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「「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔い」

2024-03-06 16:00:00 | 常識でこそ見えてくる賢治

















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 “『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』の目次”へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
平成27年『第68回岩手芸術祭』文芸評論部門 奨励賞受賞作品
  「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔い
鈴木 守
 生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめたのは誰か。それは、今では殆ど忘れ去られてしまっているが、山形県最上郡稲舟村の松田甚次郎という人物だ。

  賢治が甚次郎に贈った『春と修羅』再発見
 ある時、拙ブログ『宮澤賢治の里より』に石川博久という方から、
 松田甚次郎の署名のある春と修羅に草刈という「詩」が書かれております。甚次郎と賢治の関係を知りたくて、検索してこのページにたどり着きましたのでご連絡いたしました。
というコメントをいただいた。そこで同氏のホームページを拝見したところ、そこには「昭和六年二月 松田甚次郎」と墨書され(<注1>)た同氏所有の『春と修羅』の「見返し」の写真が載っていた。併せて、同書の外箱に次のような詩
    草刈
  寝いのに刈れと云ふのか
  冷いのに刈れと云ふのか
が手書きされている写真も掲載されていた。
 実は、甚次郎が賢治から『春と修羅』を贈られたということは既に甚次郎自身が公に(<注2>)していたことだから、おそらくこの『春と修羅』はまさにその本そのものであろうと直ぐ推断できたし、この手書きはもちろんほぼ甚次郎自身によるものだと言えるだろう。しかも、その『春と修羅』の外箱に「草刈」の詩が手書きされていたということはまだ公には知られていなかったことなので、この新事実から、「草刈」の詩は賢治が詠んだ詩であるという蓋然性がさらに一層高まったと言える。
 なぜならば、甚次郎は大ベストセラーになった『土に叫ぶ』の中で既に、
 先生の詩 故宮澤先生を偲ぶ情にたへず、二つの詩を記すことにする。
    農夫の朝(草刈)
  冷いのに刈れと言ふのか
  眠いのに刈れと言ふのか
    雲の信號
  あゝいゝせいせいするな…
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭13)>
と述べているからだ。さらには、佐藤隆房は「賢治さんとその弟子」の中で、甚次郎が下根子桜の賢治の許を訪れた際のこととして、
 數々朗讀された詩の中で、
    草 刈
  つめたいといふのに刈れといふのか
  ねむいといふのに刈れといふのか
は、その表現されてゐるすさまじい努力のいきづかひが、農人たらむと志す松田君の心をゆりうごかし、
<『農民藝術 8』(村井勉編輯、農民藝術社、昭24)>
と述べているからでもある。つまり、これら二つ著書からは、賢治は甚次郎の目の前で「草刈」という自分の詩を朗読したという蓋然性の高いことがまずわかる。そしてこの度、件の『春と修羅』の外箱にこれらの詩とよく似た詩が手書きされていたということが新たにわかったことにより、この三つの詩の中身は微妙に違ってはいるもののその内容はほぼ同じで、題も皆同じ「草刈」だから、
 松田甚次郎が賢治の許を訪れた際に、賢治は「草刈」という題の「眠いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか」というような内容の自作の詩を詠じた。
という蓋然性がさらに一層高まったと言える。したがって、再発見されたとも言えるこの石川氏所有の『春と修羅』はとりわけ貴重なものであり価値がある。
<注1> この筆跡は甚次郎が墨書した「水五則」等の筆跡と酷似しているから、これは甚次郎自身の署名とほぼ判断できる。
<注2> 松田甚次郎の「宮澤先生と私」には次のように述べてある。
 其の後昭和六年に、春と修羅を御手紙と共に送っていただいたのが最後の御手紙で…<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)>

  小作人たれ/農村劇をやれ
 ところで、山形の松田甚次郎がなぜわざわざ賢治の許を訪れたのか。その経緯などは、『土に叫ぶ』の巻頭(<注3>)「一 恩師宮澤賢治先生」によってある程度知ることができる。例えばそこに、
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
と述べてあるから、当時甚次郎は盛岡高等農林の学生であり、賢治の後輩であったことなどが関係していたためだと言えそうだ。
 そして甚次郎は、その昭和2年3月の下根子桜訪問の際に、
 先生は嚴かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出來ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで歸鄕し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ學術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ──
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。語をついで、「日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農會でもない。實に小農、小作人であつて將來ともこの形態は變らない。…(筆者略)…默つて十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。
という「訓へ」があったということもそこで述べている。
 そして実際、甚次郎は故郷山形の稲舟村鳥越(現新庄市)に帰って賢治の「訓へ」どおり小作人となり、村社の境内に土舞台を作ったりして農民劇(農村劇)を上演し続けたという。いわば「賢治精神」を甚次郎は実践し続けたとも言える。そして甚次郎はその実践をまとめて昭和13年に本を出版したのだが、それが他ならぬ『土に叫ぶ』であり、これが一躍大ベストセラーになったというわけである。したがって、昭和2年3月に賢治から説諭された「訓へ」は、甚次郎にとって如何に圧倒的で決定的なものであったかということであり、同時にそこに甚次郎の感受性の豊かさと真面目さを私は感じ取る。そしてそのことが、詩「草刈」に対する彼の受け止め方に象徴的に現れていたと言えるのではなかろうか。
<注3> 当然、このベストセラーの読者の多くは、巻頭に揚げている「恩師宮澤賢治先生」とは一体どんな人物なのだろうかと興味と関心を抱いたはずだ。しかも、甚次郎は昭和14年に今度は『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)を出版し、これまたベストセラーとなって増刷が繰り返されたので、賢治とその作品が全国の多くの人々に知られるようになっていった。

  旱害報道と救援の手
 ところで、私は巻頭の「旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。…道々會ふ子供に與へていつた」が気になった。そこからは、大正15年の赤石村では旱害が甚大だったということが導かれるからだ。そこでいわゆる『新校本年譜』を見てみると、昭和2年
三月八日(火) 盛岡高農農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。…(筆者略)…
「松田甚次郎日記」は次の如く記されている。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
  9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
  [?]pple
  2.30. for morioka 運送店
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
となっていた。私はこれは変だぞと疑問を抱いた。そこには甚次郎が赤石村を慰問したとは記されていていなかったからだ。
 幸いその後当時の甚次郎の日記を見ることが叶い、大正15年の日記を見たならばその12月25日に次のようなことが書かれていた。
9.50 for 日詰 下車 役場行
赤石村長ト面会訪問 被害状況及策枝((?))国庫、縣、等ヲ終ッテ國道ヲ沿ヒテ南日詰行 小(ママ)供ニ煎餅ノ分配、二戸訪問慰問2.17 for moriork tackeio ヒテ宿ヘ 後中央入浴 図書館行 施肥 noot at room play 7.5 sleep 
<『大正15年 松田甚次郎日記』>
そこでこの日記に従うならば、旱魃によって苦悶していた赤石村を甚次郎が慰問していたのは実は大正15年12月25日であったということになろう。おそらく甚次郎は、この日は大正天皇が崩御した日だったからそれを憚って巻頭にはあのように書いたに違いない。
 さて、これで一応疑問は解けたのだが新たな疑問が生じてきた。甚次郎が「小(ママ)供ニ煎餅」を配りながらこの村を見舞ったというくらいだから、この時の赤石村の旱害は甚大であり、かつその惨状は広く知られていたということになるだろうから、下根子桜に移り住んだ賢治は「貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた」と思っていた私からすれば、まさにそのような活動を賢治が展開するにふさわしい機会だったはずだがそれが為されてはいなかったのではなかろうか、という疑問がである。
 そこで当時の赤石村の旱害等に関する『岩手日報』の関連記事を調べてみた。すると例えば、以下のような報道等がなされていた。
◇12月7日
 村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豊かな贈物
(日詰)五日仙台市東三番丁中村産婆學校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙に添へ小包郵便が届いた文面に依ると
 日照りのため村の子供さんたちが大へんおこまりなさうですがこれは私の苦學してゐる内僅かの金で買つたものですどうぞ可愛想なお子さんたちにわけてやつて下さい
と細々と認めてあつた下河原氏は早速小包を開くと一貫五百目もある新しい食ぱんだつたので晝飯持たぬ子供等に分配してやつた
◇12月15日
 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
(日詰)本年未曾有の旱害に遭遇した紫波赤石村地方の農民は日を經るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感泣してゐる數日前東京淺草区森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から川村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまつてゐることをお母から聞きました、わたし達の學校では今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかつたので、お小使の内から僅か三圓だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった
 したがって、これらの報道からは、この年の赤石村等の旱害による農民の窮状は東京方面でも知られるところとなり、その事を知って小学生でさえも救援の手を差し伸べてきたことがわかる。
 そして、甚次郎が赤石村を慰問した25日の3日前には、
◇12月22日
 米の御飯をくはぬ赤石の小學生大根めしをとる 哀れな人たち
(日詰)岩手合同勞働組合吉田耕三岩手學生會佐々木猛夫兩氏は二十一日紫波郡赤石村かん害罹災者慰問のため同地に出張しなほ役場學校について調査したが、その要領左の如し
 一、役場
(イ)植附け反別は四百一反歩でかん害總面積は三百十五町歩、その中収穫なき反別は五十町歩に及び
(ロ)被害戸數は百六十戸である(同村の總戸數は五百二十五戸であるから同村三分の一は米一粒も取らなかつたといふ事が出來る)このうち小作人の戸數は六十戸である。…(略)…
 二、學校
全然晝飯を持參せざる者二三日前の調査よれば二十四人に及びその内三人は晝飯を持參されぬ事を申出でゝ役場の救濟をあふいでゐる(外米三升をもらつた)又學用品を給與した者は十六人であるが、晝飯の内に麥粟をまじへてゐるもの殆ど三割をしめてゐる
という報道があり、特に、この記事の中の「同村三分の一は米一粒も取らなかつた」という旱害の酷さに吃驚してしまうし、学校に弁当を持って行けない多くの子どもがいたことが哀れでならない。したがって、甚次郎はおそらくこの12月22日の記事を見て居ても立ってもいられなくなって、同25日に赤石村を慰問したのだろう。

  折しも滞京中の賢治
 さて一方の賢治は、周知のように折しも約一ヶ月ほど滞京していたわけだが、故郷のこの時の旱害の窮状をどのように認識していたのだろうか。
 この時の滞京に関しては、『新校本年譜』によれば、
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時頃まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で練習、予習する、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓がそうである。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』>
ということだし、父政次郎に宛てた当時の書簡によれば、
・築地小劇場も二度見ましたし歌舞技座の立見もしました。(12月12日付書簡221)
・おまけに芝居もいくつか見ました(12月15日付書簡222)
・止むなく先日名画複製品五十七葉額椽大小二個発送(12月20日前後223書簡)
<共に『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡』>
ということだから、オルガンやエスペラントのことはさておき、もし賢治が旱害に苦悶する赤石村等のことを知っていれば、巷間「貧しい農民たちのために献身した」と云われている賢治ならば、普通これらの3項目は躊躇っていたであろう。
 また、書簡222に書いている、「第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました」などというようなことはせずに我慢していたであろう。まして、「どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます」などというようなとんでもない高額の無心は毛頭考えもしなかったであろう。
 しかし実際はそうでなかったということからは逆に、大正15年12月の賢治は滞京中だったので遠く離れた故郷の農民達の大旱魃による苦悶をおそらく知らなかったということも推測される。
  当時の旱魃の実状
 しかしながら、それを賢治が知らなかったとすればそれはそれでまた問題だ。そもそも彼の稲作指導者としての知見と力量をもってすれば、この年は早い時点から、とりわけ紫波郡内の旱魃被害が甚大になるだろうということは予見できたはずだから、その虞を賢治は抱いていなければならなかったということになり、稲作指導者としての賢治の資質と態度が問われることとなるからだ。
 ちなみに、最愛の愛弟子の一人であった菊池信一は「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」という追想の中で、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終わつた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみに待つてゐた日が酬ひられた。
<『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店、昭14)>
と書いているから、この下根子桜訪問の際に、菊池の住んでいる石鳥谷でも「旱魃に惱まされつゞけた」ということが話題に上らなかったわけがない。あるいは、当時の新聞はしばしばこの年の旱魃関連の報道をしていたのでそのことを賢治は懸念していたはずだ。実際、
 ◇7月5日付『岩手日報』には
 石鳥谷でやつと田植 北上から上水して 
(石鳥谷)稗貫郡好地村大字好地上口方面水田十七町七反歩は水全滅植えつけ出來ないので此度川村與右衛門発起人となり北上川より約四十尺の高地に上水し四日田植ゑを始めた
という記事が載っている。それこそまさに菊池の家のある好地村の記事だから、この記事は菊池の記述を裏付けてもいる。
 またその後の『岩手日報』の旱害関連記事を瞥見してみると、
 ◇7月7日
北上川の動力上水もホンの一部分 紫波數ヶ村の悲慘事
という見出しの記事が載っていて、紫波郡では田植ができないところが一千町歩に及ぶとあり、悲惨な状況に陥っていることがわかる。同記事によれば、赤石村は350町歩もの水田の田植ができないでいる状況にあるということだし、当時赤石村の水田はおよそ500町歩だったはずだから、実にそれは7割にも及んでいたことになる。
 ◇7月25日
  各旱害調査 廿日迄の植付不能水田二千百五十二町歩一反
という見出しの記事があり、同記事によれば植付不能水田について、県下で2,152町歩、紫波郡下で637町歩とあるから、田植えのできなかった水田の約3割が紫波郡内に集中していたことがわかる。
 ◇9月26日
 本縣の稻作 百五、六萬石 十二年の最凶作に近い収穫高である
 ◇11月9日
   大体前年に比し約二割二分の二十五万石の夥しい減収
 ◇11月21日
 移出米檢査に半分は不合格 品質がごく惡い花巻支所の成績
(花巻)今年は出穂時に雨量が多かつたので花巻附近から産出する俵米の如きは移出檢査で三等米に合格する俵米は百俵中五割位で、他は四等米に下落するといふ有樣だ…
 よって、大正15年の紫波郡赤石村等は早い時点から旱魃の被害が甚大になりそうだという報道が続いていたということはこれで確認できた。しかも日を追うごとに収穫高が減少し、11月9日時点では前年比2割2分もの夥しい減収予想となり、11月21日には、花巻付近の米は品質が極めて悪いという報道もあったことがわかった。
 したがって、賢治が12月に上京する以前から、この年の紫波郡内の稲作は旱害のために惨憺たる状況にあることはわかっていたことだし、稗貫郡下でも米の出来は極めて悪かったのだから、それこそ巷間云われている賢治ならば上京などせずに故郷にいて、未曾有の旱害罹災で多くの農家が惨状の極みにあった隣の郡内の農民救済のためなどに、それこそ「ヒデリ(<注4>)ノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたはずだ。
 しかし現実はそうではなくて、12月はほぼまるまる賢治は滞京していたのだから、客観的には、大正15年12月頃の賢治は故郷の旱害のことはあまり気に懸けていなかった、と結論せねばならない。
<注4> 「雨ニモマケズ」は「ヒドリ」の部分以外は全ていわゆる「標準語」だ。となれば、「ヒドリ」もやはり「標準語」であるはず。しかし標準語の「ひどり」で意味が通ずるものがないことも事実。したがって、「ヒドリ」は賢治の誤記ということになる。ではそれは何の誤記かと言えば、対句表現に注意すれば、×「ヒドリ」→〇「ヒデリ」という判断は極めて合理的だ。

  帰花後の賢治
 さて、賢治は一ヶ月弱の滞京を終えて年末に帰花(花巻に帰ること)。明けて1月からはよく知られているようにほぼ十日置きに羅須地人協会の講義等を本格的に始めたわけだが、この頃も相変わらず新聞は紫波郡等の未曾有の大旱害の惨状を報道をしていた。例えば、1月8日付『岩手日報』の夕刊には、
 未だかつてなかつた紫波地方旱害惨状 飢えに泣き寒さに慓ふ同胞
という見出しの記事がトップ一面の殆どを使って報道されていて、
 紫波地方昨夏の旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであつた水田全く變じて荒野と化し農村の人たちはたゞ天を仰いで長大息するのみであつた。したがって秋の収穫は一物もなかつた、なんといふ悲惨事であらう…(筆者略)…
 赤石村に劣らぬ不動村の惨めさ 灌漑は全く徒勞に終わつて収穫は皆無
と記事は続いていたから、滞京していた12月中とは違って、賢治はその惨状を知らなかったわけがない。
 ところが、当時の賢治の営為を『新校本年譜』等によって調べてみた限りでは、下根子桜移住~昭和2年4月にかけてこの旱害に対して賢治が救援活動等を行ったということは見出せない。せいぜいあったのは、〈一〇二二 〔一昨年四月来たときは〕一九二七、四、一、〉という詩においてその最後尾に初めて、「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」と「大旱魃」に言及していた一言だけだった。
 では、この当時の羅須地人協会員はどう語っているか。その一人伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」において、
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版))>
と語り、同じく協会員の高橋光一は「肥料設計と羅須地人協會」で、
 藝事の好きな人でした。興にのってくると、先にたって、「それ、神楽やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
 御自身も「ししおどり」が大好きだったしまたお上手でした。
  ダンスコ ダンスコ ダン
  ダンダンスコ ダン
  ダンスコダンスコ ダン
と、はやして、うたって、踊ったものです。
<(『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭44)>
と羅須地人協会時代の賢治について語っているから、この頃の羅須地人協会の集まりはたしかに楽しかったにちがいない。
 しかし、もし賢治が貧しい農民たちのために献身しようとして羅須地人協会を設立したのであればこのような楽しい事だけではなく、為すべき喫緊の課題があったはずだが、そのような事をこの時に為したという協会員の証言は私の知る限り何一つない。どうやら、その頃の羅須地人協会の活動は地域社会とはリンクしていなかったと言わざるを得ないし、残念ながら、賢治はこの時のヒデリに際して涙ヲナガシていなかった、と結論せざるを得ない。
 しかも実は、下根子桜に住んでいた頃の賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ(<注5>)」したこともまたない。なぜなら、盛岡中学卒業~下根子桜撤退までの間に花巻やその周辺で冷害で不作だった年は周知のように一度もなく、賢治が暫くぶりに経験した本格的な冷害は、賢治が下根子桜を去った後の昭和6年のことであったからだ。
<注5> かつての「賢治年譜」の昭和3年には皆、「氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し」とあるが、阿部晁の『家政日記』等によれば、同年の夏は日照りがしばらく続いたこと、「風雨の中を徹宵東奔西走」できるような風雨の日ははまずなかったことなどがわかる。また、この年の水稲は不良でもなかった。

  一つの見方
 したがって、下根子桜時代の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たわけでもなければ、「サムサノナツハオロオロアルキ」したわけでもない。しかも賢治は、甚次郎には「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」たのに、甚次郎とほぼ同じような環境と立場にありながらそうはならなかったし、しなかった。いわば「賢治精神」を、賢治自身は実践しなかったということになる。
 だから当然、賢治ならば後々この自己撞着等について慚愧に堪えなかったはずだ。凡人の私でさえも、こんなことであったならばわざわざ花巻農学校を依願退職して下根子桜に移り住んだ意味と価値は半減してしまっただろうにと残念でならないくらいだから、本人である、天才賢治は後に下根子桜時代の自分を責め、己を恥じるのはなおさら当たり前のことだったであろうからだ。そう考えればまさに、昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡258における、
 たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
<『新校本全集第十五巻書簡本文篇』>
という下根子桜時代についてのお詫びはその証左と言えそうだ。
 そして改めて冷静に読み直してみると、下根子桜時代の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たわけではないということに代表されるように、「雨ニモマケズ」に書かれている他の事柄の多くもまた実は似たり寄ったりである。それ故にこそ賢治は、その最後を「サフイウモノニ/ワタシハナリタイ」と締めくくったのだと、私はここまでの考察の結果からすんなりと理解できた。
 どうやら素直に解釈すれば、賢治は昭和6年11月3日に、下根子桜時代のしかるべき時にしかるべきことを為さなかったからそれを悔恨し、せめてこれからはそのような場合にはそのようなことを為す人間になりたいと懺悔したことが、簡潔に言い換えれば、
ヒデリノトキに「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔いが、賢治をして「雨ニモマケズ」を書かせしめた。のだった、という見方も充分に成り立ち得るのではなかろうか。
 かつての私は賢治を聖人・君子のような人だとばかり思っていたがそれはちょっと違っていて、本当の賢治は私たちにも身近な愛すべき人間だったのだと、最近の私は思えるようになってきた。
(完)
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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