《『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)の表紙》
こんなことも討議されていた。
まず関井氏が、
宇宙論とか死後の話が危険なのは、それを誰も証明できないことでしょう。くだらない作品なのに、埴谷雄高の『死霊』が祭り上げられるのは、証明できないことが神秘的に見えるからです。
〈『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)39p〉と、私からすれば刺激的なことを言う。すると、すかさず村井氏が、
ぼくもバカだったから、昔埴谷の『死霊』を読んでわからないからすばらしいと思ってね。それと同じですね、宮澤賢治も。
〈同〉と応える。そう、たしかに私にも「読んでわからないからすばらしいと思って」ということがしばしばある。そしてその典型が、賢治の『春と修羅』に所収されている殆どの詩篇だ。だから、「それと同じですね、宮澤賢治も」と言い添えていたことを知って、私は少しく安堵した。
これに対して関井氏は、
賢治の詩や童話は譬喩と寓意で書かれているいるから、どのようにでも解釈することができる。それは言葉が不透明だからです。その不透明な言葉に意味を与えることによって成立しているのが宮澤賢治研究なんです。
〈同〉と、その理由を教えてくれる。そういえば、『法華経』は私にはとてもわかりにくいのだが、それはそれこそ『法華経』全体が譬喩で構成されているせいなのかもしれない、等と勝手な言い訳を思い付く。
そして、「譬喩と寓意で書かれているいるから、どのようにでも解釈することができる」という論理は確かにそうだ。一意に解釈などできるわけがない。しかもそれに続けて、「その不透明な言葉に意味を与えることによって成立しているのが宮澤賢治研究なんです」と断定していたので、私は一瞬狼狽えてしまったのだが、一方で、たしかにそう言えないこともないのかな、と思ったりもする。
すると村井氏が、
それを註釈とか、そういうことするからよけいわからなくなる。
〈同〉と合いの手を入れていた。私はなぜかホッとした。
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