みちのくの山野草

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抜きがたい「農民蔑視」

2024-01-13 16:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》










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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 抜きがたい「農民蔑視」
 さて私個人としては、先の仮説〝②〟が成り立つとしたならば、賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫ったのだが自分自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったということの了解ができるので、つまり賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ氷解するのであった。
 ただし、もちろんそんな基準はアンフェアだから納得はできないのだが、賢治にとってはそのようなことは埒外のことであったということなのであろう。だからこそ逆に、賢治はあのような素晴らしい作品を沢山残せたのだということになるのかもしれない。凡人の常識的な倫理観で天才賢治の言動を論うことは、どうやらもともと無意味なことのようだ。
 さりながら、そのような賢治が凡人の眼から見て(つまり常識的に考えて)どのように評価されるかを一度は検証しておくことも無意味なことではなかろう。まして、ここまで賢治のことを少しく調べてみた限りでは、私の眼にはそのようなことが今まであまり為されてこなかったと映るからである。
 †農民蔑視
 では、なぜ賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫りながら、賢治自身は「小作人」にはならなかったのかということをもう少し別の観点から見てみよう。
 たまたま手に取った『太陽 5月号 No.156』に宮澤賢治の特集があり、その中の特集対談において肥料設計等に関連した次のような内容も話し合われていた。
T だけれども、たとえば農民に肥料相談をし肥料設計をしてやっている宮沢賢治と、童話の主人公の名前を何回も書き直して苦労して原稿を書き直している宮沢賢治との間には当然どこかで葛藤があると思うのね。それが私にとって、たいへんドラマティックに見えるんだけれども。それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから。だから自分の教えてあげた肥料でうまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれないようなね。
A それはもう当りまえですよ。
T そいうことを知っているはずでしょう。
A もちろん知っていますね。
<『太陽5月号 No.156』(平凡社、昭和51年4月発行)94p >
 私はこの二人(A:宮澤賢治研究の第一人者、T:女流作家)のやりとりを知って、とりわけ作家T氏の『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから』という発言等に遭って、びっくりした。
 まずそれは第一に、T氏はこのように農民のことを見ているのかということに対してである。せめて心のうちで
  ・農民なんかずるい
 ・それは田舎の人だから
と思っているのであればまだしもだが、このような決め付け方と論理で公の場でかような発言をし、しかもそのことを活字にして世に送り出していたということを当の農民が知ったならば、農民がどう感ずるだろうかということは明らかなことであり、そのことが心配になったからだ。またもちろん、人間がずるいかずるくないかをその職業のくくりで決めつけられたのではたまったものではなかろう。
 その上、言葉に対して敏感なはずの作家が『農民はずるい』ではなくて『農民なんかずるい』というように表現しているからである。この「なんか」の一言からT氏の「農民」に対する蔑視がいかようなものかがほぼわかる。さらには、その理由が「田舎の人だから」とT氏は決めつけていることになる。はたしてこのような倫理観や論理でよいのだろうか。
 第二に、そのことをA氏が否定していないことにもである。ただし、A氏の『それは当たりまえですよ』とは『農民なんかずるい』に対してではなくて、『うまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれない』ということに対して述べたことだったのだということであれば多少は私の心は軽くなるが。
 そして第三に、賢治は「そういうことを知っている」と二人はそれぞれ推測し、断定していることにである。なぜなら、ここでの「知っている」とは会話の流れから言って『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ』の「知っている」であり、そしてそれはとりもなおさず、
 農民なんかずるいのを知っていた。それは農民は田舎の人だからである。……③
と賢治も農民を見ていたとこの二人は言っていることになる、と私には思われるからである。どうも、そこには抜きがたい「農民蔑視」が賢治にもあったということをこの二人は当然の如くに認めていると思えるからである。
 †賢治にもそれはあった
 さりながらよくよく思い返してみると、たしかに賢治もまた〝③〟と見ていた節があり、彼にも抜きがたい「農民蔑視」があったことは否めない。それは、例えば次のような詩を読み直してみれば、そのような点が賢治にもあったことを否定しきれないからだ。
  七三五  饗宴
                  一九二六、九、三、   酸っぱい胡瓜をぽくぽく嚙んで
   みんなは酒を飲んでゐる
    ……土橋は曇りの午前にできて
      いまうら青い榾のけむりは
      稲いちめんに這ひかゝり
      そのせきぶちの杉や楢には
      雨がどしゃどしゃ注いでゐる……
   みんなは地主や賦役に出ない人たちから
   集めた酒を飲んでゐる
    ……われにもあらず
      ぼんやり稲の種類を云ふ
      こゝは天山北路であるか……
   さっき十ぺん
   あの赤砂利をかつがせられた
   顔のむくんだ弱さうな子が
   みんなのうしろの板の間で
   座って素麺をたべてゐる
     (紫雲英植れば米とれるてが
      藁ばりとったて間に合ぁなじゃ)
   こどもはむぎを食ふのをやめて
   ちらっとこっちをぬすみみる
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)24p >
  一〇三五  〔えい木偶のぼう〕
                  一九二七、四、十一、   えい木偶のぼう
   かげらふに足をさらはれ
   桑の枝にひっからまられながら
   しゃちほこばって
   おれの仕事を見てやがる
   黒股引の泥人形め
   川も青いし
   タキスのそらもひかってるんだ
   はやくみんなかげらふに持ってかれてしまへ
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)122p>
 前者では、「下根子桜」に移り住んだ直後に詠んだであろうその出だしの「酸っぱい胡瓜をぽくぽく噛んで/みんなは酒を飲んでゐる」からそれを感じ取れる。
 また、それから約一年が経ったというのに、その時に詠んだであろう後者からはズバリそれが読み取れる。この「えい木偶のぼう」も「黒股引の泥人形め」もともに近隣の小作人のようなある百姓のことであろうし、しかもあの〔雨ニモマケズ〕の「デクノボー」がここでは「えい木偶のぼう」と苦々しい思いを込めて詠み込まれているのである。まさに賢治の教え子小原忠の、
 櫻での生活は赤裸々に書き残されているのでそれを見れば一目瞭然で、過労と無収入のためかムキ出しの人間賢治が浮き出されている。
<『賢治研究13号』(宮沢賢治研究会)5p >
という評は、このようなことを指しているのかもしれないと私は思ってしまう。
 あるいは一方で、座談会「宮沢賢治先生を語る会」におけるK(高橋慶吾)の証言、
 (賢治は)純粹の百姓の中から藝術家は出來ないと云うてゐた。若し出たとすれば、それはその人の先祖が商人であつたとか、士族であつたとかさういう系統を引いた人なんだと云つた。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、共榮出版)249p>
 はたまた、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」における川村尚三証言の中の
 農民は底にひそめた叛逆思想をもっていて、すくいがたいがとにかく今一番困ることに手助けしてやらねば……というようなことを言ったのも記憶している。
<『岩手史学研究NO.50』(岩手史学会)220p>
などを思い起こしてみると、賢治自身もやはり心の底では前頁の〝③〟のように、あるいは
   農民なんかずるい。とりわけ小作人は。
と捉えていたことは否めないようだ。そして、賢治の農民に対する姿勢は、あくまでも「手助けしてやる」という上から目線であったということもである。
 つまるところ、抜きがたい農民に対する蔑視が賢治にもあったということになりそうだ。だから当然、そのような立場になること、とりわけ「小作人」になるなどということは毛頭彼の頭の中にはなかったのだったと解釈すれば、すなわち、賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがやはりあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ完全に氷解する。端的に言えば、甚次郎は「純粹の百姓」であり、それと違って自分は「先祖が商人」であるという抜きがたい階級意識が賢治にはあったのかもしれない。
 とはいえもちろんあの賢治のことだから、「羅須地人協会時代」にこのような抜きがたい農民蔑視があったことの重大さと深刻さに後々賢治は初めて気付き、自責と悔恨の念が次第にもたげてきて慙愧に堪えなかったはずで、そのことが賢治をして、
・「殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」という謝罪の書簡(258)を伊藤忠一へ出させしめ、
・手帳に〔雨ニモマケズ〕を書かせしめ、
・柳原宛書簡(488)には「慢」の一字を書かせしめた。
のだという蓋然性がかなり高いのではなかろうかということを私は思い付く。
 そしてまさにそこにこそ人間賢治の「真骨頂」があり、素晴らしさがあるのだと私は確信する。葛藤と苦悩の果ての賢治にこそ私は人間的魅力を感じ、愛すべき賢治をそこに垣間見る。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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