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昭和二年は「ひどい凶作であつた」という誤認

2024-01-14 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》








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 昭和二年は「ひどい凶作であつた」という誤認
 さて話は変わって、当時盛岡測候所長であった福井規矩三が「測候所と宮澤君」の中で
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
と述べているが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に記されている当時の天気から判断すれば、花巻周辺ではそんな「ひどい凶作であつた」とは言えなさそうだし、当時の新聞報道を見ても少なくとも花巻の稲作の作況と福井のこの証言との間には矛盾がある。そのことを以下で検証してみたい。
 まずは、昭和2年10月1日付『岩手日報』に岩手県の昭和2年の「第一回米作予想収穫高」の記事が載っているのでそれを見てみると次のように、
   本縣第一回米作豫想高 百六萬七千八十石
     平年作に比し一分一厘增収
 九月二十日現在…(筆者略)…豫想収穫高は水稲百五萬五千五百八十八石陸稲一萬一千四百九十三石
と報道されていて、前年に比せば、
計十一萬九千六百九石(一割三分)の增収を示せり
ともある。
 次に、同記事から稗貫及び隣の郡を抜き出して見ると、
        水   稲
    豫想石高 前年収穫高比増減 前年収穫高
 紫波 122,639石    29,192石 93,447石
 稗貫 109,879石     5,989石 103,890石
 和賀 114,668石     4,702石 109,966石
となっていた。紫波の場合は前年は旱害被害が甚大であったから、昭和2年は逆にかなりの増収見込みとなったのだろうし、稗貫の場合もそれなりの増収予想であったことがわかる。
 そして、11月12日付『岩手日報』に「第二回米作予想収穫高」が載っていて、それは次のようなものであった。
  本縣米作(第二回)豫想収穫高 百六萬九百五十二石        平年に比し七厘四毛增収
…本縣における十月末現在米第二回豫想収穫高は水稲百四萬八千三百二十四石陸稲一萬二千六百二十四石合計百六萬九百五十二石にして之を九月二十日現在第一囘豫想収穫高合計百六萬七千八十一石に比すれば六千百二十九石(五厘七毛)の減収を豫想されてゐる之は本年の稲作は概して草たけ徒長の傾向にあつたが九月下旬に至り多少の風雨の害を蒙り為に倒伏したるもの又は岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである…(筆者略)…前年五ヶ年平均収穫高百五萬三千百二十一石に比するも七千八百三十一石(七厘四毛)の増収の見込みである。
つまり、昭和2年の「第二回予想収穫高」は第一回のそれよりも少し減ったが、それでも前年よりも増収の見込みである。
 次にこの記事から稗貫等のデータなどを抜き出してみると、
            水稲収穫高
     第二回豫想  第一回豫想   比較増減
  紫波 118,887石  122,639石   △3,752石
  稗貫 110,881石  109,879石    1,002石
  和賀 113,035石  114,668石   △1,633石
ということだから、紫波や和賀では第一回の予想収穫高よりも第二回のそれは減少しているが、逆に稗貫の場合は収穫高の予想は増えていることがわかる。したがって、
 昭和2年の場合、隣接する和賀郡などでは稲熱病が猖獗してその被害が甚大であったが、稗貫の場合はそのようなことはなかった。
であろうということが予想される。
 ここで前年との比較をしてみる、
  第二回豫想 前年収穫高比増減  増収割合
  紫波 118,887石  25,440石    2割7分2厘増
  稗貫 110,881石  6,991石      6分7厘増
  和賀 113,035石  3,069石      2分8厘増
となっているので、稗貫の場合は前年より約6.7%程の増収だし、紫波は前年大干魃だったせいもあって約27.2%という大幅な増収、和賀にしても昭和2年は稲熱病の被害が甚大だという報道は目立つものの、郡全体としてはそれでも約2.8%の増収であることが導かれる。また、岩手県全体であっても、「平年に比し七厘四毛増収」、すなわち0.74%の増収ということになる。
 どうやら、福井規矩三の証言「昭和二年は…ひどい凶作であつた」は彼の勘違いだった蓋然性が極めて高くなってきた。
 実際、「昭和2年岩手県米実収高」が昭和3年1月22日付『岩手日報』に載っていて、
   本縣米實収高 平年作より八厘增
          前年比一割二分增
とあり、この報道からは
       作付面積  収穫高   反別収穫高
   昭和2年  54,904町 1,061,578石  1.9335石
   大正15年  53,804町  947,472石  1.7610石
   5年平均  53,705町 1,053,120石  1.9609石
ということが判るから
   1,061,578÷ 947,472=1.120
   1,061,578÷1,053,120=1.008
となり、たしかに新聞報道どおり
   前年比収穫高は1割2分の増収
   5年平均収穫高では8厘の増収
であり、「ひどい凶作であつた」わけでは全くない。
 ただし、反別収穫高で比べると
   1.9335÷1.9609=0.986 
となるので作況指数は99となっていて100を割るものの、
・県全体としては平年作より0.8%の増収
・県の作況指数は99であり平年作
であったことがわかる。
 ちなみに、稗貫とその周辺の郡では
            水    稲
    第二回豫想   実収高(粳+糯)  比較増減
   紫波 118,887石 109,301+9,016=118,317石  △570石
   稗貫 110,881石 101,485+9,652=111,137石   256石
   和賀 113,035石 100,371+10,949=111,320石△1,715石
となっているので、紫波郡や和賀郡は実収高が「第二回豫想」よりも減っているが、稗貫郡は逆に増えていることがわかる。これはおそらく、同報道によれば
 岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである
ということではあるが、この中に稲熱病の被害の多かった地方は「岩手、紫波、和賀、胆澤地方」とあるのでそこに「稗貫地方」が入っておらず、稗貫地方はその周囲の地方とは違って、先ほどの「予想」(42p参照)どおりやはり稲熱病による被害はなかったからだと判断できそうだ。逆に言えば、昭和2年の稗貫郡の稲作は天候に恵まれていたということになるだろうし、作柄は前年を結構上回っていたというこがこれでほぼ明らかである。
 具体的には稗貫郡の水稲については、
  (実収高111,137)-(前年収穫高103,890)=7,247(石)
   7,247÷103,890=0.0698
より、
昭和2年の稗貫郡の水稲の実収高は前年比6.98%もの大幅増収であった。
ということが確定した。
 したがって、先の「昭和2年岩手県米実収高」に基づけば昭和2年の水稲は県全体では平年作よりも0.8%の増収だし、稗貫郡のそれについては前年比約7%もの大幅増収だったことも今わかったから、福井規矩三の
 昭和二年は…ひどい凶作であつた。
という証言は、岩手県全体にせよ稗貫地方にせよいずれの場合にも全く当てはまらないので、こうなればこの証言は彼の全くの事実誤認であったと断定せざるを得ない。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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