みちのくの山野草

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長野 柳澤素介

2020-08-10 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 では今回は長野の栁澤 素介が寄せた追悼であり、それは以下のようなものだった。
 長野 栁澤 素介
寸暇もなき養蚕中にてこんなに後れて申訳ございません。鎌倉の禊以来松田先生と度々の禊に相会し、今春三月八日吾が翼壮主催の講演会に御苦労願ひしましたのが最期となりました。先生は来年又来ますよと御約束下さいましたのにほんとうに残念でなりません。
八月五日、こちらは雨降りでありました。私は朝草刈りから歸つてお茶を頂き乍ら何となしに先生の「續土に叫ぶ」を取出してなつかしく讀みながら、先日朝日新聞へ寄稿せられた「除草進軍」の記事を切り抜いて餘白へはりつけて居りました所へ其の日の新聞が參り先生の御永眠を知りほんとうに言葉もございませんでした。私に農魂をお与へ下さつた先生、ゆるみ勝ちな私の心に絶えず激励と慰をお与へ下さる先生、「土に叫ぶ」を通して絶えず私の心は先生に通つて居ります。先生は確かに生きて居られます。
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)39p〉
 さてこの追悼に従えば、まず一つは、「先日朝日新聞へ寄稿せられた「除草進軍」の記事を切り抜いて餘白へはりつけて居りました所へこの日の新聞が参り先生の御永眠を知り」という記述から、山形は新庄の一青年の死が長野県でも報じられていたということになるから、松田甚次郎が如何に全国的規模で知られ、且つ高く評価されていたかということが示唆される。
 そしてもう一つ、「土に叫ぶ」が当時の農民に如何に読まれ、支持されていたかということ、そして同書を通じて甚次郎と農民の心が堅く繋がっていたかということも、改めて知ることができる。
 さらにもう一つは、「今春二月八日吾が翼壮主催の講演会御苦労を御願ひしましたのが最後となりました」という記述から、甚次郎は昭和18年の2月8日には長野県まで出掛けて行って講演をしていたということも教えてくれる。

 すると、前回、秋田県を最多として、甚次郎は新潟や青森、遠くは京都までも講演に出かけて行っており、その回数は「六年間百数十回に及ぶ」ということだったし、予定では昭和18年の8月11日~14日は遠く北海道は旭川で甚次郎は講演を行う予定だったことを知ったわけだが、甚次郎は遠く長野へも講演に出掛けていたということになる。
 まさに甚次郎は、農村文化の向上や農産物増強などのために全国規模で東奔西走していたと言えよう。そして、斃れたのだと。
 するとおのずから比較されるのは賢治とである。最近はいざ知らず、かつての「賢治年譜」にはおしなべて
(昭和3年)八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。
と書かれていた。ところがそれを裏付けるものよりは、逆に否定する客観的な事実等が見つかるのだが、それはさておき、もしこの「年譜」通りだったとしても、賢治が東奔西走したという地理的エリアとくらべると、松田甚次郎の方が格段に広大だったということ、またその期間的にも甚次郎の方が遥かに長かったということに気付かされる。

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『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))

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