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五 強く異議申し立てをすべし

2024-03-14 08:00:00 | 「賢治年譜」等に異議あり







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五 強く異議申し立てをすべし
高橋 結局、昭和52年の『事故のてんまつ』の出版も、『校本全集第十四巻』の出版もともに「腐りきっていた」典型的な事例であったと言えるということだ。
 しかし、前者ではそれを厳しく総括したのだが、後者では全くそうではなかったということになる。となれば、遅ればせながら、まずは筑摩は第十四巻の総括をし、次にその「総括見解」を公にすることが筋であろう。
 ではその際に、主にどんなことに関して総括せねばならぬのか、具体的に挙げてみてくれんか。
鈴木 そうですね、現時点では、少なくとも次のような三つの事柄についてだと思います。
 まず一つ目が、先ほど高橋さんが「安易な」と形容された、それこそ、「新発見の書簡 252c」等の安易な公開についてです。
高橋 たしかにこの公開については、人権に関わることでもあるというのに、筑摩は安易で慎重さに欠けていた。その根拠も明らかにしておらず、推定にすぎないものだらけ。にもかかわらず、筑摩が断定的に書いたものだから、研究者も含めて一般読者もその推定を事実と思い込んだ。その結果、それまでは一部の人にのみ知られていた〈悪女伝説〉が、一気に〈高瀬露悪女伝説〉に変身して全国に流布してしまったと言えるからな。
鈴木 同時に悔やまれるのが、これらの一連の書簡下書群の安易な公開によって結果的に、賢治には従来のイメージとは正反対の、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があったということを世に知らしめてしまい、賢治のプライバシー権を侵害したことです。
高橋 これでは、筑摩は露のみならず、あまつさえ賢治までも貶めていると言われかねない。
鈴木 では二つ目ですが、それは、『新校本年譜』の大正15年12月2日の記載に関してで、例の「注釈*65」の仕方についてです。
高橋 そりゃたしかにそうだわな。さっき、
 昭和52年発行の第十四巻は、「大正一五年のことと改めることになっている」という横車を押して、「昭和二年十一月ころ」という証言を一方的に書き変えたということか。
と言ったように、その根拠も明示せずに他人の記述内容を一方的に書き変えているというのだから。出版社がこんなことをするということは、それこそ自殺行為だ。
鈴木 そして、最後の三つ目が次のことについてです。
 第十四巻は昭和2年の記載の中で、

七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった……」

という記載をしています。そしてたしかに、福井は「測候所と宮澤君」において、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、317p)と述べています。
 そこで、多くの賢治研究家等がこのことは歴史的事実だと信じ込み、それに基づいた論考を著しています。しかし、この福井の証言内容は事実ではありません(このことについては、『本統の賢治と本当の露』の65p~の〝㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」〟を御覧いただきたい)。
高橋 つまり、鈴木君がしばしば口にする、あの石井洋二郎の戒め、「必ず一次情報に立ち返って」という研究における大原則を、彼等は蔑ろにしていると言いたいのだな。
鈴木 はい。石井氏が、

 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。…(筆者略)…しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
〈「平成26年度教養学部学位記伝達式式辞」(東大教養学部長石井洋二郎、「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報)〉

と憂えていたことがまさにここでも起こっていた、ということが否定できません。
 ということで、以上の三つの事柄について、筑摩は少なくとも「総括見解」を公にしてほしいです。
高橋 それでは、私、露草協会の会長としては四つ目として付け加えてほしいものがある。それは第十四巻の「賢治年譜」中の昭和2年についての、安易な論理に頼った次の記載についての「総括見解」もだ。

秋〔推定〕森佐一(荘已池)「追憶記」によると、「一九二八年の秋の日」、村の住居を訪ね、途中、林の中で、昂奮に真赤に上気し、ぎらぎらと光る目をした女性に会った。…筆者略…(「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。)
〈『校本全集第十四巻』622p〉

 つまり、森は昭和3年のことだとしているのに、「その時は病臥中なので」という安直な理屈で、第十四巻は昭和2年のことだと決めつけているからだ。
鈴木 たしかにこれもおかしいですよね。その年、昭和3年の秋に賢治は豊沢町の実家で病臥していたわけですから「村の住居」にはもはや居らず、森のこのような訪問は不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることは明らかですが、さりとて、大正15年のことだったということもあり得ますからね。
高橋 そしてそもそも、大前提となるそのような「下根子桜(しもねこさくら)訪問」自体がたしかにあったという保証も、第十四巻は何ら示せていない。よって、それを「一九二七年の秋の日」と書き変えるのはあまりにも安易だ。
 そしてその一方で、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」ということについてだが、それはなにも、突然倒産直前に腐り始め、そしてあっという間に腐りきったということではなかろう。そうではなくて、それ以前からそのような土壌が少しずつ造られていったとも考えられるわけで、そのこともあって、「追憶記」のことを引き合いに出したのだ。
鈴木 仰るとおりですよね。私も、この「追憶記」については以前少しく調べたことがあります。ちなみに、それが所収されているのは、昭和9年発行『宮澤賢治追悼』にであり、

 一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で、昂奮に眞赤に上氣し、ぎら〳〵と光る目をした女性に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた。
――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
  <『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月)33p>

と記載されていました。つまり、昭和9年頃でさえも「一九二八年の秋の日」と記されております。
 ということは、下根子桜(しもねこさくら)を訪ねたのが昭和3年の秋にせよ、「現通説」である同2年の秋にせよ、それから約5年半~6年半後に出版された『宮澤賢治追悼』に所収されてこの「追憶記」は活字になっているわけですから、それはそれ程昔の出来事ではないです。したがって、その年を本来ならば昭和2年と書くべきところを昭和3年と不用意に書き間違えたとは普通は考えにくいです。
 まして昭和9年と言えば、森は岩手日報社の文芸記者として頻繁に賢治に関する記事を学芸欄に載せるなどして大活躍していた時期です。そのような記者が、賢治を下根子桜(しもねこさくら)に訪ねた年次を、その訪問時から6年前後の時を経ただけなのに間違えてしまったというケアレスなミスを犯してしまったというのでしょうか。
 しかも、この訪問時期について森は、『宮澤賢治研究』(昭和14年)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭和49年)でも「一九二八年の秋」としていて、いずれにおいても、「一九二七年の秋」とはしていないのです。あまりにも不自然です。
高橋 ついてはそのようなことも懸念されるので、まずは、「その時は病臥中なので」という理屈がはたして妥当だったのかということについての総括を、第十四巻の担当編集者等はせねばならないということだ。なにしろ、この書き変えが〈露悪女伝説〉という濡れ衣に直結しているとも言えるのだから。そしてまた、一方の『事故のてんまつ』の編集担当者原田奈翁雄の場合は厳しく総括を行ったのだから。
鈴木 これで私もいよいよ決心がつきました。これらのことを一冊にまとめた本を出版し、筑摩書房に対して、
『事故のてんまつ』の場合と同様に、『校本宮澤賢治全集第十四巻』についても「総括見解」を公にしていただけないでしょうか。
と、お願いすることが私の最後の責務であると自覚し、今後取り組んでみます。
高橋 しかしこの段階に至った以上は、もはやお願いレベルではもうだめだ。おかしいことはおかしいと、鈴木君は正々堂々と筑摩に強く異議申し立てをすべき時期がやってきたということだ。
 ついては、その本の中で、
 筑摩書房は、『校本宮澤賢治全集第十四巻』の出版についての「総括見解」をまずは公にせよ。
と声を大にして強く異議申し立てをしてくれ。それはとりもなおさず、賢治研究の発展のためにもなるのだから。
鈴木 「賢治研究の発展のためにも」ですか。そうですね、恩師岩田教授からのミッションはそのことまで含んでいるかもしれませんね。
 とはいえ、決心はしてみたものの、具体的にはさてどうすればいいのかと悩んでしまいます。
高橋 なあに、難しく考える必要はないさ。ここまで話し合ってきたような事柄等を取り纏めて一冊の本にして出せばいいだけのことだ。多分そのような事柄に気付いている人も少なからずいるのだろうが、それぞれ諸般の事情があって、そのようなことは公的には言えんのだろう。しかし鈴木君は門外漢なのだから誰にも遠慮はいらん。ここまで話し合ってきたような事柄を包み隠さず正直に書いて、異議申し立てをし、世に問えばいいのだ。それだけでも十分に意義はある。
鈴木 えっ、しゃれですか。

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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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