みちのくの山野草

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3557 澤里の「どう考えても」について

2013-10-10 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
澤里の「どう考えても」とは
 昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』(関登久也著)には澤里武治の次のような証言
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において…(略)…語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。
が載っている。
 これに対してある方から、この証言内の
   「昭和二年の十一月ころ」
は澤里の言い間違いだし、この文章からは
   澤里はこれを大正15年の12月のことだと修正している
と判断できるというようなことを言われた。
 それに対して私は、
 澤里は何ら自分の証言を訂正はしておりません。なぜならば、もし訂正する気があるのならば「どう考えても」という修飾はしないでしょうし、まして、「その十一月のびしょびしょ…」とは言わないでしょう。もし澤里が訂正したというのであればここは「その12月のびしょびしょ…」となっていなければならないからです。
と応えた。
ある「伏線」
 実はこの澤里の「どう考えても」の発言にはある「伏線」があり、昭和23年2月1日に発行された『續 宮澤賢治素描』にも澤里武治の次のような証言が載っていて
    澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
            <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~より>
これが、この件に関する澤里武治の証言の初出である。これの「確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます」が実はこの「伏線」になっていたのである。
 そして、昭和32年に再び関登久也がこの『續 宮澤賢治素描』等を基にして『岩手日報』に『宮澤賢治物語』として連載した際には、
   確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます
の相当部分が
   どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが
となったのである。
 当然、澤里は訝っていたのであろう。なぜならば、
   たしか昭和2年の11月頃に賢治は上京した
という意味の証言を昭和23年に既にしていたのに、澤里武治が昭和32年頃に見せられた「宮澤賢治年譜」には、
   昭和二年には先生は上京しておりません
となっていたからである。
 それゆえ、澤里武治は
   「どう考えても
という修飾をしたのである。
あるご助言 
 なお、この場合の「どう考えても」についてある方から、
「どう考えても財布をカバンに入れてきたはずなのに、ないんですよ・・・家に忘れてきたようです」という場合など、自分が「どう考えても」そうであっても、何か「客観的な証拠」を突きつけられると、自分の間違いを認めざるをえない、ということは現実にありえますよね。
「どう考えても」という言葉には、そういう状況における用法もあることは、何はともあれまずお見知りおき下さい。
というご助言をいただいたが、先の澤里武治の「どう考えても」が、このご指摘いただいた場合のような弁解としての「どう考えても」と異なっていることはもちろんである。おそらく、この方はこの「伏線」をお調べになっていらっしゃらなかったのでしょう。

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  なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
クリックすれば見られます。

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3 コメント

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おたずね (入沢康夫)
2013-10-10 09:53:00
こんにちは。毎回このブログを興味深く拝読しています。
澤里氏の証言に関して、ひとつ教えて頂きたいことがあります。私の持っているのは、1995年12月、関徳也が亡くなって40年近く経ってから編み直されて出た『新装版宮沢賢治物語』ですが、その285頁には「滞京中の先生は、私達の想像することもできないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。/タイピスト学校に入ったり、エスペラントを習ったり(……中略……)指は直角に持っていく練習をされたそうです。」という12行ほどの文がありますが、この文は昭和32年に「岩手日報」に載った『宮澤賢治物語』や、同年本になった『宮澤賢治物語』にも(表記は旧字・旧仮名でしょうが)既に含まれていたのでしょうか? 御多忙中とは思いますが、どうか御教示をお願いいたします。
返信する
コピー等ですが (鈴木 守)
2013-10-10 11:28:53
入沢康夫 様
 大変お騒がせしております。
 ご期待添えるかどうか心配ですが、取り敢えず当該のコピー等の写真を当ブログの今日の最終投稿
    番外 『宮澤賢治物語』
に載せてみましたので、御覧下さい。
                                鈴木 守
返信する
御礼 (入沢康夫)
2013-10-10 12:05:38
番外『宮澤賢治物語』を拝見いたしました。気になった箇所が、昭和32年の段階で既に含まれていたことが、はっきりとわかりました。どうも、ありがとうございました。益々の御健筆を祈ります。
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