《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
そして、これは伊藤光弥氏の『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社、14p)によって知ったことだが、件の「塚の根肥料相談所」に関しては、◇『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年)において初めて、
昭和三年(一九二八) 三十二歳
三月 十五日より一週間、石鳥谷町塚の根肥料相談所で、朝八時から午後四時まで休む間もなく肥料設計を行う。
という記載がなされたという。確認してみると、たしかに『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年)の185pにはそのような記述があった。
そしてその後、「旧校本年譜」には(その担当者が堀尾だから当然といえば当然だが)、
三月一五日(木) 本日より一週間、石鳥谷南端の塚の根肥料相談所で、午前八時より午後四時まで肥料設計を行う。休む間もなく続けざまに行ったが相談に来る人はふえるばかりで、一週間ではさばき切れず、また順次約束の村をまわるため、三〇日に残りの人の設計を行うことにした。愛弟子である菊池信一が世話した。状況は<三月>にえがかれている。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)>とあるように、同様な記述がなされ、これが定説となっていったということのようだ。
だから私は、
それまでは「賢治年譜」で一切触れられていなかったことが、その開設日から40年弱後に日時を限定した上での、まるで昭和3年3月15日からの賢治はこの肥料相談所での仕事に暫くかかりきりだったという内容の記述の突然の登場に、私はさら違和感が増してしまう。
のである。以前の私ならば、「賢治年譜」には全幅の信頼を置いていたが、その後私が実際検証してみると少なからぬ個所であやかしなことがあるということを知った今は、その記述の裏付けがない場合等は一度徹底して疑ってみることは必要だということを思い知らされている。そしてこの場合もその例に漏れなかった。
賢治がいくつか開設した「肥料設計所」の中で、その開設時期が確定しているのは現時点では「塚の根肥料相談所」だけであるというのに、そしてその開設の意味と価値は頗る高く評価されているというのに、なぜ昭和9年には既に公にわかっていた菊池の件の証言が長い間年譜に反映されることなく放置されてきたというのに、それから32年も後の昭和41年の『年譜 宮澤賢治伝』に唐突に現れるのかということも極め奇妙なことだ。しかも、肝心の菊池の証言における大きな矛盾「羅須地人協會の生まれた翌年の昭和三年三月」に一言も言及もせず、まるで頬被りしているような実態があるからなおさらにである。
だから、伊藤光弥氏が、「塚の根肥料相談所」が昭和3年3月15日にはたして開設されたのかという大いなる疑問を抱いているということは尤もなことだ。
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