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2773 賢治、家の光、犬田の相似性(#18)

2012-07-18 08:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
民衆美術運動
 それでは今回は、美術分野における「民衆芸術」の運動を小松隆二氏の『大正自由人物語』を通じて見てみたい。

1.〝民衆芸術〟の胎動
 例えば同書には次のようなことなどが論じられている。
    4 大正デモクラシーと一九一六年
 民衆化の足跡
 あらゆる社会思想、社会運動が開花する大正期――その中で、これまであまり注目されていないが、一つの飛躍を見せる重要な意味を持つのが一九一六(大正五)である。
 この年は、経済面での躍進ばかりでなく、大正デモクラシー全体の流れの中でも、画期的な意味を持ってる。それは、この年が吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』一月号)で幕開けされることのみによるのではない。大正デモクラシーの根本精神と触れ合う民衆、人間を視野に入れる新しい動向が目だって頭をもたげてくるのも、また民衆芸術の主張がやがて大きな潮流になる出発点も、この年であったからである。さらにまた、労働運動、社会主義運動の領域でも、大逆事件後の冬の時代を堪えぬいた明治以来の古参の主義者、運動家のみでなく、大正時代に入って初めて実践に加わる青年や一般労働者も、ぞくぞくと運動の表面に出てくるのである。それこそが大正を特徴づける人間愛にみなぎる新聞や雑誌、あるいは労働者、民衆視点に立つ新聞や雑誌のあいつぐ創刊が、これらの動向を十分に裏付けてくれるであろう。
<『大正自由人物語』(小松隆二著、岩波書店)63pより>
 ということは、賢治が「農民芸術概論綱要」を書き上げ、犬田等の『農民文芸十六講』が発刊された大正15年を遡ること約10年前の1916年が〝民衆芸術〟の出発地点であり、「大正デモクラシー」の下に〝民衆芸術〟が花開いていったということなのだろう。
 さてこれで「民衆芸術」の運動のきっかけと流れが多少わかったので、次はこのうちの美術分野である「民衆美術」の運動について見てみたい。
2.民衆美術運動
 同書には次のようなことも述べられている。
 山本鼎が信州で農民美術運動に着手するのは一九一九年であるが、この同じ年の九月五日夜、望月は駒込千駄木町の自宅で革命芸術の茶話会を催している。会には、久坂卯之助…(略)…中里介山…(略)…それに印刷工などの労働者も参加した。そこで、まず望月から集まりの趣旨が説明された後、懇談し、以後月一回定期的に美術の研究会を開くことが決められた。
 この研究会が「黒耀会」と正式に名称を決め、会則を整えるのは、一二月五日の例会のときであった。


民衆美術宣言
<『大正自由人物語』(小松隆二著、岩波書店)118p~より>
 あるいはまた、
 『黒耀』創刊号に載った「黒耀会の経過」は望月の執事と思われるが…(略)…そこには次のように…(略)…言葉や文章が並べられている。
 「労働者は余りにも生活が荒み、霊も体も疲れ果てたために、すぐ目の前にある自分にとつては唯一の最善なる芸術が、月の世界のものでゞもあるやうに想像し、及ばぬ事と観念し納まり返つて仕舞つてゐる。甚だしきに至つては、自ら行ひつゝある芸術を芸術とは気は付かず、中風患者の小便のたれ流し程にも感じないのだ。それで商売人の拵らへた化物をのみ芸術と心得てゐた……色合いにしろ、音色にしろ、如何に他人が選択に努力して呉れたからつて自分が嫌ひならそれまでのことだ。何だつて自主自治に優るものは無かろう。生活即芸術だ……破壊は創作だ……」…(略)…
 このように、社会思想には素人といってよい望月は生活即芸術の民衆美術論を考え、実践に移したのである。そしてうまい下手に関係なく素人から玄人までの全員参加という形で運動をすすめた。
<『大正自由人物語』(小松隆二著、岩波書店)120p~より>
ということも述べられている。ということは、1919(大正8)年にはもう既に長野では山本鼎が農民美術運動を起こし、東京では望月桂達が「黒耀会」の下で民衆美術運動を始めていたということになろう。
 そして私がここでとりわけ直感したことは、この「黒耀会の経過」における主張と「農民芸術概論綱要」における賢治の芸術論はかなり通底しているのではなかろうかということである。
 また一方では、犬田卯の「農民文学運動」がセクト主義に陥ってしまって発展できなかったことと比べると、こちらの望月等の「民衆美術運動」におけるいわば門戸開放主義はその点ではこの運動に発展をもたらしたと思う。そのこともあってだろう、同書には次のようなことも書かれている。
 続いて第三回黒耀会が開かれるのは、労働運動、社会主義運動が全般的に高揚する一九二一(大正一〇)年末にいたってからである。…(略)…
 この第三回展は前の二回よりさらに幅広い展覧会となった。新たに有島武郎、高村光太郎、北原白秋、島崎藤村、長谷川如是閑、秋田雨雀、新居格等も出品して、合計で一五〇点余が陳列された。
 最後の黒耀会展となる第四回展覧会は、労働運動、社会主義運動においてアナ・ボル対立が激化する一九二二(大正一一)年六月に開催される。…(略)…
 ところが、これまでになく出品者の範囲を広げ、「民衆芸術」等を訴えて一般にも啓蒙したことが、かえって当局のかんにさわり、二日目にはすべての展示を取り払い、解散するように命じられた。ここに、貴重な足跡をしるした四度にわたる黒耀会展も上からの圧力、そしてアナ・ボルが対立を深め、揺れ動く中で終わりを告げることになる。…(略)…望月に遅れて農民美術運動に着手した同郷の山本鼎は、その旺盛な活動とともに全国的にも著名であるが、その評価に比すれば、望月に対する評価はまだ無に等しい。
<『大正自由人物語』(小松隆二著、岩波書店)127p~より>
ということは、望月の門戸開放主義が功を奏してそうそうたるメンバーの参加があったということであろうし、このことに私は驚き感心した。ただ気の毒なことは、そのことなどが逆に災いして四回で終わらざるをえなかったことである。
 ところが、それで望月はしっぽを巻いて逃げてしまったかというとそうでもないらしい。彼はなかなかしたたかで、新たな運動に力点をずらしていったようだ。それはそれまでの民衆美術運動からはややかけ離れているものの、その方法論と思想は相通ずるところがあると思ったので次に少し付け加えておきたい。
3.農民運動の重視
 それは農民運動であった。1922年6月の当局の圧力によって頓挫せざるを得なかった望月の黒耀会活動ではあったが、望月は同年10月頃からは農民運動に重点を移していったようだ。そのあたりのことを小松隆二氏は同書で次のように述べている。
 望月は、この一九二二(大正一一)一〇月創刊の第二次『小作人』の頃から、労働運動よりも農民運動に、また都会よりも農村に、自らの目をはっきりと向けかえる。
 『小作人』の狙いは、農民運動そのものを展開することではなく、外からの宣伝、啓蒙にあった。…(略)…
 たとえば「何も小作人は、地主のために働いてゐるのではない。小作人が地主から土地を借りて耕作するのは、生活するためだ。それだのに食ふ米も無くして、小作料を納めることが出来るものか。……だが、地主は、これほど明らかなことでも、頼んだり、哀願しただけでは、決して小作料を少しでも引いて呉れない。それ処理ではない。どんな不作でも定まつた小作料は、どしどし捲き上げる。……先づ小作人は、しつかりと団結することだ。一人々々では、どうすることも出来ない。小作人同士固く団結して、小作人組合を組織することだ。……」(「小作争議はどうやるか」『小作人』第八号、一九二四年二月)…(略)…といった主張である。
 この『小作人』への望月の関わりは、当初は挿絵を頻繁に描く程度のものであった。ところが、三号(一九二三年四月)からは、望月は正式に同人になると同時に、同盟<*>の事務所も、『小作人』の発行・編集・印刷人の役割も、一手に引き受けるようになった。以後農村運動同盟は終刊号となる九号(一九二四年四月)まで望月宅に置かれ、かつ彼が発行に責任を持ち続ける。
<『大正自由人物語』(小松隆二著、岩波書店)203p~より>
ここからは、一切をなげうって農民運動に献身したであろう望月桂の姿がありありと目に浮かんでくる。
4.同時期性
 こうして少しく当時のことを知ってみると、賢治と似たようなことを考えたり実践したりしていた人々が当時あちこちに居たということになろうか。時代はそういう流れの中にあり、賢治もその時代の中で生きていたということなのであろう。もちろん賢治のオリジナリティには目を見張るものも多いと思うが、賢治が考えたり行ったりしたことすべてが彼のオリジナルでもないということのようだ。賢治が他人の考えや実践を真似たことはないにしても、それぞれが似たようなことを同時期に思い付いたり(例えばニュートンとライプニッツのように)行動したりするということは歴史の証明するところである。したがって、私がいままではつい賢治のオリジナルであるとばかり思い込んでいたことの中には、いかな天才賢治といえども同時期性から来るものもあったということをあながち否定できない、と認識すべきだということのようだ。

<投稿者註*>:農村運動同盟のことであり、『小作人』はこの同盟が発刊元であるという。

【余談】
 同書205p~には次のような興味深いことも書いてあった。
 『小作人』といえば、望月はその出版費用の一部に、自殺する直前の一九二二、二三年頃、よく往き来していたいた有島武郎からもカンパを受けている。二人の合作、つまり望月の絵に有島が文章を付けた掛軸が今もいくつか残されている。
と。
 そういえば、小牧近江も有島から活動の軍資金用として梅原龍三郎の絵「裸婦」を貰ったというエピソードがたしかあったはず(『種蒔く人 小牧近江の青春』(北条常久著、筑摩書房)より)。また、有島は自分の農場を小作人に開放したとも聞く。私はますます有島に人間的魅力を感じ、尊敬の念が増してきている。

 では、次回は再び安藤義道著『犬田卯の思想と文学』に戻って農民文芸運動について再び少しく考えてみたい。 
               
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