《創られた賢治から愛すべき賢治に》
三十日間の出張看護『宮沢賢治の道程』には次のようなことも述べられてあった。
賢治の疾中を見守り、しかも衰えた賢治の手足となって、常時その枕頭につきっきりだった人に、当時の花巻病院の看護婦長安藤のぶがいる。八月十日からの《四十日》は、佐藤隆房花巻病院長の判断で、看護婦を宮沢家に派遣することにしたのである。安藤のぶからの聞き書きでは、
<『宮沢賢治の道程』(吉見正信著、八重岳書房)259p~より> 「佐藤長松主治医の他に佐藤隆房先生と、お二人もの医師の往診の上、自分までもが出張看護を命じられて、非常な緊張を覚えました。…(略)…病状はというと、それは大変重く、一時は危険なときもあり、宮沢さんのお宅ではただならぬ雰囲気がございました。宮沢先生はお苦しいとき、何かお経のようなものを低く念じておられました。高熱・発汗でそれもできなくなるときは、かなりお苦しいようで、病状は一進一退が続きました。…(以下略)」
とのことである。安藤のぶは三十日間の出張看護を務め、賢治の危急に付添い看護し、あと白鳥みさお看護婦と交替したのであった。私はこの部分を読んで、慌てたし狼狽えた。この記述に従えば、
八月十日からの《四十日》は、佐藤隆房花巻病院長の判断で、看護婦を宮沢家に派遣することにしたのである。……①
ということとなり、 8月10日~9月20日の40日間のうちの30日間を看護婦安藤のぶは賢治に付き添って出張看護したが、賢治の病状はかなり重篤だった。……②
ということになるからである。もう少し丁寧にいえば、
賢治は、〝8月10日~9月20日の40日間〟はそれほど重篤ではなかったと私はいままで判断していたが、この判断は証言〝②〟とは全く矛盾してしまうことになるから私は焦り、狼狽した。
のである。なぜばらば、もし賢治が重篤であったという〝②〟が事実であれば、
賢治は昭和3年8月10日から実家にもどって蟄居・謹慎していた。
というこれまで私が掲げてきた仮説はあえなく棄却されてしまうからである。私は慌てて本棚から佐藤隆房著『宮澤賢治』を抜き出した。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_thank.gif)
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
クリックすれば見られます。
1928年8月10日から40日間ほどの賢治の病状は、重篤なものだったろうと私は思います。
以前に下記ブログ記事に、この時の状態について推測されることを整理してみました。
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2013/04/post_782.htm
お早うございます。
浜垣様のことは牛崎敏哉副館長からお聞きしておりましたのですが、この度は直接ご助言とご指摘を賜りまして大変有り難うございます。感激しております。
さてこの度の件につきましては、本日(9/11)もその続きをとりあえず投稿したいと思っておりまして、それはこの30日間の出張看護は、8月10日からの40日間のうちのそれではないという内容のものです。
そこへ、この度浜垣様からのご助言、ご指摘を賜りましたのでもう少しじっくりと後ほどまた考え直してみたいと思っております。つきましては、しばしお時間を頂きたいと存じます。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
鈴木 守