みちのくの山野草

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濡れ衣〈悪女・高瀬露〉を流布させたことは犯罪

2023-11-12 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
鈴木 一方で、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
 今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。〈『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)177p〉
と境忠一との対談で語っていたし、天沢退二郞氏も、
 高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである。 〈『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)415p〉
と述べていたから、この二人は共に、高瀬露が亡くなったので公表したと言っているようなものだ。
荒木 じぇじぇじぇ、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟の「新発見」は嘘で、実は以前から知られていたものだったのかよ。そして隠したって、いずれこうやって顕わになるということか。
鈴木 そう、その「十五点」とは『校本宮澤賢治全集第十四巻』によれば、実は以前から知られていた宛先不明の下書、いわゆる「不2、4、5、6」やそれらの下書のことのようだ。しかも、それがはたして露宛かどうかもはっきりしていないのだ。
吉田 最近たまたま知ったのだが、アルフレッド・テニスンという人が、
    半分真実の混じった嘘は、あらゆる嘘の中で最も悪い。
と言っているんだが、まさにこれだろう。
鈴木 なるほど、吉田はいいこと言うな。あの〝「新発見」の書簡下書252c等〟はまさにこの「半分真実の混じった嘘」とも言える。
荒木 そしてその「混じった嘘」はたしかに「あらゆる嘘の中で最も悪い」と言えるかもな。
鈴木 結局、その「半分真実の混じった嘘」とも言える〝「新発見」の書簡下書252c等〟によって、露は濡れ衣を着せられたと言えそうだ。
吉田 それにしても、なぜ『校本全集第十四巻』は、「新発見」とは言い難いのに「新発見の書簡252c」とセンセーショナルな表現をし、さらに、「推定は困難であるが」と言いながらも、その推定を延々と繰り返した「推定群⑴~⑺」を公表したのか。良心的で硬派の出版社だと思っていた筑摩書房が、なぜこのような杜撰、典拠などが不確かで、いい加減だと見えてしまうようなことをしてしまったのか、僕は苦々しく思えてならん。そしてこのようなことに依って、結果的に〈悪女・高瀬露〉という濡れ衣を着せられてしまったという不条理に怒り心頭だ。
鈴木 実は、森義真氏は次のようなことを講演会で話して下さったから、私はこれはやはり濡れ衣であるということをますます確信しているので、吉田と同じ心境だ。というのは、同氏は、令和2年3月20日に矢巾町国民保養センターにおいて行った『賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―』という講演において、
 そうしたところに、上田さんが発表した。しかし、世間・世の中ではやっぱり〈悪女〉説がすぐ覆るわけではなくて、今でもまだそういう〈悪女〉伝説を信じている人が多くいるんじゃないのかなと。しかしそこにまた石を投げて〈悪女〉ではないと波紋を広げようとしているのが鈴木守さんで、この『宮澤賢治と高瀬露』という冊子と、『本統の賢治と本当の露』という本を読んでいただければ、鈴木さんの主張もはっきりと〈悪女〉ではないということです。はっきり申し上げてそうです。
とか、
 時間がまいりましたので結論を言います。冒頭に申し上げましたように、「高瀬露=〈悪女〉」というこれは本当に濡れ衣だと私は言いたい。それについては上田哲さんがまず問題提起をし、それを踏まえて鈴木守さんが主張している。それに私は大いに賛同します、ということです。〈『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(露草協会編、ツーワンライフ出版)8p~〉
と話して下さったからだ。
荒木 でもちょっと待ってくれ、実はこの度の一連の考察を通じて、露は「〈悪女〉の濡れ衣を着せられた」というよりはこれは冤罪であり、濡れ衣〈悪女・高瀬露〉を全国に流布させたことは犯罪だという考え方に俺は変わりつつある。〈高瀬露悪女伝説〉を全国に流布させてしまったことは濡れ衣を着せるよりももっと罪深いことであり、これは犯罪なのだと。
吉田 そう、「杜撰」が引き越した冤罪だと僕も思う。それは、何故そのような冤罪が起こったのかというその大きな原因を、筑摩書房の社史がいみじくも示唆してくれていて、社史に「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」とはっきりと書いてあるからだ。だからある意味、筑摩書房は矜恃があるとも言える。
荒木 おっと、吉田も辛辣だな。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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