《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
さて、話が少し横道に逸れてしまったので元に戻そう。
そもそも、件の「一本足」論争は、私の定立した仮説、
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里武治一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその無理が祟って病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♣
に関わるものだ。そしてその論争の発端は、 私の「仮説♣」に対して、「鈴木さんの「賢治昭和2年上京説」は、なかなかはっきりとは否定しにくいというのが現状のようです」と仰って下さって、反例が見つからないと実質的に認めて下さったH氏だったのだが、次に「一本足」という聞き慣れないテクニカルターム?を同氏は持ち出し、今度は仮想の《賢治は「大正15年11月」に上京した》を主張して私の「仮説♣」を否定し始めた。
ことだった。一方、大正15年12月2日の「賢治年譜」の現定説は、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。……❎
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。 〈『新校本年譜』325p~〉
であり、その典拠は「関『随聞』二一五頁」であるということを『新校本年譜』は示唆しているから、「三か月間」等に首を傾げる方も多かろう(私からすれば、一次情報とは言えない「関『随聞』二一五頁」を典拠にしたことも大問題だと言いたいのだがそれはさておき)。*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。 〈『新校本年譜』325p~〉
というのは、その「関『随聞』二一五頁」の中身は、
沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つておりましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、おれはもう一人でいゝいのだ」とせっかくそう申されましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかつた、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかかからぬよう、指は直角にもっゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つておりましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、おれはもう一人でいゝいのだ」とせっかくそう申されましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかつた、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかかからぬよう、指は直角にもっゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
となっているからだ。とりわけ、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました」という証言部分を『新校本年譜』の「現通説❎」は完全に無視(なお、この無視を公的に問題視している賢治研究者を、私の管見故か、私は誰一人として知らない)しているからだ。
そこで私はこのことをH氏に告げると、同氏は以下のようなコメントを下さった。
*****************<(7)↓投稿者H氏/2013年10月 6日 16:17>**********************
⑴……賢治が上京前に「三ヵ月は滞京する」と言ったからといって、実際に三ヵ月滞京したかどうかはまた別問題なので、これはこれで検証しなければならない事柄だと思います。
もしも、「賢治は言葉にしたことは必ず実行する」などと考えるならば、それは鈴木さんも批判されるところの、一方的な聖人君子化になってしまいます。
⑵現に、たとえば賢治は大正10年1月に上京した時には、父親に「御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します。それ迄は帰郷致さないこと最初からの誓ひでございますから…」(書簡189)と言い、父が法華経に改宗するまでは帰郷しないと「誓って」いたのですが、その年の夏頃に、父は改宗していないままに、花巻に帰りました。
したがって後の上京においても、直前に「三ヵ月は滞京する」と言っていたとしても、実際にそうしたかどうかは、何とも言えないと思います。
⑶また、沢里武治の、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という言葉の解釈ですが、この部分については、沢里がどこまで具体的な情報をもとに言ったことなのか、慎重に受けとめる必要があると思います。
沢里武治という人が、真摯で真面目な人柄の方だったと思われることは、その残された証言から、私も十分に感じるところです。
しかしそのことは、当然ながら「沢里の証言はすべて真実である」ということを意味するわけではありません。これは上に述べたように、賢治の言葉がすべてそうだとも言えないことと、同じです。
⑷私は思うのですが、沢里武治自身は、昭和3年の前半に関しては、賢治の動静に関する具体的な情報は持っていなかったのではないでしょうか。
昭和3年の9月に、沢里は賢治から書簡243を受け取りますが、そこには、「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです」と書かれていました。
私の推測では、沢里の中では、この書簡にある「東京」と、自分が見送った「上京」が重なり合ってしまって、いつしか二つの上京を同一視してしまった結果、それが「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という記述になり、ひいては問題の「昭和2年上京」という、時期の勘違いの原因ともなってしまったのではないか、と思うのです。
もちろん細かく考えると、「昭和2年11月から3ヵ月」と、「6月」では勘定が合いませんが、人間が何かを勘違いする時には、こういうズレはありえることでしょう。
まあ、上の推測が当たっているかどうかはともかく、誰の「証言」を取り上げる場合でも、それが直接見聞きした事柄なのか、その人が推測したことなのかを、しっかりと判別して受けとめる必要はあると思います。「尊重する」ことと、「そのまま全て真実とする」ことは、別です。
⑸ということで、私としては、「賢治自身は3ヵ月滞京したいと沢里に言ったけれども、実際には諸般の事情で1ヵ月弱で帰郷することになった」と考えるのが、鈴木さんのおっしゃる「矛盾」を解決するための、最も自然な解釈だと思うのです。
⑹それからあともう一つ、鈴木さんは上記においても「証言のつまみ食い」を厳に戒めておられますが、沢里自身は「昭和2年11月」という自分の記憶を自ら訂正して「大正15年」とし、晩年もそう語っていたわけですから、ここで鈴木さんが彼自身による訂正の方は採用せず、「昭和2年11月」を論拠とされるならば、これも「証言のつまみ食い」になってしまうのではないかと私には思えるのですが、どんなものでしょうか。
**************************************************************************もしも、「賢治は言葉にしたことは必ず実行する」などと考えるならば、それは鈴木さんも批判されるところの、一方的な聖人君子化になってしまいます。
⑵現に、たとえば賢治は大正10年1月に上京した時には、父親に「御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します。それ迄は帰郷致さないこと最初からの誓ひでございますから…」(書簡189)と言い、父が法華経に改宗するまでは帰郷しないと「誓って」いたのですが、その年の夏頃に、父は改宗していないままに、花巻に帰りました。
したがって後の上京においても、直前に「三ヵ月は滞京する」と言っていたとしても、実際にそうしたかどうかは、何とも言えないと思います。
⑶また、沢里武治の、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という言葉の解釈ですが、この部分については、沢里がどこまで具体的な情報をもとに言ったことなのか、慎重に受けとめる必要があると思います。
沢里武治という人が、真摯で真面目な人柄の方だったと思われることは、その残された証言から、私も十分に感じるところです。
しかしそのことは、当然ながら「沢里の証言はすべて真実である」ということを意味するわけではありません。これは上に述べたように、賢治の言葉がすべてそうだとも言えないことと、同じです。
⑷私は思うのですが、沢里武治自身は、昭和3年の前半に関しては、賢治の動静に関する具体的な情報は持っていなかったのではないでしょうか。
昭和3年の9月に、沢里は賢治から書簡243を受け取りますが、そこには、「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです」と書かれていました。
私の推測では、沢里の中では、この書簡にある「東京」と、自分が見送った「上京」が重なり合ってしまって、いつしか二つの上京を同一視してしまった結果、それが「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という記述になり、ひいては問題の「昭和2年上京」という、時期の勘違いの原因ともなってしまったのではないか、と思うのです。
もちろん細かく考えると、「昭和2年11月から3ヵ月」と、「6月」では勘定が合いませんが、人間が何かを勘違いする時には、こういうズレはありえることでしょう。
まあ、上の推測が当たっているかどうかはともかく、誰の「証言」を取り上げる場合でも、それが直接見聞きした事柄なのか、その人が推測したことなのかを、しっかりと判別して受けとめる必要はあると思います。「尊重する」ことと、「そのまま全て真実とする」ことは、別です。
⑸ということで、私としては、「賢治自身は3ヵ月滞京したいと沢里に言ったけれども、実際には諸般の事情で1ヵ月弱で帰郷することになった」と考えるのが、鈴木さんのおっしゃる「矛盾」を解決するための、最も自然な解釈だと思うのです。
⑹それからあともう一つ、鈴木さんは上記においても「証言のつまみ食い」を厳に戒めておられますが、沢里自身は「昭和2年11月」という自分の記憶を自ら訂正して「大正15年」とし、晩年もそう語っていたわけですから、ここで鈴木さんが彼自身による訂正の方は採用せず、「昭和2年11月」を論拠とされるならば、これも「証言のつまみ食い」になってしまうのではないかと私には思えるのですが、どんなものでしょうか。
私は、このコメントに茫然とした。H氏は何と、
・賢治が上京前に「三ヵ月は滞京する」と言ったからといって、実際に三ヵ月滞京したかどうかはまた別問題なので、これはこれで検証しなければならない事柄だと思います。
とか、・「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という言葉の解釈ですが、この部分については、沢里がどこまで具体的な情報をもとに言ったことなのか、慎重に受けとめる必要があると思います。
はたまた、・「賢治自身は3ヵ月滞京したいと沢里に言ったけれども、実際には諸般の事情で1ヵ月弱で帰郷することになった」と考えるのが、鈴木さんのおっしゃる「矛盾」を解決するための、最も自然な解釈だと思うのです。
などと言い出したからだ。もともと同氏は一次情報に立ち返るつもりは毛頭となさそうだいうことを私は当初から危惧していたのだがやはりその通りであり、二次情報である〝関『随聞』二一五頁〟(つまり「沢里武治氏聞書」)の方を典拠とし、しかもそれを恣意的に使って、検証されたはずの私の仮説が危ういとクレームを寄せて下さる。私などは「典拠とする以上、それは神聖なものであり、まかり間違ってもつまみ食いをしたり、改竄したりするものではない、牽強附会なことなどするものではないと常に自戒しているのに。
ただし、このようなことはH氏に限ったことではなく、先に拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』で特に問題視したように、あの註釈、
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
におけるこの「改竄」にもまた、それがある。言い方を変えれば、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること。
という警鐘に則っておれば、れらの杜撰なことはともに起こらなかっただろに、『校本全集』といい、この著名な賢治研究家といい、なぜ「一次情報に立ち返える」ことをせぬのだろうか。
別の言い方をすれば、
・「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、「大正一五年」と「改竄」することをせずとも、
しかも、
・三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいましたという証言に従ったとしても、
何ら問題は起こらないのにである。
そこで次回からは、これらのことに関して『消された宮澤賢治-三カ月間の滞京-』というタイトルの下、少しく論じてみたい。
続きへ。
前へ 。
〝「菲才だからこそ出来た私の賢治研究」の目次〟へ。
〝『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』の目次〟へ。
〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守 ☎ 0198-24-9813
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