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捏造〈高瀬露悪女伝説〉の全国的流布

2024-03-02 16:00:00 | 常識でこそ見えてくる賢治







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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 捏造〈高瀬露悪女伝説〉の全国的流布
 さて先に私は、
 森荘已池は同書は伝記であるかの如くにその巻頭で宣言しているものだから、皆その言を信じ、これを「下敷」としたのだろう。しかも上田の指摘どおり、誰一人としてその検証もせず、裏付けも取らぬままにその拡大再生産等が繰り返されてきたから、次第に〈高瀬露悪女伝説〉が出来上がっていったというのが実情と言えよう。
と主張した。
 ただしここで注意せねばならぬことは、この捏造された〈露悪女伝説〉を全国へ流布させた大半の責任はこの「下敷」にはまずないということだ。それは、この「下敷」も、そしてその後の再生産でも、ある時期までは高瀬露という実名を一切使っていなかったからだ。この〈伝説〉が全国的規模で流布したのは『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)においてその実名が活字にされたことが切っ掛け(これがその「ある時期」に当たることになる)であり、それ以降であると言われるだろう。
 それではこの〈悪女伝説〉が全国に流布した切っ掛けは具体的には何かというと、昭和52年頃になって突如「新発見(〈註一〉)」の書簡下書があったと銘打って『校本全集第十四巻』が「昭和4年の高瀬露宛と思われる書簡下書」を活字にしたことだ。しかし、「新発見」と銘打ってはいるものの、同巻のどこにもそれが「新発見」であることの説得力のある根拠は明示されていない。しかも同巻は、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と34pで述べてはあるが、その根拠も理由も何ら明示されていないから私にとっては全くもって判然としないし、一方で、一般読者の中はそのまま「判然としている」と真に受けてしまう人も多かろう。
 しかしそのような読者を責めることはできないだろう。なぜならば、あの境忠一でさえも、
 賢治が高瀬露にあてたことがはっきりしている下書きの中から問題の点だけをしぼってここに紹介してみたい。
 まず第一に『校本全集』第十三巻では、「不5〔日付 あて先不明〕(四五四頁)」とある下書きである。
〈『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年)、156p〉
と述べているからである。つまり、境は「不5〔日付 あて先不明〕(四五四頁)」は「高瀬露にあてたことがはっきりしている」と断定しているが、少なくとも『校本全集』はそんなことは断定してなどいない。したがって私から見れば、境にして昭和53年には、推定が断定にすり替わって独り歩きしていたと言える。
 ちなみに、『校本全集』はこのことについて、
 第十三巻で、書簡「不5」として掲げたもの、およびその下書㈠~㈤は、新発見の書簡252cとかなり関連があるので、高瀬あてと推定し、新たに「252a」の番号を与える。
と述べているから、断定してなどいない。あくまでも推定である。

 そしてその一方で、同巻所収のいわゆる「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史はある対談で、境忠一の質問に対して、
 今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
 <『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)、177p>
と答えている。あるいは天沢退二郎氏は、『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』の後記で、
 おそらく昭和四年末のものとして組み入れられている高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである。高瀬露は、昭和二年夏頃、羅須地人協会を頻繁に訪れ、賢治は誤解をおそれて「先生はあの人の来ないようにするためにずいぶん苦労された」(高橋慶吾談)という態度をとりつづけた。公表されたこれらの書簡は、賢治の苦渋と誠実さをつよく印象づけるのみならず、相手の女性のイメージをも、これまでの風評伝説の類から救い出しているように思われる。高瀬はのち幸福な結婚をした。
    <『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)、415p>
と述べている。しかし、「ご迷惑がかかるかもしれない」とか「高瀬の存命中その私的事情を慮って」というのであれば、逆にこのような全く判然としていないものを活字にすることこそ公表を憚るべき(〈註二〉)だったのではなかろうか。
 そして常識的に考えてみれば、この二人の発言から危惧されることが三つ浮かび上がってくる。その一つは、この「下書」群は「新発見」でも何でもなく、露が亡くなるのを手ぐすね引いて待っていて、亡くなったからそれまで隠し持っていたものを公にしたものもあるということ。そして二つ目は、『同十四巻』は「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」というように、「昭和4年」と推定され、「露宛」と推定されると述べているのに過ぎないのだが、いわゆる推定記号の〔 〕が無視されて、それが「昭和4年の露宛書簡下書」という断定にいつのまにかすり替わってしまうのは時間の問題だったであろうということ。そして残りのもう一つは、もともとは「昭和4年」かどうかも「露宛」どうかも断定できない「書簡下書」がいつのまにか「昭和4年の露宛書簡」とか「昭和4年の露宛の手紙」という断定になって独り歩きし出すことだ。
 そしてその懸念どおり、この「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」がそのようものになって引用されている例が少なからずある。例えば、
 賢治の露あて手紙が何枚か残っている。一九二九年(昭和四)年のもので、下書及び下書断片である。
      <『宮沢賢治と幻の恋人』(河出書房新書)、155p>
あるいは、
 けれども露とのつき合いは、それだけでは終わりませんでした。昭和四年には手紙のやりとりがあり、その中には結婚についての記述もあります。
       <『宮澤賢治愛のうた』(もりおか文庫)、269p>
そして、
 27 高瀬露あて(昭和4年 日付不明)下書
お手紙拝見いたしました。…(略)…
 「われらにひとりの恋人がある」――高瀬露への手紙(一)
 高瀬露 賢治の知り合った女性のうち最も大切な人とわたしには思われるこの人にあてた(と見られる)手紙の下書が幾つか残されている。…(略)…
 28 高瀬露あて(昭和4年 日付不明)下書
重ねてのお手紙拝見いたしました。…(略)… 

「われらにひとりの恋人がある」の二――高瀬露への手紙(二)
高瀬露の愛情告白の中に、私は独身主義をやめましたとでもあったのだろうか…(略)…
   <『宮沢賢治の手紙』(大修館書店)、220p~>
のようにだ。
 それともこれらの著者は何か新たな客観的な裏付けでも得られたのだろうか。寡聞にしてそのような裏付けがその後見つかったなどということを私は知らないし、残念ながら何れの著書にものそのようなものが見つかったなどというようなことは明記されていないから、私は訝るばかりだ。
 よって、私はやはり独り歩きしてしまったのだと判断せざるを得ない。いくら露に対して配慮をしたかのように述べてあっても、客観的には露が昭和45年2月23日に帰天したのを見計らったようにして、はたして昭和4年かも、そして露宛かも共にはっきりしていない書簡の下書を、しかもこの上に、それまでは公的には明らかにされていなかった女性の名を突如「露」と決めつけて公的に発表してしまったことが、それが独り歩きし出した主たる原因だったと言わざるを得ない。あような曖昧なままで活字にすれば、それが勝手に独り歩きし出す虞があるであろうことを当事者は予見し、危惧しなかったのだろうか(あるいは、そのような公表の仕方は「死人に口なし」の悪用だと言う人だって中にはあるかもしれないが、それに対した何と弁明するのだろうか)。
 そして、このような独り歩きが現実に起こっているくらいだから、筑摩書房が『校本全集第十四巻』において「新発見」というセンセーショナルな表現を用いて嘯きながら、「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」を活字にしたことが切っ掛けとなって、それまで噂されていた〈悪女伝説〉が〈高瀬露悪女伝説〉となって全国に一気に流布してしまったであろうことは火を見るよりも明らかだろう。

<註一>『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)28頁に、
   新発見の書簡252c
という記述がある。
 しかもそこには引き続いて、
 推定は困難であるが、この頃の高瀬との書簡の往復をたどると
と前置きして、
 ……次のようにでもなろうか。
(1)高瀬より来信……
(7)252c……
 本書簡に書かれた賢治の病状は……252a~252cはすべて四年末のものと推定し…
と長々と「推測」と「推定」を書き並べているが、「次のようにでもなろうか」というレベルのものを「宮澤賢治全集」において、しかも「推定は困難であるが」と言いつつも活字にすることははたして如何なものだろうか。
 それにしても、同巻における「昭和4年の高瀬露宛と思われる書簡下書」群の扱いは方は、推定したものを基にさらに推定を繰り返すという推定のオンパレードであり、それを繰り返せば繰り返す程それが事実や真実であるということの蓋然性は急激に低下してゆくから、結局あやかしだらけである。
<註二> 平成28年11月12日、あるクリスチャンの方から、
 敬虔なクリスチャンであればあるほど弁解をしないものです。
ということを教えていただいた。そしてこのことを知って私は上田哲の露についての次の記述、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
  <『図説宮沢賢治』(上田、関山等共著、河出書房新社)、93p~>
を思い出した。そういうことではなかったとは思うが、結果的にはこの露の「生涯一言の弁解もしなかった」という敬虔深さを利用してしまったのではなかろうか、と。事情を慮ったのは露に対してではなく、結果的には『校本宮澤賢治全集第十四巻』の出版事情に対してだったのだという誹りを受けかねないと。もともと、全く判然としていないものを活字にすることこそ公表を憚るべきだったのではなかろうか。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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