みちのくの山野草

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「大正15年12月2日」の現定説の破綻

2024-08-06 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地と賢治詩碑》(平成25年2月1日、下根子桜)

 さて、先に私が定立した「仮説♣」
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。……♣
には現時点では明らかな反例が見つかっていない。 
 そして、この「仮説♣」とよく似ているのが、周知の「大正15年12月2日」の「現定説❎」、
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。(*65)。……❎〈『新校本年譜』325p~〉
である。しかも、この(*65)については、
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
という奇妙な註釈がなされている。信頼度も評価も頗る高いはずの『校本全集』が、あろうことか、他人事のような言い回し「……ものと見られる。……のことと改めることになっている」を用いて、他人の証言を書き変えているのだ。その理由も根拠も明らかにすることもなく、である。

 ちなみに、この「関『随聞』二一五頁の記述」を確認してみると、
   沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までセロを持ってお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つておりましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかつた、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書、昭和45年)215p~〉
となっている。
 よって、『新校本年譜』は結果的に、この「沢里武治氏聞書」が「現定説❎」の「典拠」であるとし、その理由等も明示せずに、この上京は大正15年12月2日のことであると一方的に「訂正」したということになる。当然、賢治のことを多少でも知っている人は首を傾げるはずだ。実際に『新校本年譜』から当時の賢治の動静を拾い上げてみると、下掲の《表1 賢治の動静(大正15年12月1日~昭和2年3月1日)》、

のようになり、先ず真っ先に、この表の中に、「三か月間」の滞京(大正15年12月2日~昭和2年3月1日の)を当て嵌めることができないから、自家撞着が起こっていることに気付く。つまり、あろうことか、「現定説❎」が典拠にしているということになる「関『随聞』二一五頁の記述」それ自体が、その反例になっているのである。そしてもちろん、定説と雖も所詮仮説の一つだから、反例がある仮説は即棄却されねばならないのはずなのに。
 のみならず、「三か月間」どころか、それから一か月も経たない12月末に賢治は帰花したし、明けて昭和2年1月10日には羅須地人協会の講義等を行ったと同年譜ではなっているから、もはや、「大正15年12月2日」の「現定説❎」は破綻していると言えるのではなかろうか。

 とまれ、この「三か月間」は「現定説❎」の反例となっているので、「現定説❎」は即棄却されねばならない。年譜と雖も所詮仮説であり、反例が一個でもある仮説はそれだけで、即棄却せねばならないからだ。だから逆に、その辻褄合わせのために、『新校本年譜』は「三か月間」の滞京を無視したと誹られるかも知れない。あるいは、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている、などというなんとも奇妙な言い訳をしたのかも知れない。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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