みちのくの山野草

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北海道 安達利比呂

2020-08-09 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 前回に引き続き、今回もまた北海道からの追悼である。それは、安達 利比呂さんという方からのもので、以下のような内容であった。
八月十一日から四日間の予定で旭川市及附近の農協のために「土に叫ぶ會」が先生を講師として開催される予定でありました。食糧増産にひたむきな農村の人々の期待もずゐぶん大きかつたでせうが、私の喜びも亦一汐でした。久しぶりに先生にお會が出来るといふそれだけでも……それが急病で中止、更に御逝去と悲しい通知の連絡に私の氣持ちは全く言語に絶してしまひました。
想へば昭和十四年十二月十一日北海道からはるばる先生の塾の門をたたいて入塾を許された時こそおゝ良かつたと農閑期を利用して修業に励んだのでした。その時先生は御病気でありました。あとで先生の御病気が無理をされた事であり、塾教育のためには生命を投げ出してやられる先生の御心境を御察しいたし、塾生一同、先生に御心配掛けない様お互に誓ひ合つたのでした。今度の雨乞ひで御無理なされたとか。……先日盆踊りを見て(北海道は新厂の八月です)泣きました 先生が盆踊りを復活するのに苦労された事を思ひ出したからです。先生の御逝去は悲しい限りです。然し土に命を捧げられたことを思ひせめてもの慰めと致して居ります。
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)26p〉
 ということは、昭和18年の8月11日~14日、松田甚次郎は旭川で講演を行う予定だったということになるのか。そういえば、松田甚次郎は『土に叫ぶ』の中に「一一 農村啓蒙行脚」という章を設けていたはずだ。おそらく、農閑期等を中心にしてあちこちに招かれていって、講演をしていたのだろう。実際に同書をひもといてみると、特に多かったのは隣の秋田県だったと甚次郎は述べているが、新潟や青森、遠くは京都までも出かけて行っており、その回数は「六年間百数十回に及ぶ」(同書341p)と書いている。その具体例がこの旭川での講演のようなものだったのであろう。

 それこそ、農村文化の向上や農産物増強のために、松田甚次郎はまさに、東奔西走していたと言えるだろう。そして、斃れたのだと。

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