間43kmの疲れが残っているのだろうか。しかしそんな事は言っていられない。すでに御所や二条城の見学は諦めたが、鈍行の最終列車は京都駅を7時1分発だ。それには何としても間に合わせなければ。
午後になっているのに道路脇のゴミがそのままになっている。よく見るとゴミ袋の中を新聞紙やチラシを広げて中が見えないようにしてある。なんだろうこれは?不潔なものを見せないためなのか。
私の住む焼津市では、こんなことをしたらゴミ袋を収集してくれない。再生可能の紙類はたとえ小さな紙屑でも雑紙として別に保管して月一度の収集日に出している。所変われば品変わるだろうが、リサイクル品は何処へ行ってもリサイクル品だと思うのだが。
オッと今度は軒先に粽?いや藁納豆のようなものをブル下げてある。近づいて見てみると「曳山元祖 西行櫻狸山」とある。なんだろう?
尋ねる人もいず、そのまま帰ってネットで調べてみると、ありました。これは西行櫻狸山(さいぎょうざくら たぬきやま)という大津市のお祭りだった。軒先に吊るしてあった物は、やはり粽で祭りの山車(曳山)の上から撒いたものを拾って、厄除けに軒先に吊るそうです。でも粽だから食べないのだろうか?
そして西行櫻とは、西行法師のカラクリ人形が、桜の花の中から現れた仙人と問答することをいうようです。その模様をカラクリで表現をするのかな。
また、狸山とは余りよく分からないが、山車の上の唐様の屋根の事を山と呼び、その上に狸の人形を立てるかららしいのです。何故狸かはわかりませんでしたが。
新聞紙で目隠しをしてあるごみ袋 軒先の厄除け粽
左手に滋賀県庁が現れた。大体何故滋賀と呼ぶんだろう? 調べてみると滋賀とは「石の多いところ」を意味する「シカ(石処)」に由来するという。そういえば歩いている途中にも「石山」とか「石場」と言った駅があったが、付近の山を見る限り岩山のような山は見えなかった。
また滋賀県の国名は近江国で略称は「江州(ごうしゅう)」だとか。遠江が遠州だから、こちっはきっと近江だと思っていたが外れだった。
県庁を過ぎたあたりから電信柱に東海道の表示が出てきた。前にも有ったのかどうか断言できないが、クネクネ曲がっていた道のあたりでは無かったような気がする。このような表示があるとありがたい、地図で確認しなくてもズンズン歩ける。
国道161号の京町1丁目交差点に出た。持っている地図にはこの交差点の札の辻標識を左折となっている。だが交差点名は合っているが札の辻の標識は無い。
多分ここを右折と思うのだが困ったことに、前方に直進した道にある電信柱に東海道の字が見える。
ここで間違ったら最終電車に間にあわなくなってしまう、と慎重になって交差点を横切り確認に行って見た。間違いない確かに東海道と書いてある。もう一度交差点を渡り左の電信柱を確認するが、こちらには東海道の表示は無い。
さて困った。誰かに聞いてみよう。
「済みません。東海道を歩いているのですが、どちらに行けば良いのでしょうか」
「エー分からない、意味が分からない」
「江戸時代の東海道を歩いているのですが」
「それなら向うの道だよ。表示が見えない?アハハ」と笑って走って行った。馬鹿にしているのかな?
こんな事で腹を立てても仕方ない。でもあの道に行くのは気が進まないなー。そうだ地図には本陣跡の近くに郵便局のマークがある。今度は郵便局を聞いてみよう。
すると「郵便局ならこの先にありますよ」と教えてくれたのは交差点を左折する方角だった。それなら本陣跡を確認してから方向を決めよう。
何の事は無い100mも行くと郵便局はあった。そしてその少し先に本陣跡の標識が。アー良かった。
江戸から53番目の最後の宿、大津本陣跡に2時40分着。予定より1時間40分遅れになってしまった。ここで休憩をしないで出れば1時間10分遅れで済む。それなら出るしかないな。
滋賀県庁 大津本陣跡
それにしても京町1丁目の先の東海道の標識は何だったろうか。
気になって調べてみたら、あの道は逢坂越えのもう1本の道「小関越」の道だった。そのために東海道の標識が?それなら「逢坂越」のこちら側にも標識が欲しかった。
大津市は観光場所が多く、余り金を落とさない人が歩く東海道等は力を入れないのかな?