みちのくの山野草

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昭和二年は「非常な寒い氣候が續いて」という誤認

2024-01-14 12:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》












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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 昭和二年は「非常な寒い氣候が續いて」という誤認
 さてここで『新校本年譜』を見てみると、その昭和2年7月に、
七月中旬(〈注十一〉) 「方眼罫手帳」に天候不順を憂えるメモ。「肥料設計ニヨル万一ノ損失は辨償スベシ」
 昔から岩手県では稲作に関して旱魃に凶作なしといい、多雨冷温のときは凶作になるという。
七月一八日(月) 盛岡測候所に調査に出向く(書簡231)。
七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状(書簡231)。
 福井規矩三の「測候所と宮沢君」によれば、「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
というような記述がある。
 たしかに「多雨冷温のときは凶作になる」は尤もなことだし、「稲作に関して旱魃に凶作なし」とは言い切れないということは先にその実例を知った(28p~32p参照)ところだが、それよりもここでもっと問題とせねばならないことは、福井のこの「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という証言だ。まして福井は当時盛岡測候所長だったから、この証言を皆端から信じ切ってしまうだろうからなおさらに。
 そのせいでだろうか、各著者がその典拠を明らかにしていないので確かなことは言えないが、例えば
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
 <『宮沢賢治 その独自性と同時代性』(翰林書房)173p>
という記述や
 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
<『イーハトーヴの植物学』(洋々社)79p >
そして、
一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
<『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p >
というような記述に出会う。
 つまり「一九二七年の冷温多雨の夏」や「昭和二年は…六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった」などという断定表現にしばしば出会う。
 しかしながら、福井の証言「昭和二年は…ひどい凶作であった」は歴史的事実とは言い難いことをつい先ほど実証したところであり、こうなると残りの「(昭和二年は)非常な寒い気候が続いて」の部分についても信頼度が危うくなってきたので検証してみる必要がありそうだ。
 そこでまずは、同年譜が「(昭和二年は)非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作」の典拠であるという福井の「測候所と宮澤君」を見てみると、
 昔から岩手縣では旱魃に凶作なしといふて、多雨冷溫の時は凶作が多いが、旱天には凶作がない。…(筆者略)…あの君としては、水不足が氣象の方から、どういふ變化を示すものであるかといふことを専門家から聽き、盛岡測候所の記錄を調べて、どういふ對策を樹てたらよいかといふことに頭を惱まされたことと思ふ。七月の末の雨の降り樣について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聽き、調べて歸られた。昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)316p~>
という記述があり、たしかにそこには「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であった」と述べていることを確認できる。
 しかも、賢治の『方眼罫手帳』にはたしかに天候不順を憂えているとも思われる次のようなメモ
△△気温比較表ヲ見タシ
△△今月上旬中ノ雨量ハ平年ニ比シ而ク(ママ)大ナルモノナリヤ
 日照量ハ如何
 風速平均は如何
△△本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)386p~>
もあるから、この福井の証言は素直に歴史的事実だったと思いたくなる。
 しかし、『新校本年譜』にあるとおりこのメモがこの年の「七月中旬」の記載であるというのであれば、冷静に考えてみると、このメモからは実はそれほど賢治が「それまでの天候不順やあるいは現状を憂えている」とは必ずしも受け取れるわけではなかろう。純粋に科学的な見地からの疑問と、そのための気象データを知りたいということを賢治は備忘的にメモしていたに過ぎないとも解釈できるからだ。だからこのメモから私が読み取れることは、「今後天候不順が起こるのだろうか」という程度のことを賢治は気に留めていたということである。
 それは、例えば農学博士卜蔵建治氏の『ヤマセと冷害』によれば、大正時代以降は大正2年の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、
一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。むしろ暑い夏で…旱魃が多く発生している。
<『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p >
ということだから、賢治のこの最後のメモ「本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ」はこの当時は無用な心配であったことからも(この歴史的事実はよく知られていることのはずだし、賢治自身もこのことに当時気付かなかったはずがない)、賢治はそのことを気に留めていた程度であったということが裏付けられるのではなかろうか。
 実は、先に少し触れたように、当時湯口村の村長等を務めたこともある阿部晁はいわゆる『阿部晁の家政日誌』をつけているのだが、その日誌には日々の天気も記してある。そこでその日誌から昭和2、3年7月の天気について拾ってみると次頁の《表 昭和2年と3年花巻の7月の天気と降水量》の表のようになる。しかも、阿部晁の家は花巻の石神(あの鼬幣神社のある地域、花巻農学校の直ぐ近く)であるから、これらの天気は当時の花巻の天気と判断してほぼ間違いなかろう。
 よって同表によれば、昭和2年7月の上旬・月間は同3年に比べると雨量がやや多いとはいえ、田植直後の時期だからそれはそれほど「天候不順」とは見えない。それどころかこの表に従えば、昭和2年はこのとおりこの月は同3年に比べて見てもわかるように気温も高めだから、稲作にとっては歓迎すべきことであり、どうも福井の言うところの「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」と矛盾する。
 しかも、実はその福井自身が発行している『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、昭和3年)』(岩手県盛岡・宮古測候所)に基づいて大正15年~昭和3年の花巻の稲作期間の気温と降水量のデータをグラフ化してみると、それぞれ、48pの《図1 花巻の稲作期間気温》と《図2 花巻の稲作期間雨量》のようになる(これらは次頁の表のデータとも矛盾していない)。
 ちなみに、《図2》からは昭和2年の6月の田植時に雨量が少ないことが判るが、前年に比べればまだましであるし、七月には雨量も多い。また《図1》からは同2年は気温も高めであり、「羅須地人協会時代」3年間の中では一番高いのでこの年は稲作にとっては好ましい傾向の年だったと言える。
 一方で、岩手の農家が一番恐れているのが冷害だと思うのだが、一般に
    冷害=冷温多雨
という図式が成り立つ。がしかし、少なくともこの昭和2年はこれらのグラフ等からわかるように
    高温多雨
だから、この図式には当てはまらないのでその心配もない。つまり、福井自身がこの年報を通して、
 昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった
ということを否定していてるということになる。
 それでは一体歴史的事実はどちらかというと、記憶よりはもちろん客観的なデータから導かれる方であり、
 昭和2年の稲作期間の天候は決して「昭和二年は非常な寒い気候が続いて…」などということはなかった。
ということにならざるを得ない。そしてこのことは先にわかった、
 昭和2年の稲作は県全体では平年作よりも0.8%の増収、稗貫郡の場合は前年比約7%もの大幅増収だった。
によっても裏付けられる(43p参照)。
 したがって、福井の「測候所と宮沢君」における「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という記述は完全に勘違いであり、彼の事実誤認であったということにならざるを得ない。歴史的事実はそれどころか、
 昭和2年の稗貫郡の水稲は天候にも恵まれ、稲熱病による被害もそれほどなく、前年比約7%の大幅増収。また、
 
《図1 花巻の稲作期間気温》   《図2 花巻の稲作期間雨量》
県全体としても水稲は平年作より0.8%の増収だった。
ということが先にわかったところである。
 そしてまた、『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)によれば、賢治が生きていた(賢治は明治29年生まれ、昭和8年歿)当時の冷害・干害等発生年は次表のごとくであり、
 〈冷害〉           〈干害〉
  明治21年         明治42年
  明治22年         明治44年
  明治30年         大正5年
 明治35年(39)       大正13年
 明治38年(34)       大正15年
 明治39年         昭和3年
  大正2年(66)       昭和4年
  昭和6年         昭和7年
  昭和9年(44)       昭和8年
  昭和10年(78)       昭和11年
       注:( )内は作況指数で、80未満の場合に示した。
前述した卜蔵建治氏の言説(〈注十二〉)とも符合している。
 したがって、賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」するようなことがもしあったとすれば、それこそ〔雨ニモマケズ〕をあの手帳に書いた昭和6年の大冷害の時であれば理屈上は可能だったはずが、その年の賢治は東北砕石工場花巻出張所長としての営業活動や、発熱・病臥のために実質叶わぬことであったということになるのではなかろうか。
 結局、『岩手県気象年報』『岩手県農業史』『阿部晁の家政日誌』もそして卜蔵建治氏も皆、「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて」は事実誤認であることを教えてくれている。

〈注十一:本文44p〉実は、あくまでもこの「(昭和2年)七月中旬」は『校本全集』による推定であり、賢治がそう記していたわけではなかった。
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)698p>
〈注十二:本文49p〉ト蔵建治氏は次のように述べている。
 この物語(筆者注:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(筆者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期(図2・2)のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。
<『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p~>
 なお、この18年間の気温面の安定、いわば「冷害空白時代」については、『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修)の「岩手県水稲反収」の推移や池田雅美氏の論文「岩手県における冷害と対策について」所収の「表2 水稲収量と冷害年の気象(岩手県)」等、あるいは当時の『岩手日報』の一年毎の「米実収高」の報道をコツコツ調べれば確認ができることである。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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