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おかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった

2021-11-21 18:00:00 | 「賢治年譜」等に異議あり
《『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)の表紙》

 前回、私は、
『事故のてんまつ』の場合と同様に、筑摩書房におかれましては『校本宮澤賢治全集第十四巻』についても「総括見解」を公にしていただけないでしょうか。
とお願いした次第だが、その後それだけではだめなのだということに気づいた。そこで、それはなぜかということを『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』の〝第四章 筑摩書房に異議申し立て〟で論じているのだが、ここからはそのことに関しての予告を述べてみたい。

 さて、現「賢治年譜」等において少なからず見つかる常識的に考えればこれはおかしいと思われる事柄について、基本的には「仮説検証型研究」という手法に依って調べてみたところ、常識的に考えておかしいと思ったところはほぼ皆いずれもおかしいということが実証できた。それらに関しては今まで下掲のような拙著、
『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』(自費出版、平成23年)
『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』(自費出版、平成25年)
『羅須地人協会の終焉―その真実―』(自費出版、平成25年)
『宮澤賢治と高瀬露』 (上田 哲、鈴木 守共著、自費出版、平成27年)
『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(自費出版、平成28年)
『「羅須地人協会時代」再検証―「賢治研究」の更なる発展のために―』(自費出版、平成29年)
『賢治の真実と露の濡れ衣』(自費出版、平成29年)
『本統の賢治と本当の露』(ツーワンライフ出版、平成30年)
『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(森 義真、上田 哲、鈴木 守共著、露草協会編、ツーワンライフ出版、令和2年)
等で順次公にしてきた。
 そしてその主な事柄とは、『本統の賢治と本当の露』〝第一章 本統の宮澤賢治〟の、
2.「賢治神話」検証七点
  ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない
  ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
  ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
  ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
  ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
  ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
  ㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず
でも論じているこれらの事柄である。
 次に、それぞれについて少しだけ述べてみる。

㈠ 「独居自炊」とは言い切れない
「羅須地人協会時代」の賢治は独居自炊であった、これが通説であろう。ところが、
   千葉恭という人物が、大正15年6月22日頃~昭和2年3月8日までの少なくとも8か月間を賢治と一緒に暮らしていた。
ということを私は実証できたので、同時代の賢治は「独居自炊」であったとは言い切れない。

㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
 これは、先の第三章でも論じたことでもあり、大正15年の現定説、
   一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
は正しいとは言えず、この12月2日について言えることは、
   沢里武治〔、柳原昌悦〕に見送られながら上京(ただし、この時に「セロを持って」という保証はない)。
ということである。
 なおかつ、セロを持って上京した件についての真実は、
 みぞれの降る、昭和2年の11月頃、「沢里君、セロを持つて上京して来る。今度は俺も眞剣だ少なくとも三か月は滞京する」と言って花巻駅から上京。そして、約三か月間に亘るチェロの猛勉強の無理が祟って病気になって帰花した。
である。

㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
 「羅須地人協会時代(2年4か月)」のうちの大正15年も、昭和3年もともに賢治の地元稗貫はヒデリの年であった。そこで、賢治は農民たちのために「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たというのが通説のようだが、そのようなことを裏付ける証言も資料も見つからない。つまり、同時代の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言い切れない。

㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 少なからぬ賢治研究者等が、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」と断定しているが、そのような歴史的事実はなく誤認である。自ずから、同年に賢治が「サムサノナツハオロオロアル」いたはずがない。

㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
 「羅須地人協会時代」の賢治は陸羽一三二号を岩手の農民たちのために推奨し、貢献したというのが通説のようだ。しかしながら、同品種は金肥に対応して開発された品種だったから、当時の農家全体の約六割を占めていた貧しい農家にとっては金肥の購入が容易ではなかったので、彼等のために貢献できたとは言い切れない。
 また、賢治は石灰の施用を奨め、特に「東北砕石工場技師時代」は、貧しい農民たちのために炭酸石灰を安く供給して酸性土壌の田圃を中性にさせ、稲の収量を増してやった、というのが通説のようだ。だが、本書の〝第二章 賢治の「稲作と石灰」について〟でも論証しているように、そうであったとは言えない。それは、稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、そもそも弱酸性~微酸性だからである。
 畢竟、賢治の稲作指導法には始めから限界があり、当時の大半を占めていた貧しい農民たちのために貢献できたとは言い難い。

㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
 賢治が昭和3年8月に実家へ戻った件については、
 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
が通説のようだが、そうとばかりは言えない。
 それは、
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付くし、実際にこの仮説を検証できたからである。

㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず
 巷間、高瀬露が〈悪女〉であるとされる大きな理由の一つとして、賢治の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕が挙げられる。それは、露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だから「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは露であるという単純で安直な論理によってである。
 しかし、「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことではなくて伊藤ちゑのことである、という蓋然性が極めて高いので、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルは限りなくちゑである、と言える。よって、
 〈仮説〉「聖女のさましてちかづけるもの」は少なくとも露に非ず。
が定立できることに気付くし、反例の存在も限りなくゼロだ。しかし、それでもやはりそれはちゑではなくて露だと主張したい方がいるのであれば、それを主張する前にちゑがそのモデルではないということをまず実証せねばならない。だが、その実証は今のところ為されていないので、この〈仮説〉の反例は実質的に存在していないと言えるから、この〈仮説〉は現時点では限定付きの「真実」となる。

 というわけで、実際に検証してみればみるほど、常識的におかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった。

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《ご案内》
 来る12月16日付で、新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))を発売予定です。
【目次】

【序章 門外漢で非専門家ですが】

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